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織田信長による「比叡山焼き討ち」

1.「比叡山焼き討ち」以前


 織田信長や彼の家臣は、足利義昭を擁して上洛すると、寺社の領地を横領した。その1例が、明智光秀による東寺鎮守八幡宮領の横領(一職支配)である。延暦寺領も横領され、永禄12年(1569年)10月26日、天台座主・応胤が朝廷に直訴すると、朝廷は寺領回復を求める綸旨を下したが、織田信長はこれに従わなかった(『御湯殿上日記』『朝倉記』『総見記』)。また、誰の意向であろうか、天台座主は応胤から正親町天皇の弟・覚恕に替えられた。
 元亀元年、延暦寺は、織田信長に敵対する朝倉義景&浅井長政連合軍が比叡山に立て篭もった時(「志賀の陣」)、織田信長は、延暦寺に対し、
①横領した延暦寺領を返すので、(園城寺のように)織田方に加担せよ。
②宗教上の理由で片方にのみ加担できないのであれば、中立を保て。
②このまま朝倉&浅井に加担し続ける場合は、焼き討ちする。
と場合分けして論理的に説得したが、延暦寺はこれに従わなかった。
 「志賀の陣」は、朝廷の「扱い(仲裁、調停)」で、朝倉義景&浅井長政と織田信長の和睦に終わったが、翌元亀2年9月12日、織田信長は何の前触れもなく、突然「敵は延暦寺にあり」と言わんばかりに延暦寺を焼き討ちした。

2.「比叡山焼き討ち」の記述


(1)『明智軍記』

※作者不明。『明智軍記』にしか書かれていないことが多々あるので、作者は、明智光秀について詳しい人(徹底的に調査した人、明智家の縁者)とも、『明智軍記』にしか書いてないことは作者の創作とも。

 「比叡山焼き討ち」については、明智光秀は中心人物の1人だと思われるが、『明智軍記』には、なぜか名前が出てこない。作者は明智光秀の子孫であり、「私のご先祖様は、こういう罰当たりな行為には加担しない」とでも言いたいのであろうか。

 信長朝臣、諸勢に触れられけるは、「先年の意趣有るにより、比叡山を亡ぼすべし。進めや者共」と下知して、山岡対馬守、後藤喜三郎、蜂屋兵庫頭、毛利河内守、簗田左衛門太郎、塙九郎兵衛、佐々内蔵助、塚本小大膳、中条将監、津田孫十郎を先として、9月13日の早朝に大津浦より唐崎浜に駆け出て、不意に東坂本へ押し寄せ、方々より俄に山門に攻め懸かり、向かふ者をば射伏せ、切り臥せ、透き間をあらせず競ひ登りて、日本無双の仏閣に情けも無く火を放ち、3000の坊舎を1宇も残さず焼き立てたり。日比、天台山は要害堅固にして城郭にまさり、三塔の衆徒は至剛鉄騎の武士にも勝りたりなんどと聞こへしかども、信長に不意に撃たれ、防ぐべき行(てだて)を忘れ、会合一致すべき隙無ふして、碩学の僧綱、宗徒の大衆なんども此彼(ここかしこ)に追ひ詰められ、突き殺し封殺さる。其の外、児童(ちごわらは)の類、煙に咽び、炎に焦がれて啼き叫ぶ有様、哀れと云ふも愚かなり。「信長朝臣、斯く延暦寺を亡ぼされし故を如何に」と尋ぬれば、「去る比、朝倉左衛門督義景、摂州本願寺を救ふべき為に、越前の勢を卒し、坂本迄出張有りて、信長と対陣の刻、叡山の衆徒、大嶽に篝を焼き、朝倉一味の色を顕すに依て、岐阜勢、難儀に及びければ、信長より噯(あつかひ。「仲裁者」「調停者」)を入れ、謀計の起請文を遣はし、色々和を乞ひ、這々濃州へ帰られける遺恨」とぞ聞こへし。
 抑、山法師等、朝倉に合力せん濫觴を聞くに、天台の末寺、越前の平泉寺、豊原寺、大谷寺などを、朝倉家、斜めならずして尊敬ありし故に、豊原寺は300坊に余り、平泉寺は1000坊に及ぶ程の繁昌なりしかば、天台座主を始め、高僧、貴僧、其の外、大衆迄、越前に下向有りし時分、義景、対顔有りて馳走申されける也。然る処に、吾が山の麓に、朝倉、陣取られける間、山徒、味方の色、有りけるとぞ聞こへける。今、織田殿も、山門合体の方便(うたて)、何様の計策も有るべき事也や。古も白河院は、逆鱗を止め給ひ、尊氏将軍も怒りを散せられし儀の有りぞかし。信長、不仁の大将なれば、血気の勇に任せ、日域無双の仏閣、諸堂、僧坊、寺院、悉く焼き亡ぼされけるこそ方便けれ。
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(2)太田牛一『信長公記』

