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[あったか讃岐うどん屋] はなまるうどんの歴史

いらっしゃいませ。情報屋『まあに』へようこそ!
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まあに店主

 今回は、讃岐うどん店の店舗を全国展開する、はなまるうどんの歴史について解説します。
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テトリス

 
クラシック


手探り経営


創業者の前田英仁(まえだ ひでと)さんは、1961年に香川県で生まれました。小中高校時代は勉強ができず、常に落ちこぼれでした。教師にいじめられたので反発し、「学校の勉強なんかしなくてもビッグになってやる」と決めたそうです。

そのため、大学に行かずに19歳で介護や先物取引の仲介など様々なことを行う会社「便利屋」を立ち上げてがむしゃらに働かれました。学校の勉強に打ち込むことにより、集中力や冷静に考える癖が付くのですが、その様な基礎力がない前田さんは、自分の会社の資金繰りをしっかり管理したり 世の中の需要を見極めることが上手くできず、おまけに判断ミスをして、20代前半で詐欺グループ 豊田商事に協力することになってしまうなど、様々な苦労をされたようです。それでも、様々なことを経験する内に世の中を分析して「儲かりそうなもの」を見つける目を養うことができた前田さんは、25歳頃に衣料品の卸売会社 エイジェンス社を立ち上げ、立ち上げてから14年後の2000年には社員を60人ほど雇える規模になったので、アパレル卸業だけではなく飲食部門や介護部門もつくれるようになりました。

1998年 日本経済は低迷しており消費も落ち込んでいたので、この時期にアパレル卸売企業を大きくした前田社長は流石です。

1980年代後半に、韓国より人件費の安いタイやマレーシアなどの東南アジア諸国が、工業製品の輸出に積極的になりました。さらに、1960年代から1980年代までの間 多くの韓国企業は、日本から最先端技術を使った部品を輸入し、そちらを使って工業製品を作り、それをアメリカに輸出して稼いでいたので、韓国企業はあまり高い技術を持っていませんでした。
高い技術を必要としない製品はタイやマレーシアがつくって輸出するようになり、これらの国々が作れない最先端技術を使った製品をつくって輸出しようにも技術がないため作れず、韓国はこれまでのように、国内でつくったモノを輸出する事によって儲けることが出来なくなりました。
そして国内の景気が悪くなってきたので、韓国政府は物価を下げるために、1980年代後半に通貨の切り上げを行いウォン高にしました。ウォン高になったので、韓国で作って輸出しても儲からなくなった韓国企業は、生産拠点をタイやマレーシアに移しました。
しかし1997年末になると、東南アジアの経済がガタガタになったアジア通貨危機の影響を受け、東南アジアに生産拠点をもつ韓国企業は儲からなくなりました。韓国の大手自動車メーカー 起亜株式会社が倒産寸前になり法定管理(日本で言う会社更生法の適用)を申請したり アメリカの格付け機関が韓国の国家信用格付けを落とし韓国企業の株価が暴落するなど、1997年に韓国経済はめちゃくちゃになりました。メチャクチャになったので1997年11月には、韓国政府が国際通貨基金(IMF)へ救済を要請する事態となりました。

このように、1997年末から韓国経済は低迷し始めており、日韓貿易の輸出入総額は「1997年:4.9兆円」から「1998年:3.6兆円」にまで下がりました。そのため、1998年の日本の経済成長率は-1.3%まで下がってしまいました。

そのため日本経済は、大部分の業種が減収減益に見舞われる「日本列島総不況」となりました。経済活動が低迷していたので卸売物価(企業間で取引されるモノの価格)は下落傾向を続け、日本の1998年のインフレ率は1997年より1%以上低下しました。その中でアパレル卸売企業を大きくした前田社長は流石です。

実力を認められた前田社長は、2001年11月にリサイクルブックストアの大手「フォー・ユー(今のセカンドストリート)」社の新谷幸由社長に出資してもらい、無事香川県にはなまるうどん店舗を作ることができました。(出資比率: エイジェンス社60%、フォー・ユー社40%)。

1990年代半ばからインターネットが普及して紙の本の需要が減ったのと、導入された1989年(平成元年)から3%で抑えられていた消費税が1997年から5%に上がり「モノを仕入れて売る」小売店の売上げが減ってしまったことにより、出版物の推定販売金額は「1996年:2.7兆円」から「1999年:2.5兆円以下」まで下がり、まだまだ下がる勢いでした。
古本の小売りだけでは稼げない時代が来ると思われた新谷社長は、飲食業にも参入したいと考えました。
最近ブームになりつつある「讃岐うどん」の波に乗ろうと考えられた新谷さんは、これからうどん店を展開しようとする前田社長のエイジェンス社に出資したり、うどん職人を集めて資金を提供し 2002年10月に子会社を作ったりしました。しかし、新谷さんは自分にはうどん作りのノウハウがないので現場を指導する力はないと思ったのか、前田さんは新谷さんに口出しされることなく 自由に運営できたみたいです。そのため前田社長は、自ら素材・調理法を吟味してうどん屋を運営することができました。

