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『それでも私は生きていく』 感想

 「私の役目は映画に明瞭さを投下すること」
by Mia Hansen-Løve (アテネフランセ オンライントークにて)

 冒頭ロングショット、サンドラ(レア・セドゥ)が画面奥から歩いてきて、後ろからくる車を気にしながら向かいに渡る。アパートの階段を上がり、緑色のドアを挟んで鍵の開け方を家主に伝える。父、ゲオルグである。
そのファーストカットだけで大変だけど、それでも歩くしかないのよという彼女の状況が伝わってくる。なぜだろう。ただ歩いているだけなのに。
フィルムによって捉えられた美しい光が射す街の空気感が、映画を超えてそこにサンドラが生きている現実感を伝えてくるのだ。
 この映画はとにかく歩いたり、階段を登ったり、バス・電車に乗ったりと移動シーンが多い。ミアの映画は全てそうだけれど、特にこの映画はそれがフィットしていた。子育て、不倫、そして介護と日常にありふれた題材だが、映画になると途端に重くなりがちなテーマ。それらが、歩いたり移動したりすることで物語が重く停滞せずに、少しずつでも前に進んでいく。物語自身が物語を進めていくのではなく、主人公が物語を引っぱっていく。その力が映画にかろやかさを与えてくれている。それは映画にとって都合の良いものとは違う、現実感があるものだ。
 シーンひとつひとつをとっても素晴らしいものがたくさんあった。サンドラと愛人・クレマンが画面いっぱいに横たわる俯瞰ショット。ふたりの肉感が画面から伝わってくる。街中で父の教え子に声をかけられたサンドラが涙を抑えられなくなるシーン。1人バスで泣くシーン。サンドラが覆い被さるようにしてベッド上で娘を抱きしめるシーン。父と会うたびに額にキスをするシーン。美術館でフレームインするレールシーン。(ここはドキッとした)
クリスマス、大人たちがサンタの芝居をするシーン。
物語は子育て、クレマンとの関係、介護と順繰りに繰り返すように進む。それらの間にサンドラが移動するシーンが挟まることで、ただ繰り返しているだけに見えるシーンに意味をつけていく。少しずつサンドラの気持ちは変化していっている。映画全体を通してそんな感覚があった。
 しかし介護を映画で描くのは難しいなとも感じた。この映画では本物の老人たちが出演する。多くの映画で偽物の老人や認知症患者が出るのに対して、この映画は本物を映している。ただそれによってこのテーマを映画で捉えたときに出てくる嘘っぽさが解消されているかというとそうではなかった。これはどうすれば良いのか俺もわからないけど、やはりフィクションでリアルな介護を描くのは難しくて、ミアハンセンラブを持ってしてでもそれは変わらないなと思った。題材として映画的楽しさを出すのが難しいしね。(思い出した。ミシェルフランコのある終焉は良かった!)

 ミアの映画は毎回自伝的である。乗り越えた後じゃないと、映画でその問題を扱うことは難しいと池田さんが言っていた。これまでのミアの映画も乗り越えた後に撮っている感じだった。でもこの映画は今まさに問題の渦中でどう乗り越えたらいいのかわからない、でもそれを映画にする。そんなミアの気持ちを感じた。

 デイルームでリサイタルに参加する父。そこで嗚咽を堪えきれなくなるサンドラ。良い施設に父は収まり、介護はひと段落する。それからくる涙に感じた。(安心した、いやこれで良かったのか。でもこう決めたのは私たちなのだから。だとしたら父にとっては良い選択だったのか。でももう決めたことだし、時間は流れてゆく。前に進むしかない。でも…)うまく言語化できないが、それこそが映画的である。
ラスト、娘とクレマンの3人でサクレクール寺院の高台に登り夕暮れの光が綺麗なパリの街並みを見る。「あれはエッフェル塔、あっちはモンテパルナスタワー」そんな会話をしながら映画は終わりを迎えるが、見下ろすパリの街で3人の人生はこれからも続くのだ。

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