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摂津晴門なる人物

 中原氏は、①『尊卑分脈』等によれば、安寧天皇の第三皇子・磯城津彦命の後裔というが、②「中原家(押小路家)系図」には、饒速日命の後裔(物部氏族)とある。

①磯城皇津彦命(安寧天皇の皇子)…十市…中原(明経道の博士)…摂津
②饒速日命…伊香色雄命【物部氏】…中原…摂津

摂津掃部頭能秀┬摂津守満親─之親─政親─元造┬晴門─糸千代丸【絶家】
       └女子:足利義満側室       ├海老名頼雄【消息不明】
                       └養女:日野勝光室

 名字のほとんどは、本貫地(名字の地)の地名(村名、郷名、荘園名)であり、国名は珍しい。摂津氏は中原氏の分家で、代々「摂津守」に叙任されたので、名字を「摂津」に改めたという。呼称は「摂津守(せっつのかみ)」(『言継卿記』)、「津のかみ」(『お湯殿の上の日記』)である。

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https://www.nhk.or.jp/kirin/?f=ktw#castv

 摂津晴門(せっつはるかど)は、摂津元親(後に元造)の子として生まれた。12代将軍・足利義晴より偏諱「晴」を受けて晴直(はるなお)、後に晴門と改名し、13代将軍・足利義輝と15代将軍・足利義昭に「政所執事」として仕え、将軍権力の回復に尽力した。将軍の権力回復を願う明智光秀にしたら、頑張って欲したかった人物の1人である。
 いずれにせよ、VIPなので、『麒麟がくる』には登場するが、『明智軍記』には、なぜか1度も登場しない。ゲーム『信長の野望』にも登場したことがないので、彼の知名度は低い。

摂津晴門(せっつ・はるかど)
幕府政所頭人。義輝、義昭にいたるまで室町幕府の執務を取り仕切る。幕府の存続を第一に考える保守的な人物で、信長とともに上洛した光秀と幕府のありようをめぐって、ことあるごとに対立する。
<片岡鶴太郎さんコメント>
今回は「麒麟がくる」の出演者の中でも、一番の悪役と聞いております。
裏で画策する摂津晴門。この企てるたくらみの眼をご覧くださいませ。
https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=24892

1.生没年


 織田信長の右腕といわれた明智光秀の没年は天正10年(1582年)であるが、生年は不明である。(享年55として逆算すると享禄元年(1528年)である。)一方、室町幕府の政所執事という超重要ポストを務めた摂津晴門は、生没年が不明である。いつ生まれ、いつどこで亡くなったのか、分かっていない。

 明智光秀と摂津晴門の共通点は、「生年不明」以外に2点ある。
 1点は「亡くなった時点で絶家した」ということである。故人の生没年や業績は、本人ではなく、子孫が書き記すものであり、彼らのように子孫がいない場合、正確な生没年や業績の記録が残らない。
 第2の共通点は、「子供が若い」ことである。
 摂津晴門は、明智光秀が生まれた享禄元年(1528年)の11月28日に従五位下中務大輔に任じられている(『歴名土代』)。(なお、『歴名土代』の摂津晴直(晴門)の前に書かれている足利義晴の近臣・細川晴広は、三淵家から細川家へ養子に出された細川藤孝の養父とされる。ただ、これは新説であり、通説では、細川藤孝は細川元常の養子とされている。)
※戦国・小和田チャンネル「細川藤孝の出自について」
https://www.youtube.com/watch?v=Lw2nw0TOrgI
※戦国・小和田チャンネル「明智光秀の生年について」
https://www.youtube.com/watch?v=s71sAJAyLgI

『歴名土代』「従五位下」
細川刑部少輔 源晴広 同(注:大永8年)七月十八日。
摂津元造朝臣子 藤晴直 享禄元十一月弐八日。同日、中務大輔。
注:大永8年8月20日、「享禄」に改元。
http://192.244.20.150/biblio/100093495/viewer/124