さまざまなうどん店をみて、うどん店は大抵店内が汚くしかも値段が高めで、女性や学生の客が少ないということに気がついた前田社長は、彼らを客に取り込むことができれば儲かるんじゃないかと考え、店内の掃除を徹底し 当時かけうどんは平均的な金額が180円だったのを自社の店舗では100円まで値段を下げました。さらに、家族連れが来やすいように駐車場も用意しました。
狙い通り、女性や学生・家族連れを客層に取り込むことができ、思った通りの売上が出たようです。これから香川県だけでなく四国全域や関東にも店舗を広げたいと語った前田社長に対し、社員は「値上げして客単価を上げなければ、店舗展開のための資金を稼ぐことができないのでは」と不安の声を上げましたが、前田社長は
「100円でかけうどんを提供する というのが我が社の売りでありブランドであるから、これを崩すと客の信用を失う」
と言い決して譲りませんでした。
「その代わり、天ぷらやおにぎりなどトッピングの種類を増やし、これらの販売によりしっかりと利益が出るように価格設定する。かけうどんだけ食べて帰る人は少ないはずだから、トッピングが売れて、利益が出る」
と付け足しました。こちらの作戦は大当たりし、2002年9月に東京に初進出し 渋谷区に店を開店したときは、テレビや雑誌で「本場香川の讃岐うどん、1杯100円から」と特集され話題となり、はなまるうどん社は2004年にはチェーン店全体の年間売上高が100億円を軽く超え、店舗数を「2002年:27」「2003年:158」「2004年:197」と増やす事ができました。

創業社長 引退からの再出発


2002年は、日本国内の外食産業の市場規模が小さくなっていたのですが、その中で、運営する飲食店の規模を大きくしたはなまるうどん社は流石です。

1989年にベルリンの壁が崩壊し東西統一が成し遂げられましたが、その後 東ドイツだった地域にある多くの工場が時代遅れだったので競争力がなく、企業倒産・失業者・経済格差などが生じてしまい、これらを解決するためにドイツ政府は巨額の支出を行う必要が生じました。そのため、ドイツは経済が低迷し「欧州の病人」と言われる状態になってしまいました。
自動車や産業機械などの製造工場が沢山あり、古くから製造業が盛んなドイツは、工業製品が域内で活発に商取引されているEUの原加盟国なので、輸出しまくることによってなんとか1990年には名目GDP世界第3位にまでのし上がりました。

1982年頃から政府が援助してモバイル製品やインターネット関係などのハイテク技術の研究所が建てられ、以来大成長を遂げ 世界中の大実業家によって構成される世界経済フォーラムに「経済競争力 世界一」と表彰されたフィンランドが、1995年にEUに加盟してEU域内の貿易がさらに盛んになった事・1990年代後半に世界中でITブームが起き機械類の需要が増えた事 も幸いし、ドイツは経済成長が続き、東西ドイツが統一されて1年経った1991年に266.7億ドルあったドイツの経常赤字は、2001年には71.6億ドルまで減りました。

しかし、2000年末からアメリカの金利引き上げをきっかけとして、ぼちぼち世界のITブームがおさまり、輸出が困難となったドイツの経済成長率は「2001年: 1.7%」「2002年: -0.2%」と落ちてしまいました。

このように、2002年はじめからドイツ経済は低迷し始めており、日独貿易の輸出入総額は「2001年:3.4兆円」から「2002年:3.3兆円」にまで下がりました。そのため、2002年の日本の経済成長率は0.0%まで下がってしまいました。

2002年の、高いほど消費者行動が活発なことを示す日本のインフレ率は、2001年よりさらに低い-0.90%でした。2002年の国内の外食産業の市場規模も、2001年より小さくなりました。その中で、運営する飲食店の規模を大きくしたはなまるうどん社は流石です。

はなまるうどん社は2004年5月に、牛丼屋 吉野屋を運営する吉野家ディー・アンド・シー社と資本業務提携(企業同士が相互に自社の株式を譲渡することによる業務提携)をしました。

