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明智光秀、人生の分岐点「今堅田合戦」

2020.12.13放送『麒麟がくる』第36回「訣別」を見ていた。

足利義昭「儂は、信玄と共に戦う。信長から離れろ」
明智光秀「それはできませぬ! 御免!」

明智光秀が足利義昭から「訣別」──。
これは「三方ヶ原の戦い」の数日後、元亀3年12月26日頃の話でしょう。

 ──さて、次は「今堅田城攻め」だな。

とワクワクしていたら、「そして、元亀4年3月、将軍・足利義昭は、畿内の大名を集め、織田信長に対して兵をあげたのでした」とナレーションが…。よもや、よもやの「今堅田城攻め(元亀4年2月29日)スルー」(;_;)

2月26日 石山城(大将:山岡景友)、開城し、城割。
2月29日 今堅田城、落城。
5月24日 明智光秀、戦死した家臣18名を供養(「西教寺文書」)


 明智光秀は、『麒麟がくる』では、幕臣(足利義昭の家臣)であり、『明智軍記』では、織田家家臣であり、学説では「両属」である。
 学者に「明智光秀がいつ足利義昭から離れたのか?」と問うと、「元亀4年(1573年)2月29日の今堅田城攻めの時は、確実に足利義昭から離れた織田家家臣であり、そこからどこまで遡れられるか研究中」とのことである。
 明智光秀が取次・曾我助乗に出した書状には、「足利義昭にお暇を願い出た」とあるが、残念なことに年月日が書かれていない。この書状とは別に、元亀2年12月20日付曾我助乗宛の土地問題に関する書状があるので、その少し後に出されたのではないかと思われる。明智光秀は、元亀2年9月12日「比叡山焼き討ち」の功績により、織田信長から志賀郡を与えられて、土地問題を起こすも、足利義昭から離れても金銭的に生活できる状態になったので足利義昭から離反したと考えられるので、離反時期は「元亀2年9月12日の比叡山焼き討ち~元亀4年(1573年)2月29日の今堅田城攻めの間」であろう。
 私としては「織田信長から志賀郡を与えられて、心が織田信長に傾いた」と思う。(足利義昭では、功績を上げても広い領地はもらえない。「幕臣=公務員(功績が給料に反映されない)で、織田家=功績に応じて社員に褒美を与えるブラック企業」といったところか。)
 前々回の放送では「織田信長が道を踏み外せば、坂本城を返し、二条城に立て籠もる」(迷うこと無く、将軍一択)、前回の放送では、妻・煕子に「足利義昭か、織田信長か」と聞かれて「迷っている」と答えた明智光秀であったが、二条城に鵠を持っていった時に、足利義昭から「一緒に織田信長を討とう」と頼まれて「足利義昭との訣別」に踏み切った。岐阜城で鵠を受け取る時、元亀3年12月22日夕刻の「三方ヶ原の戦い」の報告を受けているので、ドラマでの足利義昭からの離反は、(三方ヶ原から岐阜への情報伝達に2日、岐阜から京への移動に2日として)元亀3年12月26日であろう。
 史実として、この頃は、足利幕府の情報は、明智光秀に替わって細川藤孝が織田信長に流していた。織田信長は、元亀2年10月14日、細川藤孝に居城・勝龍寺城の改修を命じている。織田信長から志賀郡を与えられた明智光秀は、織田信長に足利義昭から離反の決意を伝え、自分の後任として細川藤孝を紹介したのであろう。織田信長の「17ヶ条の異見書」は足利義昭のことをよく知っている人間でないと書けない。原案は細川藤孝が書いたのでは?