※『安土記』『信長記』。小瀬甫庵の『信長記』と区別するため、便宜上、『信長公記』と呼ぶ。

九月十一日、信長公、山岡玉林所に御陣懸けらる。
九月十二日、叡山へ御取り懸け。
子細は、去年、野田、福島御取り詰め候て、既に落城に及ぶの刻(きざみ)、越前の朝倉、浅井備前、坂本口へ相働き候。
「京都へ乱入候ては、其の曲あるべからず」
の由候て、野田、福島御引払ひなされ、則ち、逢坂を越え、越前衆に懸け向ふ。つぼ笠山へ追ひ上げ、干殺なさるべき御存分、山門の衆徒召し出され、今度、信長公へ対して御忠節仕るに付きては、御分国中にこれある山門領、元の如く還附せらるべきの旨、金打(きんちょう)なされ、其の上、御朱印をなし遣はされ、「併しながら、出家の道理にて、一途の贔屓なりがたきに於いては、見除仕り候へ」と、事を分ちて仰せ聞かせらる。「若し、此の両条違背に付きては、根本中堂、三王廿一社を初めとして、悉く焼き払はるべき」趣、御言葉候ひき。
 時刻到来の砌歟、山門、山下の僧衆、王城の鎮守たりと雖も、行躰行法、出家の作法にも拘らず、天下の嘲笑(あざけり)をも恥ず、天道の恐をも顧みず、婬乱、魚鳥を服用せしめ、金銀賄(まかない)に耽りて、浅井、朝倉に贔屓せしめ、恣(ほしいまま)に相働くの衆、世に随ひ、時習に随ひ、まず、御遠慮を加へられ、御無事に属せられ、御無念ながら、御馬を納められ候ひき。御憤(いきどおり)を参ぜらるべき為に候。
 九月十二日、叡山を取り詰め、根本中堂、三王廿一社を初め奉り、霊仏、霊社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞の如く焼き払ひ、灰燼の地となすこそ哀れなれ。
 山下の老若男女、右往左往に廃忘(はいもう)致し、取る物も取り敢へず、悉く、かちはだしにて、八王子山へ逃げ上り、社内へ逃げ籠る。
 諸卒四方より閧音(ときのこえ)を上げて攻め上る。
 僧俗、児童、智者、上人、一々頸をきり、信長公の御目に懸け、「是れは山頭に於いて、其の隠れなき高僧、貴僧、有智の僧」と申し、其の外、美女、小童、其の員(かず)をも知らず召し捕へ召し列らね、御前へ参り、悪僧の儀は是非にも及ばず、「是れは御扶けなされ候へ」と、声々に申し上げ候と雖も、中々御許容なく、一々に頸を打ち落され、目も当てられぬ有様なり。数千の屍(しかばね)算を乱し、哀れなる仕合せなり。
 年来の御胸朦を散ぜられ訖(おわ)んぬ。さて、志賀郡、明智十兵衛に下され、坂本に在地候ひしなり。
 九月廿日、信長公、濃州岐阜に至りて御帰陣。