吉野家は2003年12月、アメリカでBSEに感染した疑いのある牛が発見されたので、アメリカから安全な牛肉を輸入できなくなり、2004年には備蓄していた牛肉が尽きてしまったので、ついに同年2月から牛丼を販売できなくなりました。吉野家は代わりに豚丼やカレー丼などを売り出しましたが、慣れない新メニューなので商品開発のためにお金がかかったり つくるために余計なコストがかかってしまい、値段を上げざるを得なくなりました。
2004年は、政府の減税や不動産の価格が上がり続けていたことにより人々の生活が豊かになり個人消費が伸びたアメリカや、アメリカに輸出して膨大な外貨を稼ぎ チベットや青海省(チベットの右側に位置し 牧畜業・石炭や鉄鉱石などの採掘が盛ん)など、国内の西部地域の開発も進みつつあったので、都市部で不動産バブルが起きるほど景気が良くなりすぎた中国の石油消費量が増えました。
それらに引っ張られるように、2004年の世界全体の石油需要は2000年より約500万バレル/日も増えました。そのため、ぼちぼち石油価格が上がってきており、それにより物価も上がり2004年後半には消費の伸びが鈍化しました。
吉野家の豚丼は値段が高かったのもあり、物価が上がってきた世の中であまり売れず、2004年度の吉野屋ディー・アンド・シー社の売上高は前年比16.4%ダウンとなってしまい、その上 営業・経常とも損失を計上したほどでした。牛丼屋「すき屋」を運営するゼンショー社は吉野屋と同じ理由で2004年2月から牛丼の販売を停止していましたが、牛肉輸入先をオーストラリアに変えたので、同年9月から牛丼の販売を再開することが決まりました。しかし、吉野家はなかなかアメリカ以外の輸入先を確保することができず、牛丼販売を復活させることができませんでした。このままではヤバいと考えた、吉野家ディー・アンド・シー社経営陣は、高松と千葉に大きな製麺工場をもっており、店舗数も「2002年:27」「2003年:158」「2004年:197」と増えていた 勢いのあるはなまるうどん社の株を買い取り、利益を分けてもらおうと思ったのでした。

はなまるうどん社経営陣も、多店舗化を急ぎすぎたため資金繰りや人員の確保ができなくなったことと、2004年11月に香川県農協がうどん用小麦の産地を偽っていたことが発覚したり、浄化装置を用意できない小規模うどん店が、富栄養化が進む原因となるうどんのゆで汁やだし汁をそのまま川に放水していることが問題視されたりして うどんのイメージが悪くなりうどんブームが去ってしまったことと、国内ではサガミや丸亀製麺などうどんを扱う競合店が増えてしまったことにより、経営が危なくなっていたので、そろそろ海外展開しなくてはヤバいと思っていました。
そのためはなまるうどん社は、1975年に牛丼屋をアメリカにつくり1995年にはアメリカの有名な野球場内に出店し、1990年代にも香港やフィリピンなどアジア諸国に店をつくりまくり、1995年には、日本のキリンビール社の韓国事業部が大きくなってできた韓国大手商社 ドサンコーポレーション(斗山商事)と「韓国で吉野屋店舗を展開する」フランチャイズ契約を締結するなど、海外展開に成功していた吉野屋と業務提携しノウハウを吸収しようと思いました。
はなまるうどん社と吉野屋ディー・アンド・シー社は、2004年5月から資本業務提携を開始しました。

業務提携して 海外展開のノウハウを手に入れても、静岡県に大きい製麺工場を建てるために予算を割く必要があり、しかも2005年度の売上高は前年度比2.4%減と業績も良くなかったので、店舗数を前年より6.1%も減らさなくてはいけなかったほど社内にお金が無かったはなまるうどん社は、なかなか海外に進出することができませんでした。

業績・財務状況が良くないはなまるうどん社の経営陣は、創業者社長の前田英仁(まえだ ひでと)さんが20代前半の頃、詐欺グループ 豊田商事の活動に協力していた事実が週刊誌で騒がれ出してもうそろそろ社長辞任しなくてはいけないという所まで来ていたということもあり、この先は吉野屋ディー・アンド・シー社に会社を運営してもらおうと考え、はなまるうどん社は2006年5月から同社の連結子会社になることにしました。

さすがに明治から営業を続けているので、関東大震災による店舗焼失や仕入れ先の変更を余儀なくされたこと、戦後の強烈なインフレを乗り越えてきた、百戦錬磨の吉野屋ディー・アンド・シー社(2007年から社名を吉野屋ホールディングスに変更)は子会社 はなまるうどん社の会社経営が上手く、2009年はじめから「月500円払って定期券を買うと、お得に毎日うどんが食べられる」うどん定期券を使える店舗を拡大したり、青汁市場が拡大し始めた2008年から増えてきた野菜不足を気にする人のための「うどんにぶっかけると美味しいサラダ(189円)」の販売を始めたことなどにより、はなまるうどん社は売上高・利益を順調に増やし2009年のはなまるうどん店舗数は253店舗に達し、2010年に上海万博で出店したことをきっかけに中国出店を開始、念願の海外展開を開始できました。

前進、前進、前進!