【戦国未来説】足利幕府の情報を織田信長に流していた明智光秀は、志賀郡を与えられてその役を終え、細川藤孝と交替した。そして、細川藤孝の流した情報により「17ヶ条の異見書」が制作された。

1.石山合戦&今堅田合戦


 まずは、石山合戦と今堅田合戦の概要について、太田牛一『信長公記』(巻6)を読んでお勉強。

【現代語訳】
 「遠江国方面では武田信玄が攻め寄せ、近江方面では浅井久政&長政父子、及び、朝倉義景の大軍に攻められて、虎御前山城は守るのに手一杯で、八方塞がりの状態となっている」と、下々の者が(足利義昭の)御耳に入れたためだろうか(足利義昭は強気であった)。
 とはいえ、織田信長は、これまでの忠節が虚しく消え、都や田舎の人々の笑いの種になることを無念に思い、日乗上人、島田秀満、村井貞勝の3人を足利義昭のもとへ遣わし、要求の通り、人質と誓紙を差し上げて、等閑(とうかん、なおざり)にしなど、種々様々に申し述べたが、和談は至らならなかった。
 そればかりか、足利義昭は、光浄院暹慶(後に還俗して山岡景友)、磯貝久次、渡辺党へ内々にお言葉をかけられ、彼等の力量で、今堅田城に軍勢を入れ、石山寺を城として改修していた。これに対し、織田信長は、すぐに、「追い払え」と柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆の4人に命令した。
 2月20日に出陣し、24日には瀬田を船で渡って石山城を攻めた。石山城には、光浄院暹慶が、伊賀&甲賀衆を率いて在城していた。しかし、普請(普請=土木工事、作事=建設工事)が終わっていなかったので、26日には降参し、城兵が退散したので、石山城を破壊した。
 29日の辰の刻(午前8時)から水城・今堅城への攻撃を開始した。明智光秀は、囲い船で、水上を東から西へと攻め寄せ、丹羽長秀と蜂屋頼隆の2人は、陸上を南東から北西へ向かって攻めた。遂に午の刻(正午)に明智隊が攻め口を破って城内へ押し入り、敵兵数多を斬り捨て(今堅田城は落城し)、これによって志賀郡の大部分は鎮まり、明智光秀は坂本城に帰城した。
 柴田勝家、蜂屋頼隆、丹羽長秀、蜂屋頼隆の3人もそれぞれの居城に帰城した。
 足利義昭は、織田信長に敵対することを天下に示した。これを噂話が大好きな京童(京雀)は、
 かぞいろと やしなひ立てし 甲斐もなく いたくも花を 雨のうつ音
(花を雨が打って散らそうとしている。これでは、両親と育ててきた甲斐がなくなる。同様に、織田信長は、将軍・足利義昭のかぞいろ(両親。ここでは父親)となって(将軍・足利義昭を)育ててきた甲斐も無く、将軍・足利義昭を討つことになった。痛々しくも「花の御所(将軍御所、二条城)」を雨が打ちつけている音がする。)
と落書して洛中に立てた。

【原文】「石山&今堅田攻められ候の事」
 然るところ、遠州表は、武田信玄差向ひ、江北表は浅井下野、同備前父子、越前の朝倉、彼等の大軍に取合ひ、虎後前山番手半(なかば)に候て、方々御手塞(ふさがり)の由、下々申し候につきての儀に候哉。
 然りと雖も、信長公、年来の御忠節むなしく候はん事、都鄙(とひ)の嘲笑、御無念におぼしめされ、日乗上人、島田所之助、村井長門守、三使を以て、御好みのごとく、人質並に御誓紙御進上なされ、御等閑なき趣、種々様々御嘆き候と雖も、御和談これなし。
 結句、光浄院、磯貝新右衛門、渡辺体の者、内々御詞(ことば)を加へえられ、彼等才覚にて、今堅田へ人数を入れ、石山に取出の足懸りを構へ候。
則ち追ひ払うべきの旨、柴田修理亮、明智十兵衛尉、丹羽五郎左衛門尉、蜂屋兵庫頭、四人に仰せ付けらる。
 二月廿日に罷り立ち、
 廿四日に勢田を渡海し、石山へ取り懸け候。山岡光浄院、大将として伊賀・甲賀衆を相加へ、在城なり。然りと雖も未だ普請半作の事に候間、
 二月廿六日降参申し、石山の城退散。則ち破却させ、
 二月廿九日辰の剋、今堅田へ取り懸け、明智十兵衛囲舟を拵へ、海手の方を、東より西に向つて攻められ候。丹羽五郎左衛門、蜂屋兵庫頭両人は、辰巳角より戊亥へ向って攻められ候。終に午の剋に、明智十兵衛、攻め口より乗り破り訖んぬ。数輩切り捨て、これによって、志賀郡過半を相静め、明智十兵衛坂本に在城なり。
 柴田修理、蜂屋兵庫頭、丹羽五郎左衛門両三人帰陣候ひしなり。
 公方様、御敵の御色を立てさせられ候ひしなり。
 京童が落書に云ふ、
  かぞいろと やしなひ立てし 甲斐もなく いたくも花を 雨のうつ音と書き付け、洛中に立て置き候ひし。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/102

