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[たこ焼き屋] 築地銀だこの歴史

 今回は、たこ焼き屋の店舗を全国展開する、築地銀だこ(つきじぎんだこ)の歴史について解説します。

 1997年、創業者の佐瀬守男さんが、群馬県総合スーパーのテナントとして「築地銀だこ」を創業しました。「キッチンの周りがガラス張りで、焼いている様子が分かる店舗」にし、また、冷凍タコを使用せず冷蔵タコを使用して新鮮な食材を使った事などで繁盛しました。

佐瀬守男さんは、ホテル旅館の経営の仕方・接客の方法などを学べる東京YMCA国際ホテル専門学校の卒業生で、学生時代 接客法を一通り学んでおり、卒業後 隣が下水処理場で人通りはないという最悪の立地で飲食店を開き、利益を出したので、学生時代に身につけた力は本物であることが証明されました。また、はじめに売り出したのは焼きそばであまり売れなかったのですが、その後も試行錯誤を重ね、時にはソフトクリームの専門店の店主と仲良くなり売れるソフトクリームの作り方を聞いたりして、おにぎりやソフトクリームなどもつくって売ったりし、諦めず店を続けました。そのため佐瀬守男さんは、鉄工所の経営をしているので経営の知識が豊富な守男さんのお兄さんや、工場を建てるためにした借金を返せず、会社が1億円の借金を背負うことになっても辞めず、お金が無くて高速道路を使えず売り場までの行き来に時間がかかるので、夜遅く帰ってから商品を作らなくてはいけない・1990年頃でバブルなので物価が高く仕入れ値や経費をなるべく下げるため工夫しなくてはいけない中、支えてくれた社員さん達に認められ、兄は仕入れ先と仲良くする方法など商売のコツを教えてくれたり、資金面で協力してくれ、社員さん達は味を研究したり、観光名所になっているため、寿司屋や和食料亭が多く、そちらを経営する食材のプロが仕入れに使うと有名な、築地の魚河岸から新鮮なタコを仕入れてくれたので、佐瀬さんはたこ焼き屋を開店できるようになりました。

1997年、インターネット・バブルにより アメリカでインターネット関連のベンチャー企業が沢山できたので、そちらによりアメリカへの輸出が増え、日本の景気が良くなりました。
さらに、1997年10月に米クリントン政権がIT・ハイテク技術の開発に莫大な予算を投入し研究者の実験やアプリケーションの開発を後押しする「次世代インターネット計画」を発表し、アメリカのハイテク企業が儲かり、これらの企業が仕事をするために、インターネット部品が沢山必要になりました。
そして、当時アジアにインターネット部品の生産工場が多くあったので「アメリカだけでなくアジアの経済も今後良くなるはず」と考えた投資家が、アジア諸国の通貨も大量購入した結果、これらの国の通貨が高くなり 外国にものを安く売れなくなり、外国にあまり輸出できなくなりました。このように、アジア諸国の企業や銀行の倒産が続出する「アジア通貨危機」が起きました。
そのためアジア経済が悪く、運搬コストの安いアジア諸国に輸出できなかったので、1997年の日本のGDPは前年より1.015%増加しただけで、1998年から低下しだしました。企業収益もあまり良くならず、1995年、1996年と伸びてきた民間設備投資額は、1997年の約78兆円をピークに激減しました。

創業者の佐瀬守男さんは「アジア通貨危機の影響を受けて、日本経済はこれから悪くなる」と考える人が増え個人消費が低迷している中でも、美味しい商品をつくったので開店初日に行列ができるほど大勢の、小さな子供から大人まで、幅広い年齢層の人にたこ焼きを売ることができました。