 「2015年:350」「2016年:400」「2018年:500」と店舗数を増やし、2019年には、冬に嬉しい「ぽかぽかあんかけうどん」や夏バテ防止に良い「とろ玉めかぶぶっかけ」など 新商品を販売開始したはなまるうどん社は、2020年には2016年より90億円以上多い営業収入を得ました。

今年は、原油価格や小麦価格の上昇により、丸亀製麺やサガミ社など大手うどんチェーンでも2023年10月の売上高が同年2月より20%ほど下がったので、日本政府は企業が小麦製品を売りやすくするために、輸入小麦の政府売渡価格(政府が一度買い取った輸入小麦を、国内製粉メーカーなどに売り渡す際の価格)を「2023年4月期:76750円/トン」から「2023年10月期:68240円/トン」まで下げました。
そちらもあり、はなまるうどん社を経営する吉野家ホールディングスは、小麦を使うラーメン屋やパン屋などがこれから値下げをし 消費者が買いやすくなると考え、2024年3~5月には外食需要が回復するのではないかとみているようです。その恩恵を受け、はなまるうどん社の来年度の売上高は、2023年度より増えるとみられています。

しかし、はなまるうどん社は気を抜かず、今年も「激辛の麻婆うどん」やだしたっぷりで温まる「牛すきうどん」などの期間限定メニューを次々開発・発売し、「うどん一杯を購入すると、天ぷら1品が無料」や「はなまるうどん公式アプリリニューアル1周年を記念して、約1ヶ月間うどん100円引き」など、お客さんを喜ばせるさまざまな工夫を行っています。

今後 はなまるうどん社が、どのように世の中を変えていくのかに注目ですね。

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お疲れ様です。
貴重な時間を割き、お読みくださいましてありがとうございました。
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 次回は、生きている讃岐うどん屋「丸亀製麺」を全国展開する、丸亀製麺の歴史について解説します。
2024年1月14日(日)提出です。お楽しみに。

まあに店主

サムネイル内で使った画像の引用元:
https://www.kinokuniya.co.jp/images/goods/ar2/web/imgdata2/large/40621/4062121409.jpg

https://sasebo-5bangai.com/shoplist/wp-content/uploads/2019/10/shop512201-HANAMARU_logo.png

https://www.hanamaruudon.com/assets/img/menu/single/kv-item-01_6.png

まあには見た!

上の記事から学んだ事:
小麦粉製品や大豆などを海外から輸入して国内で販売している三菱商事は、日本政府と協力して海外での天然ガス採掘事業を行っている。
首都圏のスーパーマーケットなどに輸入してきた食料を販売している丸紅や、パーム油や食肉などを輸入してきて国内で売る伊藤忠商事は、日本政府との共同出資でロシアでの石油・天然ガス採掘プロジェクト「サハリン1」を行っている。

商社と仲良くしたい日本政府はおそらく、三菱商事や丸紅などの商社の顔色をうかがいながら政治をしています。大手商社と安倍派国会議員が政治資金パーティ関係で繋がっていたという噂もあります。
https://news.yahoo.co.jp/articles/550fa4768ef389ccefff0e9e159d81ffa6dc0e81?page=1

食料を自国で作れるようになり輸入する必要がなくなると、三菱商事などの輸入商社が儲からなくなるので、商社と仲良くしたい日本政府は基本、食糧自給率を上げることに反対する傾向にあります。しかしそれではヤバいということが、おっちゃんねるさんの記事から分かります。

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上の記事から学んだ事:
教授のデータによると、日本人の賃金は上昇傾向にありますが、こちらがどこまで続くかは分かりません。理由は上のブログ記事(のコメント欄)にある通りです。

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上の記事から学んだ事:
過去、昼食時間にはほぼ毎日ホテルレストランに通っていたほど、美食家の西田さんが、生き残る飲食店はどのような飲食店か語ってくれてます。

ちなみに私は、これからも永遠に「経済のおもろ話×飲食店の詳しい歴史」という いつも変わらない安定のテーストの記事を、書き続けます。

その100円が、まあにのゼンマイを回す