 足利義昭は、明智光秀の離反をけしからんと思ったのでしょうか? 嫌がらせなのか、明智光秀領である志賀郡の人々に声をかけて、石山城と今堅田城の築城を開始したようです。そして、織田信長は、明智光秀に手を差し伸べた。

2.「石山城攻め」(石山合戦)


 石山城(滋賀県大津市石山寺一丁目)の大将は、三井寺光浄院の僧・暹慶(せんけい)です。彼は山岡景之の4男で、瀬田城主・山岡景隆の弟になります。(山岡景隆&景友(元・暹慶)兄弟は、「本能寺の変」の直後、京都と安土城を結ぶ「瀬田の唐橋」を焼いたことで知られています。)
 暹慶は、政所代・蜷川親長(摂津晴門の後任である政所執事・伊勢貞興はまだ若い)と親交があり、足利義昭の寵臣であって、元亀3年(1572年)5月8日には、足利義昭により、上山城の守護に補任されています。

 足利義昭の京都追放後に還俗して山岡景友と称し、織田家家臣となりました。佐久間信盛の与力となったようです。(後年、再び剃髪して「道阿弥」と称しました。)

 石山合戦では、自ら石山城に立て篭もって抗戦しましたが、まだ築城中であったこともあり、26日に柴田勝家に攻められると、織田方に付いた兄・山岡景隆の説得を受けて降伏、開城しました。

 明智光秀の担当は、「今堅田城攻め」で、「石山城攻め」は担当外だったようです。
 なお、明智光秀の元には、合戦の1週間前、革島忠宣の家臣・与惣次が、木戸表での革島忠宣の活躍の報告に来ています。また、24日付の手紙には、「猶々明日至今堅田取懸之条」とありますが、『信長公記』では、石山合戦が先で、今堅田合戦は29日だとしています。
 

元亀4年2月14日付革島忠宣宛明智光秀感謝状(「革嶋文書」)
御家来与惣次参候。然者、昨日、木戸表御働、数ヶ所致御手之処、当敵被討取之段、御手柄不及是非候。御手養生専要に候。恐々謹言。
            明十兵
  二月十四日        光秀(花押)
   河嶋刑部丞殿

・明智光秀は、革島忠宣の滋賀県大津市木戸方面での戦功を報告に来た革島忠宣の家臣・与惣次から聞いて褒めた。
元亀4年2月24日付革島秀存宛明智光秀書状(「革嶋文書」)
 猶々明日至今堅田取懸之条、即時遂本意、追而御吉左右可申入候。以上。
為御見舞御状執著之至候。仍爰元之儀、如最前限木戸表一円に申付候。今少、今堅田に敵、楯篭候。雖然、落居可為近日候条、可御心易候。隨而其元御雑説候由、無御心元候。御用之儀可承候。将亦刑部丞殿御手被得少験候由、珍重候。猶期後音候。恐々謹言。
            明十兵
  二月廿四日        光秀(花押)
   河嶋市介殿 御返報

