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[ドーナツチェーン店『ミスタードーナツ』] ミスタードーナツ(日本)の歴史

 今回は、ドーナツチェーン店『ミスタードーナツ』店舗の経営で有名な、ミスタードーナツ(日本)の歴史について解説します。

1970年1月、ダスキン創業者の鈴木清一さんが、ミスタードーナツを日本で展開することを決定しました。
創業者の鈴木清一さんは、株式会社ダスキンの創業者で、商品名などを考えるときに社員の意見を聞く柔軟さ・当時主流だった水を絞った布ぞうきんより洗浄力が高く、乾いたまま使えるので冬に使っても冷たくない化学ぞうきんを考案し、日本にはまだなかった「ぞうきんを買う」という文化を根付かせた改革力・清掃会社として成功しても満足せず、飲食業や水産業など様々な分野に挑戦しようという大胆さをもっていたので、経済界で有名になっていました。

そのため鈴木さんは、1960年代前半 ケネディ大統領の政策で減税や低金利政策が行われアメリカ各企業で設備投資が増加し生産力が上がったので、個人消費も伸びてダンキン・ドーナツ社やクリスピー・クリーム・ドーナツ社など、競合他社がひしめく中550まで店舗数を増やし、経営者のハリー・ウィノカーさんが1965年に、逆境の中で成功したアメリカ人経営者に与えられる賞 ホレイショ アルジャー賞を受賞したほど、アメリカで売上げを上げていたミスタードーナツ・オブ・アメリカ社に認められました。経営陣の中でしばしば意見の食い違いが起き、各幹部社員が個別で改革や投資をするのでまとまりがなく、資金繰りが悪くなり他社の子会社にならざるを得なくなっていたミスタードーナツ・オブ・アメリカ社は、『せめて日本では成功させたい』と、鈴木さんに業務提携の話をもちかけました。提案を受け入れ 業務提携した鈴木さんは、ミスタードーナツのブランドを使って国内でドーナツチェーンを展開できるようになりました。

当時 日本は、全国に工場を作りまくり 経済中心主義で突っ走ってきたため、自動車排気ガスやヘドロによる問題が浮上し、1971年に環境庁が発足し新法もでき、各企業への締め付けがきつくなりました。そのため、鈴木清一さんは『ウチでは、厳しい衛生管理・チェックを行っています』と消費者に理解してもらう事に苦労しました。
しかし鈴木清一さんはミスタードーナツを経営する中で、『金儲けをしたいなら、まず自分のことを二の次において、人に喜ばれることを地道に行っていかなければならない』事を知ることができました。

1972年6月、ミスタードーナツ社は東京進出を果たしました。
ミスタードーナツ社は、業務提携先のミスタードーナツ・オブ・アメリカ社からドーナツの作り方ノウハウをもらい、食パン1斤が65円する時代に、おいしいドーナツを1個40円で売れるほどの技術をもっていたので、巨大企業 ダンキン・ドーナツ社がすでにドーナツチェーンの店舗を拡大していた関東圏に出店しても、売上げ・利益を出す自信があり、東京に進出しました。

1971年に
「日本経済は十分回復してきたので、もうアメリカの援助は必要ありません。これまでは1ドル360円という固定レートを採用し、日本が輸出に有利な円安の環境を作り 日本企業がアメリカに輸出して稼ぎまくる事ができるようにしていましたが、これからは固定レートを廃止します」
という、ニクソン米大統領の発言(ニクソン・ショック)が起き、余分な資金のない日本の中小企業は輸出がやりにくくなりバタバタ倒産しました。景気も悪くなり、よほどおいしいものでなければ売れない世の中になりました。そのため、ミスタードーナツ社は風味にこだわる人向けに 甘く優しい香りのバニラフレーバーを入れたり、サクサク食感を出すために揚げる時に使うオイルを改良したりと、日本人に合った食感のドーナツを作ることに苦労しました。