 従五位下中務大輔の叙任が20代の時(明智光秀との年齢差は20以上)だとすると、嫡男・糸千代丸が生まれた天文22年(1553年)は40代になってしまう。そして、その嫡男・糸千代丸は、「永禄の変」で亡くなり、他に子はおらず、養子もとらなかったので、摂津家は断絶した。
 ドラマ『麒麟がくる』では、明智光秀の次女・たまは、永禄11年(1568年)に6歳だと言うので、永禄6年(1563年)生まれになる。明智光秀が享禄元年(1528年)生まれであれば、30代後半の時の子である。
 子供の年齢だけで考察すると、明智光秀も、摂津晴門も、現在考えられている年齢よりもずっと若いはずである。

2.略年表


享禄元年(1528年)11月28日  従五位下中務大輔に任ぜらる。
天文4年(1535年)   伊勢貞孝、伊勢貞忠に継いで、政所執事になる。
天文15年(1546年)12月19日 摂津元造、足利義輝元服式の奉行を務める。
天文19年(1550年)5月4日 12代将軍・足利義晴、死去。摂津元造、出家。
天文22年(1553年)    嫡男・摂津糸千代丸誕生。
永禄5年(1562年)頃  父・摂津元造が死去。
永禄5年(1562年)6月   足利義輝、伊勢貞孝を解任。政所執事になる。
永禄8年(1565年)5月19日 「永禄の変」で嫡男・糸千代丸死亡。享年13。
永禄9年(1566年)5月以降  京都を離れ、永禄11年まで詳細不明。
永禄11年(1568年)1月   伊勢貞為(貞孝の孫)、政所執事になる。
永禄11年(1568年)2月8日    足利義栄への将軍宣下に出席拒否する。
永禄11年(1568年)4月15日  足利義昭元服式の奉行を務める。
永禄11年(1568年)10月   足利義昭、伊勢貞為を解任。政所執事になる。
元亀2年(1571年)1月25日  山科言継、年始挨拶に来る。(『言継卿記』)
元亀2年(1571年)11月1日  政所執事解任。伊勢貞興が政所執事になる。

3.政所執事


将軍管領(細川、斯波、畠山氏)┬評定衆(足利一門の名誉職)
                 ├政所(伊勢氏)
                 ├侍所
                 └問注所

伊勢貞孝─貞良┬貞為…【江戸幕府旗本伊勢家】
         └貞興【明智光秀の家臣となり、山崎合戦で討死】

 政所執事は、代々伊勢氏が務めていたが、永禄5年(1562年)6月、足利義輝は、伊勢貞孝を更迭した。この理由は不明であるが、足利義輝が、自らの権力を強めようとして政所の職務に介入してきたのを、伊勢貞孝が六角氏と組んで拒否したからだという。ところが、三好氏と六角氏が和睦したために、追い詰められた伊勢貞孝は、子・貞良と共に8月に挙兵せざるをえず、9月、三好方の松永久秀らにより、父子共に近江国杉坂(滋賀県犬上郡多賀町。多賀大社「杉坂の御神木」で有名)にて討死した。4歳の虎福丸(後の伊勢貞為)は、家臣と共に若狭国に落ち延びた。

 伊勢貞孝の失脚(足利義輝による排除)と死亡により、伊勢遺臣は伊勢貞孝の嫡孫・貞為への宗家相続を求める嘆願書を幕府に提出したが、足利義輝は、これを許可せず、さらに、伊勢貞孝を「御敵」として、所領を没収して細川藤孝らに配分し、摂津晴門を政所執事とした。
 摂津晴門は、①足利義輝派(将軍家の嫡男は政所頭人である伊勢氏の邸宅で育てられる慣例であったが、菊幢丸(後の足利義輝)は両親の手元で育てられ、乳母は摂津元造の養女(日野晴光(日野富子の兄)室)が務めた)で、②官途奉行や地方頭人、神宮方頭人として三好氏や京都の要人との人脈を持っていたので、伊勢家に適任者がいない(伊勢貞孝の孫がまだ若い)こともあり、政所執事に抜擢されたという。簡単に言えば、足利義輝は、自分の周囲に味方を置きたくて、これまで100年以上続いた幕府の慣例を破ったのであろう。