・明智光秀は、弟・革島忠宣(後に第20代宗主)の滋賀県大津市木戸方面での戦功を褒め、傷を心配しながらも、今堅田城に敵が少々立て篭もっているので、明日、攻めるという。また、兄・革島秀存(現革島家第19代宗主)については、雑説(種々な風説、噂)があるので、心もとないという。

3.「今堅田城攻め」(今堅田合戦)が重要な理由

理由① 「今堅田城攻め」は人生の節目の戦い

 大河ドラマ『麒麟がくる』の明智光秀は、幕臣(足利義昭の家臣)であり、『明智軍記』の明智光秀は、織田家家臣です。そして、学説は「両属」です。
 学者に「明智光秀がいつ足利義昭から離れたのか?」と問うと、「元亀4年(1573年)2月29日の今堅田城攻めの時は、確実に足利義昭から離れた織田家家臣であり、そこからどこまで遡れられるか研究中」とのことです。
 大河ドラマ『麒麟がくる』でも「今堅田城攻め」は、「それはできませぬ! 御免!」と言って足利義昭と「訣別」した後の最初の戦いであり、その時、明智光秀が何を思い、どう行動したかというのは、ドラマでは見せ場となるはずなんですが・・・。

 「元亀4年2月23日付細川藤孝宛織田信長書状」(「細川家文書」)には、「今堅田城攻め」については「志賀辺之事」として、次のようにあります。

元亀4年2月23日付細川藤孝宛織田信長書状(「細川家文書」)
封書墨書「細川兵部太輔殿 信長」
公義御逆心、重而、条目執著不残候。
一、塙差上、御理申上候処、上意之趣、条々被成下候。一々御請申候。並塙可差上処に、眼相煩に付て、友閑、島田を以申上候。質物をも進上仕、京都之雑説をも相静、果而無疎意通可被思食直候歟。
一、摂州辺の事。荒木対信長無二之忠節可相励旨尤候。
一、和田事。先日、此方へ無疎略趣申来候。若者に候之間、被引付、御異見専一候。
一、伊丹事。敵方へ申噯之由候。就和田令異見之由、神妙候。此節之儀者、一味候様に調略可然候歟。
一、石成事。連々無表裏無仁之由聞及候。今以不可有別条候哉。能々相談候て可然候。
一、無事相破候上には、敵方領中分誰々も、先宛行被引付簡要に候。
一、遠、三辺の事。信玄、野田表去17日引散候。並志賀辺之事。一揆等、少々就蜂起、蜂屋、柴田、丹羽出勢之儀、申付候。定可為渡湖候。成敗不可入手間候。
 世間聞合可申付ため、近日至佐和山、先可罷越かと存候。不円遂上洛、畿内之事平均に可相静段、案中に候。連綿入魂無等閑通、此節相見候。弥才覚不可有御油断候。恐々謹言。
  二月廿三日  信長(「天下布武」黒印)

志賀辺之事。一揆等、少々就蜂起、蜂屋、柴田、丹羽出勢之儀、申付候。定可為渡湖候。成敗不可入手間候。 

(明智光秀領の)近江国志賀郡周辺の事。一揆等が少々蜂起に就き、蜂屋頼隆、柴田勝家、丹羽長秀に出陣を命じた。定めし琵琶湖を船で渡ることになろう。成敗(一揆の鎮圧)には、手間がかからない(すぐに終わる)であろう。

 大河ドラマ『麒麟がくる』で、明智光秀が「志賀郡2万石を拝領」と聞いて、「志賀郡5万石の間違いでは?」と思った方が多いと思います。
 織田信長が与えた志賀郡は5万石ですが、明智光秀が確実に得たのは延暦寺領を中心とする2万石であり、残り3万石は、織田信長に言わせれば、平定できておらず、「一揆が蜂起する地」であり、今回の石山合戦&今堅田合戦を終えて、ようやく「志賀郡過半を相静め」(『信長公記』)となり、明智光秀領が5万石に近づいたことになります。