しかしミスタードーナツ社はミスタードーナツ店舗の経営をする中で、「ものづくりの仕事は、品質第一であること」を知ることができました。
また、ミスタードーナツ社が力を入れて「日本人好みの味の商品開発」をし、強力な競合が居る業界でも稼いでいる事を知ったハンバーガーチェーンを運営するモスバーガー社は、商品の値段が高くなることを気にせず、コストをかけて味を研究し続けました。そのことにより、モスバーガー社は2020年、コストをなるべくかけずに価格勝負を続けて大きくなっていたマクドナルド社より売上げの伸び率が大きくなりました。

 1976年、ミスタードーナツ社の店舗は大阪府から食品衛生優良施設として表彰を受け、「良い店」と話題になり、1978年に北海道の店舗が、1980年に福岡の店舗が店舗あたり売上世界一を記録しました。

1981年、ミスタードーナツ社は道頓堀ショップを繁華街型モデル店舗(ドーナツだけではなく、コーンスープやココアなど、当時繁華街ではやっていたメニューを取り入れた店舗)としてオープンしました。
ミスタードーナツ社は、品質第一で商品開発に一番力を入れてきたので、「食品衛生」面などで表彰され イメージが良くなり、客数が増えあちこちの店舗で売上げ世界一を達成していました。

1970年代後半から80年代初頭にかけて、アメリカ製のものが世界で売れなくなり、製造業の会社が儲からなくなったので、アメリカでは製造業における雇用が減少しました。アメリカでは、そちらによる物不足により大規模なインフレが起き、消費者物価指数が1978年には、65.2になりました。1960年代の消費者物価指数が40を超えなかった所を見ると、かなり高い数値です。
さらに1978年末にはイラン革命が起き、イランから石油を輸入できなくなり、石油価格が14%も引き上げられ、アメリカの物価はさらに上昇しました。そのため、国民の消費が減り アメリカでは外国から輸入があまりできなくなり、アメリカに自動車やテレビ等を輸出して利益を上げてきた日本企業は儲からなくなり、日本の経済は徐々に悪くなってきました。

そのため、ミスタードーナツ社は客足をなんとか引き留めるために改革する事に苦労しました。
しかしミスタードーナツ社は、繁華街型モデル店舗(コーンスープやココアなど、当時繁華街ではやっていたメニューを取り入れた店舗)を運営する中で、流行を追うことも大切だと知ることができました。
また、ミスタードーナツ社がメニューに 繁華街で流行ってるものを取り入れる事により、同社は1982年から社員を海外に派遣し 実地研修してもらう「リーダー育成海外研修派遣事業」を行えるようになりました。こちらを知った、1961年アメリカに、飲食店のオーナーとなる人を育てるハンバーガー大学を建てたマクドナルド社は、ミスタードーナツもやっと、店舗オーナーの教育にお金をかけられるほど儲けられるようになったか と思いました。

1987年、ミスタードーナツ社は、ドライブスルー対応店舗を大阪にオープンしました。

1990年ミスタードーナツ社は、オーストラリア1号店として、シドニーに店舗をオープンしました。
ミスタードーナツ社は、流行もばっちり抑え、国民の所得の増加に伴う自動車の普及に乗るためにドライブスルーも導入し、国内では十分儲かるようになったので、海外にも目を向けようと思いました。

1989年、日本の竹下登首相とオーストラリアのホーク首相が会談し、両者の協力でアジア太平洋経済協力会議(APEC)がつくられました。APECは、加盟国の貿易円滑化を目的としているので、関税が引き下げられました。こちらにより、加盟国のオーストラリアが貿易を活発に行うようになり、オーストラリアの1990年の貿易輸入額は1988年より50億USドル以上も上がり、オーストラリアは日本から自動車だけではなく、お茶などの食品も輸入するようになりました。このようにして、オーストラリアの人々の日本に対する関心も深くなっていきました。そのため、ミスタードーナツ社は日本大好きのオーストラリアに出店すれば繁盛するんじゃないかと考え オーストラリアに出店することを決めましたが、ドーナツキングやクリスピー・クリーム・ドーナツなど、ドーナツチェーンの競合がいるオーストラリアで利益を上げるために、サービスを充実させ・商品の味を研究することに苦労しました。