【現代語訳】元亀2年(1571年)9月11日、織田信長は、園城寺(三井寺)の僧・山岡景猶(かげなお)の城(園城寺の山岡景猶屋敷)に陣を据え、翌9月12日に「比叡山の焼き討ち」を行った。ことの詳細は、次のようであった。
 去年、織田軍が摂津国で三好軍の野田城、福島城を攻囲して、落城寸前にまで追い詰めた時(「野田、福島の戦い」)、越前国の朝倉義景、北近江の浅井長政が琵琶湖の西岸を南下して坂本方面に攻め寄せた。
「京へ乱入されては一大事である」
と織田信長は、野田、福島の陣を引き払い、逢坂越えで朝倉&浅井連合軍に立ち向かった。織田信長は、「朝倉&浅井連合軍を壺笠山に追い上げて、干し殺し(兵粮責め)にしよう」とした。それで織田信長は、山門(比叡山延暦寺)の衆徒を呼び、
「織田軍に味方すれば(織田信長の)領国中の延暦寺領を返すが、いかに」
と、金打(刀をカチンと鳴らす誓い)をし、朱印状を渡して堅く誓った。
「ただ、出家の道理(仏教の教え)により、一方にのみ贔屓することが出来ない場合には、中立を保つように」
と理論的に説得した。さらに「このどちらでもなく(織田軍に加担することも、中立を保つこともなく)、朝倉&浅井連合軍に加担した場合は、根本中堂や山王21社等を悉く焼き払う」と加えた。
 その時が到来したのであろうか。この頃、比叡山の山上、山下の僧衆たちは、王城鎮守の衆であるのに、日常世界でも、修行においても、出家の道をはずれて、天下の笑いものになっているというのを恥じず、天道を恐れず、色欲に耽り、魚や鳥を食べ、金銀に目をくらませて朝倉&浅井連合軍に加担し、やりたい放題であった。とはいえ、その時(1年前の「志賀の陣」の時)、織田信長は、世論や時勢に従い、遠慮して見逃し、兵を収めた。
 そして、9月12日、織田信長公は、比叡山を攻撃し、根本中堂、山王21社をはじめ、霊仏(寺)、霊社(神社)、僧坊、経蔵を一宇も残すところなく、雲霞が立ち昇るように焼き払い、灰燼の地と化したのは哀れである。
 一方、山下では老若男女が右往左往して逃げまどい、取るものも取り敢えず、裸足で八王寺山に逃げ登り、日吉大社奥宮の社殿に逃げ込んだ。
 織田軍は、四方より鬨の声をあげながら攻め上った。
 織田勢は僧俗(出家している人も、していない人も)、児童(子供)、智者(学僧)、上人(高僧)の区別なく首を刎ねて織田信長に見せた。(身分の高い者の首ほど多くの褒章がもらえると思ったのか)
「この首は、比叡山を代表する高僧の首である」
「この首は、比叡山を代表する貴僧の首である」
と皆、口々に(でまかせを)言い、美女や小童(子供)も数多く捕らえ、織田信長の前に引き出された。悪僧は当然、「助けて下さい」と哀願した者も、全て首を刎ねられ、数千の死体がゴロゴロと散らばるという目も当てられぬ有様であった。
 こうして昨年からの遺恨は解消された。
 さて、近江国志賀郡(比叡山周辺)は、明智光秀に与えられ、明智光秀は坂本に住み、居城・坂本城を築くことになる。
 9月20日、織田信長は、美濃国岐阜城に帰陣した。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/97

「三王廿一社」:山王二十一社。天台宗の鎮守神である山王権現(「日吉権現」「日吉山王権現」とも。現在の日吉大社。豊臣秀吉の幼名「日吉丸」の由来となった比叡山の神)のことで、「上七社」「中七社」「下七社」で「山王二十一社」である。なお、「山王七社」といえば「上七社」を指す。

山門、寺門と僧兵:天台宗(比叡山)の僧は、円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになった。正暦4年(993年)、円珍派の僧は、比叡山を降り、園城寺(三井寺)に立て篭もった。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立し、両者の抗争の中で、僧兵が自然発生した。(延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺の僧兵(筒井順慶など)と並び称せられ、「南都北嶺」と恐れられた。強大な権力で院政を行った白河法皇ですら『明智軍記』にあるように「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」(「山」とは比叡山、「山法師」とは比叡山延暦寺の僧兵のこと)と言っている。
 織田信長は、9月11日、「寺門」園城寺の僧兵・山岡景猶の屋敷城に陣を据え、翌9月12日に「比叡山の焼き討ち」を行った。天台宗の山門(延暦寺)は反信長、寺門(園城寺)は親信長といえよう。