※摂津晴門の父・摂津元造は、足利義晴の死去時に出家(直前には異例の従三位(足利氏に匹敵!)に叙せられる)した後も、官途奉行、地方頭人、神宮方頭人を務めて摂津晴門がこれを補佐していたが、永禄5年(1562年)頃、摂津元造が死去すると、子・摂津晴門がこれらの地位を継いだ。
 「官途奉行」は、官途仲介と斡旋をする部署で、官位獲得を目指す戦国大名から多大な礼金を得ることができた。室町幕府は、徐々に衰退していくが、摂津家はこの礼金で、財政面から室町幕府を支えた。

 永禄8年(1565年)5月19日、三好氏による「永禄の変」が起こり、二条御所にて足利義輝以下数十名の奉公衆が殺害された。摂津晴門は生き延びたが、嫡子の糸千代丸は亡くなった (ToT)。

 「永禄の変」後も、摂津氏が世襲していた官途奉行などの地位は安堵されていたとみられるが、足利義輝を討った三好氏らが推す次期将軍候補であった足利義栄が、なんとしても将軍になろうと、手当たりしだいに行った働きかけの1つとして、伊勢貞為(貞孝の孫)の出仕を認めた事(伊勢氏の政所執事復帰への後押しをした事)に反発した摂津晴門は、身の危険を感じたのか、永禄9年(1566年)5月以降、しばらく京都を離れたという。

※参考論文:高梨真行「永禄政変後の室町幕府政所と摂津晴門・伊勢貞興の動向 ―東京国立博物館所蔵「古文書」所収三淵藤英書状を題材にして」
・東京国立博物館研究誌『Museum』(No.592)2004年
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4438410
※参考文献:木下昌規編著『シリーズ・室町幕府の研究 第4巻 足利義輝』
・足利義輝に関する12本の論文集(上記高梨論文も所収)
https://www.ebisukosyo.co.jp/item/509/

 永禄11年(1568年)10月、足利義昭が将軍に就任すると、兄・義輝と同じように、足利義昭も再び摂津晴門を政所執事として起用した。

4.政所執事解任後の摂津晴門


 元亀2年(1571年)1月25日。この頃はまだ政所執事であったからか、山科言継が、年始の挨拶に行っている。(一説に、『言継卿記』の「摂津守」は、「摂津晴門」ではなく、「御牧摂津守」だという。)

※山科言継『言継卿記』元亀2年1月25日条
 当年始而参武家、申次曽我兵庫頭、於御新造常御所対面。御盃、強飯被下之。沓楽道神楽之御雑談有之。次、一台、御さこへ参。御留守云々。大蔵卿局、酒有之。次、通玄寺殿へ参。御見参。同三位局等、御盃賜之。強飯有之。暫く御雑談。是首座癰(はれもの)被煩之。脈診之。同薬之事、令約束。次、二条殿へ参。殿下、御酔、御臥云々。三位中将殿、御見参。(始也。)御酒賜之。次、官務朝芳宿袮所へ呼、又、酒有之。次、摂津守、一色式部少輔、竹田梅松軒等へ礼に罷り向。及黄昏、帰宅了。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1919259/244

 足利義昭に仕えた伊勢貞興は、元亀2年(1570年)11月1日、政所執事に任じられ、織田信長からも承認された(元亀2年11月1日付織田信長書状(『本法寺文書』))。とはいえ、まだ9歳であり、補佐役の政所代(執事代)・蜷川親長も京都を離れていたことから、織田信長とその家臣たちが政所の業務を一時的に代行していたとみられる。