しかしミスタードーナツ社は海外店舗を運営する中で、店舗を出すときにはまず、その地域の住民がどのような消費活動を行っているのかを知ることが大事と知ることができました。
また、ミスタードーナツ社がシドニーの人々の食習慣などをあまり調べず出店したので 結局撤退しなくてはいけなくなり、失敗したことを知った寿司屋やラーメン屋などの日本食チェーンは、下調べをした上で次々とオーストラリアに進出し、2000年、オーストラリアの若者を中心に日本食ブームが起きました。

1991年の経済成長率が「日本 3.42%」に比べ「中国 9.00%」なほど経済が成長しており、1900年の人口は「日本 4000万人」に比べ「中国 4億人」なほど人口が多いため、中国は売上げを伸ばしたい日本の飲食店には魅力的な市場と言われているのを見たミスタードーナツ社は、中国に進出することにしました。
1992年、チャーハンや担々麺など「飲茶メニュー」を店で提供し、中華料理を作る練習をしつつ、ミスタードーナツ社は2000年に予定した中国進出に備えました。そして2000年、中国の上海に中国一号店となるシャンヤン公園ショップをオープンしたミスタードーナツ社でした。上海を選んだ理由は、上海には1989年にフライドチキン屋 ケンタッキーの店ができ以後店舗拡大を進めたり、1990年代 イタリア人シェフがイタリア領事館の近くに本格イタリアンの店を開いたりなど上海の飲食業界には世界中から様々な味覚が参入しているので、上海の人は外国の料理を食べ慣れており、「中国風の味付けにしなければ売れないんじゃないか」などと心配する必要がなく、飲食店が比較的進出しやすいからです。

オープン当時は、中国にはドーナツ文化がなく珍しかったので、「こんな可愛いお菓子があるのか」と一時はブームになったそうで ミスタードーナツ社は店舗数を増やし最終的に10店舗まで増やしましたが、2019年3月、同社は上海地区の10店舗全ての営業を停止すると発表しました。
「2000年1月に中国では、百度という検索エンジンを提供する会社が設立され、以降 ネット上で医療機関が健康についての知識を発信したり、有機栽培食品が通販で手軽に買えるようになったため、中国の若者を中心に健康ブームが起きた。その流れで、つくるとき油で揚げたり砂糖を大量に使うので、カロリー高めなドーナツは消費されなくなってしまった。このことが、ミスタードーナツが中国市場から撤退しなくてはいけなくなった理由だろう」
食品産業アナリストの朱氏は、上のように発言しています。

このように、オーストラリア進出に失敗した件・中国進出に失敗した件をみても、ミスタードーナツ社は海外進出が苦手だと考えられますが、同社は2019年8月 他社より早くから、現金を使わずにスマートフォンでQRコードを表示して決済するau PAYや、支払いの度にポイントがたまり、たまったポイントをスマートフォンなどの通信サービス料金へ充当できるシステム、dポイントを導入しました。そちらにより、ミスタードーナツ社は売上げ・利益を増やすことが出来、一番人気の商品『ポン・デ・リング』の味の改良を進め、2020年1月からもちもち感・味の爽やかさを増大させた新ポン・デ・リングを発売できました。

こちらを見たステーキ屋 いきなり!ステーキは、2018年10月からdポイントの導入を開始し、日本マクドナルドでも2017年3月から全店でdポイントの利用が可能になりました。

今後 ミスタードーナツ社が、どのように世の中を変えていくのかに注目ですね。

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お疲れ様です。
貴重な時間を割き、お読みくださいましてありがとうございました。
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あなたはアマゾン派?楽天派?
<なとり チータラ>


次回は、カレーハウスCoCo壱番屋の店舗を全国展開する、株式会社壱番屋の歴史について解説します。



サムネイル内で使った画像の引用元:
https://twitter.com/misterdonut_jp

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97

https://www.misterdonut.jp/m_menu/donut/

https://www.misterdonut.jp/m_menu/donut/dpd01.html

https://www.ssnp.co.jp/foodservice/212880/


その100円が、まあにのゼンマイを回す