(3)大久保彦左衛門『三河物語』

「志賀の陣」
 元亀元年庚午12月日、越前衆3万余にして比叡に陣とりて有り。信長は志賀に御陣を取り給ひて、家康ゑ御加勢の由、仰せ越されければ、石川日向守を指し遣はさる。「北国は、早、雪も積もりたる事なれば、兵粮米も尽き申すべし。されば、敵を干殺すべし(注:兵糧攻めにしよう)」と信長は思し召す処に、比叡山より兵粮米を続け申すのみならず、あまつさへ「返り調儀」(注:裏切り行為)をして信長を討たせんとす。
 山より申し越したるは、「越前衆の陣屋、火を得て懸け申すべき候。しかる時んば、切りて懸らせ給へば、敗軍有るべし。其の儀ならば、夜中に山へあがらせ給へ」と申しけれども、信長、さすがの弓取りなれば、いささか爾に山へあがらせ給はずして、坂本迄押し寄せて、「火の手があがれば寄せ懸けるべし」とて控えさせ給ひし処に、案の如く、返り調儀なり。
 しかる間、「越前衆は3万余有り、殊更に近江の国は大方越前の領分なれば、岐阜への道も塞がれれば、信長、僅か1万の内なれば、叶わじ」とて、扱ひをかけさせ給ひ、「天下は朝倉殿、持ち給へ。我は二度(ふたたび)望むこと無し」と起請を書き給ひて、無事を作りて岐阜へ引き給ふ。
【大意】朝倉&浅井連合軍が比叡山に立て篭もった時(「志賀の陣」)、織田信長は、「干殺し(注:兵糧攻め)」にしようと思ったが、延暦寺が朝倉&浅井連合軍に兵粮を与えていた。延暦寺から「朝倉&浅井連合軍の陣屋を今夜焼く。きっと逃げるので、追って討てばよい。比叡山に登って待っていて下さい」と言ってきた。用心深い織田信長は、比叡山に登らず坂本で待機していると、思った通り、火の手はあがらなかった。こうして返り討ちは避けられたが、織田軍は1万、朝倉&浅井連合軍は3万であったので「天下は朝倉義景に任せる」という証文を書いて和睦し、岐阜へ戻った。

「比叡山焼き討ち」
 しかる処に信長の仰せに「天下の公方も朝倉は引き請け申す事もならざるを、某が岐阜へ呼び越し申して、再び天下の公方となし奉り申したる、その情けをも忘れて、あまつさへ朝倉と一味して我に敵をなし給ふ事、恩を知り給はねば、腹を切らせ申す度存ずれども、公方によりておはしませば、許し置き申す」とて、都を払ひ給ふ。その時に、「比叡山も長袖の身として返り調儀をして我を討たんとしける間、さらば山を建てまじき」と仰せ有りて、それよりも久しく叡山は崩れて久しく建たざるを、又、家康の御取り立て成られて、今は山が建つ。
【大意】織田信長は、「足利義昭は、上洛させてあげた恩を忘れ、朝倉義景と仲間になって私を殺そうとした。本来ならば切腹であるが、征夷大将軍なので、都からの追放とした。比叡山は、僧侶の身でありながら私を殺そうとしたので、比叡山を焼き、再建はしない(それで後に徳川家康が再建した)」と言った。

「『信長記』について」
 さてまた『信長記』を見るに偽り多し。3ヶ1は有りし事なり。3ヶ1は似たる事の有り、3ヶ1は跡形も無き事なり。
【大意】『信長記』に書いてあることの1/3は実際にあったこと、1/3は似たようなことがあったこと、1/3は全く無かったことである。(批判の対象である『信長記』は、太田牛一『信長記』ではなく、小瀬甫庵『信長記』だと考えられている。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906666/109

(4)山科言継の日記『言継卿記』

※「元禄2年9月12日条」
 織田弾正忠従暁天上坂下被破放火。次日吉社不残、山上東塔、西塔、無童子不残放火。山衆、悉討死云々。大宮辺八王子両所持之、数度軍有之、悉討取、講堂以下諸堂放火。僧俗男女三、四千人伐捨、堅田等放火。仏法破滅、不可説、不可説。王法可有如何事哉。大講堂、中堂、谷々伽藍不残一宇放火云々。
【書き下し文】織田弾正忠、暁天従(よ)り、上坂下(さかもと)を破られ、火を放つ。次ひで日吉社残さず、山上の東塔、西塔、無童子(注:無動寺)、残さず火を放つ。山衆、悉く討ち死ぬと云々。大宮辺八王子両所、之を持すも、数度、軍、之有りて、悉く討ち取り、講堂以下諸堂に火を放つ。僧俗、男女、三、四千人伐(き)り捨て、堅田等に火を放つ。仏法破滅、説(い)ふべからず、説ふべからず。王法、如何なる事有るべけんや。大講堂、中堂、谷々伽藍、一宇たりとて残らず火を放つと云々。)