 商品を作るために どの製粉会社・ソース会社を選ぶべきかを考えたり、日々味を研究して美味しい商品を作り続けた築地銀だこ社は、バブル崩壊で経営不振に陥った銀行を救うために、政府が大手銀行21行に公的資金を注入することを決定し、そのために1997年の所得税の引き上げなど増税が行われ、日本全体で個人消費が低迷しているにもかかわらず、地道に売上げ・利益を増やす事ができました。
築地銀だこ社は1998年東京都にある、1958年に日本で始めてアーケード化(屋根を付ける事)され、1975年頃 天井にシャンデリアを付けたり歩道を大理石で舗装し、ショッピングセンターにも負けないぐらい豪華にしたので話題となり、多くの人が訪れるようになった 中野サンモール商店街に、路面店を開店しました。
当時 たこ焼きは、地球8.6周分の約34万3千キロを航海しても壊れなかった、伝説の大阪製帆船「あこがれ」が出場し、全国の帆船ファンを熱狂させた、世界中の帆船が集まりレースをするSAIL OSAKA '97が1997年3月に開かれたり、同年9月に国体の夏季大会が行われたりし、観光地として有名になっていた大阪のお土産としか考えられていなかったので、関東圏でたこ焼きを販売してもあまり売上げが上がらないだろうと考えられていたため、たこ焼きだけでの出店に賛同してくれるショッピングセンターが見つからず、ショッピングセンター内に店をつくることができなかったので、自分で店舗を作ってそこで売るしかなかったようです。
しかし、たこ焼きを販売して儲けることが出来たので話題になり、以降 築地銀だこ社はショッピングモールやスーパーから出店を要請されるようになり、直営やフランチャイズ形式として各地に出店して急成長しました。

 築地銀だこ社は、2011年3月に起きた東日本大震災の影響で、宮城県石巻市で死傷者・倒壊した建物が多いと聞き、「雇用や納税を通じて復興に貢献したい」として、同年12月に本社を群馬県桐生市から宮城県石巻市に移転しました。そして、新本社で働く人を現地から100人程度新たに採用しましたが、さらに、被災地からもっと採用したいという考えから、石巻市に年間約660トンのタコを加工する大きな工場や、商社を通さずに安くタコを仕入れるために必要な「仕入れ先を考える研究機関」を新設するために100億円を投資すると発表しました。
しかし、築地銀だこ社は営業利益が当時 年間3億円ほどしかなく、さらに2000年2月には100店舗だったのですが、同年11月には200店舗、2003年5月には300店舗を突破するなど、ものすごい勢いで店舗数を増やし続け、また2010年には、タコをふっくら柔らかく茹でる技術をとりこむため、関西で有名だったタコ釜飯屋を子会社化するなど、大胆に資金を使っている築地銀だこ社には、100億円を調達するのは困難な事でした。本社を移転する際にもお金が足りないので、10行以上の金融機関から借り入れを行うほどでした。しかも、非上場企業は信用が弱いので、銀行もあまり貸してくれませんでした。これでは、とても100億円に届きません。
創業者の佐瀬さんは、「必ず上場して、株式の販売や銀行からの借り入れで資金を集めてやる」と決めました。
しかし、東証マザーズに上場するためには、株主数を150人以上集める必要があります。当時はまだ たこ焼き屋で上場を果たした例がなかったため、「たこ焼き屋で上場したいので、出資して株主になってください」と頼んでも、株主になってくれる人はいませんでした。
「たこ焼き屋の株主になってくれる人は少ない。それなら、たこ焼き以外でも儲かる商品を見つけ『たこ焼き屋』以外の会社になれば、株主になってくれる人がもっと見つかるかもしれない」と考えた佐瀬社長は、2014年1月から天ぷら専門店や厳選国産鶏を使った焼き鳥屋・アイスクリーム屋・たい焼き屋を新設し、経営を始めました。また同年6月に、イオンモール社と出資し合って、アメリカ発だが世界24カ国に店舗を広げている有名コーヒーチェーン The Coffee Bean & Tea Leafとフランチャイズ契約を締結し、「ザ・コーヒービーン & ティーリーフ南青山店」をオープンしました。
しかし、当時日本では、2013年3月にいち早く会員登録すれば手軽に携帯画面をかざすだけで支払いができるシステムを導入し、2010年には国内全世帯の9.7%しかいなかったスマホ利用者が2014年には64%を超えたので、いち早く全国店舗にFree Wi-Fiサービスを取り入れたコーヒーチェーン店 スターバックスが大人気でした。そのような中で客数を増やすため築地銀だこ社は、共同出資者のイオンモール社に頼んで同社の経営するショッピングモール内に、ザ・コーヒービーン&ティーリーフの店を合計12店舗入れさせてもらいましたが、売上げがあがりませんでした。
しかし、パリの若手No.1パン職人として有名なゴントラン・シェリエさんが2012年に美味しいクロワッサンの店を東京につくり、以降 人口の多い仙台や福岡でも店舗展開していたので、若い女性を中心に人気になっていた クロワッサンの生地を使い、若い女性の心を掴みヒット商品となった 築地銀だこ社が売るたい焼きと、「冷たい石」の上でアイスと注文のナッツ・フルーツなどのトッピングを混ぜ合わせて出すという、当時大人気だったサーティワンアイスクリームやコンビニで売られていた高級アイスとは異なる趣向の 築地銀だこ社が売るアイスクリームはSNS上で話題となり、2013年度の営業利益は2012年度の約1.6倍の6億2065万円をだす事ができたので、なんとか築地銀だこ社は、株主になってくれる人を見つけることができました。
このようにして2014年9月、築地銀だこ社は東証マザーズ上場を果たし、2015年には、東証一部への上場を果たしました。