 また、上掲の細川藤孝宛の手紙に明智光秀の名が無いのは、明智光秀は志賀郡の坂本城に在城して工事の指揮をとっており、志賀郡へ「送り込んだ」「出陣させた」という意識がないためでしょう。基本的には、「志賀郡の領主・明智光秀の戦い」であって、蜂屋頼隆、柴田勝家、丹羽長秀は援軍扱いかと。

坂本城:築城時期の詳細は不明。『永禄以来年代記』によれば、元亀2年に築城工事が始まり、『兼見卿記』によれば、明智光秀は、「今堅田合戦」の2ヶ月後の元亀4年6月28日に完成した坂本城に移ったという。

《近江国(琵琶湖畔)に配置された織田信長の家臣》

・木下秀吉:横山城(滋賀県長浜市石田町の山城)
丹羽長秀:佐和山城(滋賀県彦根市古沢町の山城)
蜂屋頼隆:? 天正2年からは肥田城(滋賀県彦根市肥田町の平城)主
柴田勝家:長光寺城(滋賀県近江八幡市長福寺町の山城)
・中川重政:安土城(滋賀県近江八幡市安土町の山城・観音寺城?)
・佐久間信盛:永原城(滋賀県野洲市永原の平城)
・明智光秀:坂本城(滋賀県大津市)=水城で「囲い船」が出入りできた。

理由② ビジュアル的に優れた戦い


 水城・坂本城から囲み船が出航し、
 水城・今堅田城の水路に入って水上から大筒を放つ。
 (「大筒の術」は明智光秀が得意とするところ。)
 燃える今堅田城。狼狽える城兵──。
 着岸して城へ突入する明智隊──。

 大変不謹慎な言い方ですが、「ビジュアル的に優れた戦い」かと。
 「視聴率が上がる美味しい戦い」かと。省略するのは勿体ないかと。

 「囲い船」の詳細は不明です。甲板の周囲を板で囲い、その板に開けた穴から弓や鉄砲を放った兵船でしょうか? その板に鉄板を貼ったのが「鉄甲船」かな?

『明智軍記』(第5巻)「将軍被擬誅信長事、付堅田城攻落事」
 堅田に敵勢有りと聞きて、又、舟に取り乗り、2手に分かちて向かひける。
 一方には蜂屋兵庫、丹羽五郎左衛門を先として、同29日の早朝に堅田の南なる松原の辺に舟を寄せ、外郭(そとぐるわ)を打ち破らんと喚(をめ)き叫んで攻めにけり。城中にも究竟の兵、武具を揃へ、一命を軽んじ防ぎ戦ふ事、甚だし。
 明智十兵衛も一方の大将として、舟を敵城の艮(うしとら)なる海上4、5町外に漕ぎ並べ、棒火矢、乱火(らんか)など云ふ大鉄砲を30余挺、一度に城中へ打ち懸けたりければ、小屋、城戸、櫓など10余箇所に火、燃え付きたるに、折節、北風、吹きける依て、炎、盛んに燃え上がりけるを、城中の者、周章て騒ひで、敵を防ぐべき事を忘れ、火を打ち消さんとひしめきけるを、明智光秀、遥かに見て、采配を取りて、諸軍を下知し、急ぎ舟共を城際へ漕ぎ寄せさせ、十文字の鎌、鑓を揃へ、塀の棟木に打ち掛け、曳々(エイエイ)声を出し引きければ、塀、7、8間倒して、石垣の下にぞ落ち入りける。寄せ手、弥々(いよいよ)競ひ進んで、石垣を掘り崩さんと鉄砲を取り直し、金手子(かなてこ)と号(なづ)けて、石どもを刎ね破りたりければ、其の跡、平地とぞ成りにける。
 明智、此の時、軍勢を励まし、真っ先に城中へ攻め入る。光秀、其の日の装束には、丁子樺縅(ちょうじかばおどし)の鎧、同毛の5枚甲の緒をしめ、2間柄の直鎗打ち振りつつ、溝尾庄兵衛茂朝、今峰頼母為正を左右に立て防ぐ。敵に馳せ合はせ、自身能き武者3騎撞き臥せ、あたりを払ひて八面に当たり、陰に閉じ、陽に囲み、敵を追ひ靡け、味方を下知して攻め戦ふ。
明智弥平次、三宅藤兵衛、藤田伝五、妻木主計、明智十郎左衛門、松田太郎左衛門、池田壱岐守、比田帯刀、明智次右衛門等、同時に門を破り、塀を超へて透き間も無く戦ひしかば、城中の軍兵、悉く乱れ破れて、渡辺源兵衛、磯貝市正、沢田佐助、和爾左京、中橋太郎助以下の宗徒の勇士58騎、其の外、兵3百余人、各々爰にて討たれにけり。係る間に火矢の炎、次第に広がり、黒煙、城中に覆ひ、寄せ手も方々より攻め入りければ、城中の輩、防ぐに勢力尽き果て、何れも堅田を退散して、京都の方へ落ち行きければ、城は寄せ手ぞ入れ替はりける。