※上坂本:坂本は上下に分かれていた。上坂本には僧侶の宿泊施設があり、下坂本は港町である。
※「仏法破滅、不可説、不可説。王法可有如何事哉」:これで仏法(「日本仏教の母山」「国家鎮護の道場」の比叡山延暦寺)は言うに及ばず消滅した。これで王法(京都の鬼門(北東)封じの延暦寺を失った朝廷政治)はどうなってしまうのであろうか。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1919259/271

(5)多聞院英俊『多聞院日記』

元禄元年3月19日条
比叡山へ上。左に当て道より横川へ行と。又は、黒谷へ参る道あり。谷々、峯々遠之間、根本中堂を心さし、右の方の道を直に上る。道等細く、坂厳しきこと無申計、北谷西方院と云坊に茶を申請給候。
 それより大講堂、釈迦如来拝之向に、高き所に普賢堂在之。12人12年の間、不婬の人、1時づつ常座修之云々。内陳に入て拝之。其の所に伝教、慈恵自の作の影在之。拝之。
 中堂はそれより遥かに遠し。ようようにして参著了。檜皮葺の大堂、本尊は拝まれず。灯明2、3灯如形在之。堂も坊舎も一円はてきれたる体也。浅猿(あさまし)、浅猿。僧衆は大旨、坂本に下て、乱行不法無限、修学廃怠の故、如此、一山相果式也と各々語之。諸寺併此式也。可悲(かなし)、可悲。
 一山所々見物して坂下へ下る。江州一国、目前に見、青海、船の往来、山々、川々、浦々、名所無残見へ渡、無案内之間、慥に其所を不知。
 山王廿一社拝見。社壇の結構驚目、雖然、参詣の人も希に、社人、社僧も不見。神さびたる体也。上坂本、家々数多、繁昌ろ見へたり。それより南に少津の市場を見物。1500家の在之歟。小唐崎の伊勢屋に留了。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207457/93
元禄2年9月12日条
比叡山、和邇、堅田、坂本、悉く以信長より放火了と云々。実否不知之。黒煙見へ揚了と、則、尾張守、在京と云々。如何可成行哉覚心細者也。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207457/134

(6)新井白石『読史余論』

 2年、信長、叡山の僧、朝倉、浅井に同意せる事を憤りて、9月、山を焼きて僧徒を鏖(みなごろし)にす。『安土記』に、「去年、野田、福島落城に及びしに、朝倉、浅井、坂本口に向ふ。京都に乱れ入らん事を思ひ計りて、彼処を捨てて引き返し、朝倉、浅井と戦ふ時、今度、山門の衆徒、一味せば、我が分国にある山門領、元の如く還付すべし。然れど出家の身として彼れを捨てて我れに組し難くば、唯だ何れをも助くべからず。若し、此の両条に違ひなば、根本中堂を始めて、山王廿一社、僧房、経巻、悉く焼き払ふべしとありしかど、是に従はず。此の年、其の言の如くに火を放ちしかば、僧徒等、逃げ走るを、追ひ詰め、追ひ詰め、首を斬る。此の外、美女、少童、数を知らず生け捕りて、彼等は助け給ふべしといひしかど、赦さず。数千の屍、山上、山下に満つ。即(やが)て坂本に城を構え、明智に賜る」。
 按ずるに、中世より、叡岳の僧徒、兵杖を帯し、動(やや)もすれば朝家を劫かし奉る。代々の帝王、将、相畏れて彼れが申す旨に任せられしかば、其の残害、頗る仏氏の所為に非ず。然るに信長、其の破戒、無律を怒りて、終に其の山を焼き亡ぼしぬ。其の事は残忍なりと雖も、永く叡僧の兇悪を除けり。是れ又、天下の功ある事の一つなるべし。
 此の年、信長、内裏を造り、3年にして功成れり。其の上、御調物、末代に欠乏なからん為に、洛中の商売(しょうこ)に金銀を預けて、毎月、其の息利を貢献すべしと約し、既に滅びし公家衆相続の事等を沙汰す。
 按ずるに、是れ又、豪傑の挙といふべし。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2627934/366

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2.「比叡山焼き討ち」の実際


 現在の歴史学会は、1次史料(同時代の日記や手紙)を重視する傾向にある。従って、「山科言継が日記に嘘を書くはずがない」として、『言継卿記』の記述を「比叡山焼き討ちの真実」だとする。しかし、「発掘調査による真実」と異なることから、『言継卿記』の記述は「実際に行って確認したのではなく、耳に入った尾ひれがついた噂を書いただけ」ともされる。