 築地銀だこ社は、2016年4月に、日本経済が2016年初期に中国の景気後退や中東情勢の緊迫などで株価が下がりがちになり 消費も低迷している中、航空機の出荷額が増え、2016年の平均年収が2015年より約2万円増え390万円を超え、さらに、市内の人口も2015年の42.4万人から42.8万人にまで増えた神奈川県藤沢市に「キッシュヨロイヅカ江ノ島店」を開業しました。キッシュヨロイヅカは2016年7月に東京 池袋に、2016年9月に渋谷にそれぞれ出店しました。キッシュヨロイヅカは店舗により、カレーライスやハンバーグプレートなどのランチメニュー、呑み放題コース、ビアガーデンなどがあり、築地銀だこ社がキッシュ以外のメニューを主導的に開発しました。
2016年12月に、築地銀だこ社は、若鶏のマスタードクリーム煮込みなどのメインや、スイーツグラタン・本格フレンチトーストなどのデザートが楽しめる、フランス料理レストラン「TOSHI STYLE」の運営会社からレストランの経営権を完全に譲受しました。
2018年10月に、築地銀だこ社は、お好み焼店「ごっつい」を展開している株式会社アイテムの全株式を取得して完全子会社としました。
ごっつい第一号店は、俳優としても活躍する伊原剛志さんが、1992年に建てました。朝ドラや、体力的にハードなヤクザ映画『仁義 JINGI』に出演するなど、ハードな芸能人生活を送る傍らで、伊原さんは 必死にお好み焼き屋を経営されていましたが、時代の変化は激しく、1995年頃からアメリカで起きたマイクロソフト社などのインターネット企業同士の技術開発競争(ブラウザ戦争)によって引き起こされたインターネットブームにより、会社の事務所にコンピュータを導入することが常識になったり、1995年前半に急速な円高が起き 景気が悪化するなど、多くの変化が起きました。そのため、「こりゃ片手間では続けられん」と、伊原さんは2000年に経営者から引退し、以降は伊原さんの妻が「ごっつい」の店を経営する事になりました。以降彼女は、ごっついの店内に赤ちゃんのおむつ替えスペースを設けたり、赤ちゃんのミルクをつくるための人肌温度のお湯のサービスを始めるなど、女性目線の工夫をしながら、飲食業界にはあまりない「赤ちゃん連れのファミリー層」をターゲットにした店をつくり、人気を集め首都圏に14店舗を展開するまでになりました。
築地銀だこ社は「今後は、さらに女性活躍が注目される世の中になるので、女性目線の工夫を重ねて大きくなった会社を子会社にし、ノウハウを学び取ろうと思った」そうです。

人気アニメ「鬼滅の刃」とコラボしたり、6月から「アツアツのたこ焼きの上に、白ネギと青じそポン酢の特製ソースをたっぷりかけたメニュー」を期間限定で発売したりと、工夫した結果、原材料費や人件費が去年よりも上がり、今年からたこ焼きを値上げせざるを得なかったにもかかわらず、客足は鈍らず、2023年12月期の純利益は以前の予想より高い14億5000万円になる見込みだそうです。

今後 築地銀だこ(つきじぎんだこ)社が、どのように世の中を変えていくのかに注目ですね。

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お疲れ様です。
貴重な時間を割き、お読みくださいましてありがとうございました。
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あなたはアマゾン派?楽天派?
<亀田の柿の種>

<なとり チータラ>


次回は、串カツ屋の店舗を全国展開する、串カツ田中の歴史について解説します。



サムネイル内で使った画像の引用元:
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https://pro.gnavi.co.jp/magazine/t_res/cat_2/a_26/

その100円が、まあにのゼンマイを回す