理由③ 明智光秀の人柄がよく分かる戦い


 「今堅田城攻め」の戦死者について、敵兵については『明智軍記』に「宗徒の勇士58騎、其の外、兵3百余人、各々爰にて討たれにけり」とあります。約360人が討たれたというのですが、明智隊で亡くなったのは、次の18人だとされています。

※元亀4年5月24日付「明智光秀寄進状」(『西教寺文書』)
千秋形部   二月廿九日 壹斗貮升
井上勝介   二月廿九日 壹斗貮升
堀部市介   三月朔日  壹斗貮升
武藤助次郎        壹斗貮升
増位新太郎  二月廿九日 壹斗貮升
可児与十郎  二月廿九日 壹斗貮升
木村次郎兵衛 三月朔日  壹斗貮升
中嶋左内   二月廿九日 壹斗貮升
佐藤又右衛門 二月廿九日 壹斗貮升
斉藤与佐衛門 二月廿九日 壹斗貮升
同 彦次郎  二月廿九日 壹斗貮升
久世城右衛門 二月廿九日 壹斗貮升
遠藤出羽   二月廿九日 壹斗貮升
鱸喜四郎   三月朔日  壹斗貮升 
藤田伝七   二月廿九日 壹斗貮升
恩知左介         壹斗貮升
清水猪介   二月廿九日 壹斗貮升
中間 甚四郎 三月朔日  壹斗貮升
以上十八人
右討死之輩命日為霊供令寄進畢仍如件
            咲庵
  元亀四年五月廿四日  光秀(花押)
西教寺 御納所

・元亀4年2月29日の今堅田城攻めで討死した18人の家臣の菩提を弔うため、1人につき1斗2升ずつの霊供米(供養米)を西教寺へ寄進する旨を伝えた文書。人物名の列挙順は、末尾が唯一無姓の「中間」甚四郎であることから、明智家家臣団での序列順と考えられる。一律1斗2升というのは、身分の低いものにはありがたいが、身分の高い者には不満であろう。(藤田伝五らの兄弟は、美濃以来の譜代衆(古参)と考えられてきたが、弟と考えられる藤田伝七が18人中15人目という低い身分であることから、「藤田兄弟は新参であった」とする新説が生まれている。)

 身分に関わらず、供養の費用として、米で一律1斗2升払うというところに明智光秀らしさが表れていると思われますので、妻の葬列に加わるシーンと共に、明智光秀について語る上で、供養のシーンは、ドラマには欠かせないシーンかと思われます。


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