 摂津晴門の最後の記録は元亀3年(1572年)のもので、それを最後に、彼どころか一門全員が消息不明となっている。

・消息①:加賀藩4代藩主・前田綱紀(1643-1724)を、「子孫」と称する摂津順幸が訪ねている。

・消息②:大友宗麟の嫡男・大友義統(1558-1605)の家臣に摂津刑部大輔がいる。消息不明となっている弟・海老名頼雄の子ではないかという。(摂津氏は、鎌倉時代には「刑部大輔」と名乗っていた。)

 ネットで検索すると、現在、摂津さんは、全国に約320人いるという。その内訳は、多い順に、

①愛媛県八幡浜市に約50人
②秋田県湯沢市に約40人
③愛媛県西予市に約20人
④愛媛県松山市に約10人
⑤東京都八王子市に約10人
・・・

だそうで、一門揃って愛媛県に移住したのだろうか? (「消息不明」とされている一族が「四国にいた」という話を時々聞く。(明智一族や家臣たちも土佐に逃げた?)「四国の人はお遍路さんに優しい」という話をよく聞くが、都落ちの人にも優しいのかな。)

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5.室町幕府崩壊の人的要因


 ──室町幕府はなぜ崩壊したか?

 室町幕府の崩壊期と他の時期を比べて、「誰が違うか」と考えてみると、
①トップに立つ将軍が違う。
②官僚トップの政所執事が違う。

①足利ブラザーズ

 室町幕府崩壊の原因は、単純に考えれば、終末期の将軍である足利義輝&義昭兄弟(通称「足利ブラザーズ」)が「将軍の器」ではなかった。カリスマ性も財力も無かったので、地方分権化を進める大名たちの統制(中央集権化)ができなかったということになろう。
 金や武力が無い将軍は、ある大名に補佐してもらうしかない。その補佐役は足利義輝の場合は三好長慶で、足利義昭の場合は織田信長であったが、「足利ブラザーズ」は、補佐役の大名と息が合わなかった。足利義輝は、「将軍は強くあるべき」と考える理想主義者で、足利義昭は、「将軍はこうあるべき」と考える理想主義者であったので、実力主義者の大名とは合わないようだ。
 室町幕府の崩壊は、終末期の将軍である「足利ブラザーズ」が、頑固な理想主義者で、補佐役に合わせられない(傀儡になることを嫌う)性格のために起きたのであろう。本来、将軍を補佐する足利一門の三管領家(斯波家、細川家、畠山家)の衰退も響いた。また、今川家は足利一門(足利家の分家の吉良家の分家)であるから、今川義元が生きていたら、三管領家に代わって、将軍をサポートしていたであろう。

②摂津晴門

 室町幕府の官僚トップ(政所執事)は、伊勢氏が代々務めていたが、足利ブラザーズが将軍だった時期は、伊勢氏ではなく、摂津晴門が務めていた。

「光秀ははじめて、摂津晴門のような狡猾(こうかつ)で陰険な男に出会ったのだと思いますよ。晴門とのシーンでは、いつも冷静な光秀が興奮して感情むき出しで激怒しますから。これまでに見たことがない光秀を引き出せたと思います」(片岡鶴太郎)
https://twitter.com/nhk_kirin/status/1320273896189403142

「摂津晴門は、本当に憎たらしいやつですね(笑)。しかも片岡鶴太郎さんの芝居が、それを何倍にも膨らませている。『こいつウソをついているな』とわかっているけど、摂津がいないと幕府は動かないから何も言えない。こういう関係って、今の世の中でもある気がするなぁ」(滝藤賢一)
https://twitter.com/nhk_kirin/status/1320331777043582977

 「室町幕府崩壊の原因は摂津晴門にあり」と言うと、摂津氏のご子孫が怒ると思うが、摂津晴門の子孫はいないので、ドラマ『麒麟がくる』の出演者の中で一番の悪役(幕府崩壊の立役者)に仕立てても問題はない?

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