 「比叡山焼き討ち」については、太田牛一『信長公記』については詳しいが、多くの古文書では「織田信長が比叡山に火を放った」とサラッと書いてあるだけで、「寺社を焼くなど日常茶飯事で、特に詳しく書くほどでもない」といった印象を受ける。『御湯殿上日記』にも、
信長、上(のぼ)りて、比叡の山、坂本、皆々、残らず放火する。そのほか、山王八王子など迄焼く。ちか頃、言の葉も無き事共にて、天下のため笑止なる事、筆にも尽くし難き事なり」(【意訳】織田信長が上って(岐阜から京都に向かって)来て、比叡山や坂本に放火した。その他、山王社(奥宮)がある八王子山も焼いた。近頃、言葉にならない(無残な出来事であり)、(天下(京)の鬼門封じの寺の焼失は)天下(京)のために「笑止」(ここでの「笑止」は、「馬鹿馬鹿しいこと」の意ではなく、「気の毒なこと」の意)であって、筆舌に尽くし難い)。
とあるだけで、正親町天皇が何らかの意志表明を行ったとは書かれてはいない。

 織田信長の「比叡山焼き討ち」の理由は、『明智軍記』にあるように、昨年の「志賀の陣」で朝倉義景&浅井長政連合軍を匿ったことによるという。この時、朝倉義景&浅井長政連合軍は、無動寺谷周辺の壺笠山や青山に立て篭もり、食料は仰木村から供給されたという。
 大講堂の建て替え工事や奥比叡ドライブウェイの付設工事に伴う延暦寺の発掘調査が断続的に行われ、「比叡山焼き討ち」に関する考古学的再検討がなされた。発掘調査を担当した考古学者・兼康保明氏(「考古学推理帖」でおなじみの「かねさん」)によれば、「明確に信長の比叡山焼き打ちで焼失が指摘できる建物は、根本中堂と大講堂のみで、他の場所でも焼土層が確認できるが、この焼き打ち以前に廃絶していたものが大半であった」という。つまり、「発掘調査による真実」は、「延暦寺は『多聞院日記』にあるように衰退期にあり、比叡山に多くの堂宇は無く(あっても使われない廃墟であり)、僧侶の多くは山麓の坂本周辺に住み、八王寺山へ逃げ登ったが殺された」とする。
 『信長公記』の「次々と高僧、貴僧の首が届けられた」というのは嘘であろう。(真実であれば『日本高僧列伝』の類の本の年譜に、比叡山で討たれた高僧の名がずらっと記されるであろう。)当時は、戦の後に、並の武士の首の歯にお歯黒をして「大将首だ」と嘘をついて、多額の褒章をもらっていたというから、太田牛一を信じれば、皆が「高僧、貴僧の首だ」と嘘をついて織田信長に次々と届けたのであろう。(上掲の訳は、太田牛一を信じた訳にしてみた。)

・『霊山遺跡発掘調査概要』昭和53年(1978年)
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/5280
・『延暦寺発掘調査報告書1』昭和55年(1980年)
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/5065
・『延暦寺発掘調査報告書2』昭和56年(1981年)
・兼康保明「織田信長比叡山焼打ちの考古学的再検討」『滋賀考古学論叢』(第1集)所収。(1981年)
・『延暦寺発掘調査報告書3』昭和57年(1982年)
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/4598
・安田清人「光秀はどう関わったのか? 織田信長による比叡山焼き討ちの真相【麒麟がくる 満喫リポート】」(2020年11月22日)
https://news.yahoo.co.jp/articles/8ea67ee2ddcd3d2df189985e77bb4f9f9520bf23

 発掘調査に依れば、焼き討ちされたのは「志賀の陣」で朝倉義景&浅井長政連合軍が立て篭もったとされる山王社本殿のある鉢ヶ峰が中心だといい、明智光秀の9月2日付和田秀純宛文書に「(「志賀の陣」で食料の供給を行った)仰木村の村民については(許せないので)撫で斬り(皆殺し)にする」とあるように、攻撃対象は「全山」ではなく、「志賀の陣」関連地であり、ピンポイント攻撃、限定的な攻撃だったようである。
 とはいえ、「比叡山焼き討ち」の理由を「志賀の陣」の恨みであって、その攻撃対象を「志賀の陣」関連地とするのは表向きのことであり、裏には、織田信長による延暦寺領の横領問題(所有主張者を殺せば返す必要がない)や、山門と寺門の対立問題(園城寺と織田信長が一味同心)といった問題が隠されていると思われる。

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