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史実スペクタクル逃亡譚『逃げ上手の若君』第1話「滅亡1333」

 松井優征先生の『逃げ上手の若君』(『週刊少年ジャンプ』新連載)は大変面白く、私が「実は史実は・・・」なんて解説したら炎上必死?(多分、無視されるだけ(苦笑)。)
 史実を知らない方がいいと思う方はお戻り下さい。

第1話「滅亡1333」あらすじ


 主人公の「逃げ上手の若君」こと北条時行(8歳)は、得宗(北条家宗家)の人間で、成長したら鎌倉幕府の執権になることが約束され、幸せな生活を送っていた。
 ドラマは1333年の足利高氏の出陣から始まる。後醍醐先帝方の乱を鎮めに行く英雄である。これに対し、北条時行はまだ子供で、武芸の鍛錬をしないといけないのであるが、武芸指南役の狩野三郎や塩田次郎の手から、常に逃げ回っていた。そう、生まれながらの「逃げ上手」であったのだ。
 北条時行が逃げた先に信濃国の神官・諏訪頼重と娘・雫が現れ、諏訪頼重は「10歳の時に貴方様は天を揺るがす英雄となる」と予言しました。おだてて高額な占い料を取ろうとしていると察知した北条時行は逃げました。北条時行が逃げた先には義母兄・北条邦時がいて、「父上(注:北条高時)は病弱な上、やる気もない。早くお前が後を継いで差し上げろ」と言いました。
 その1ヶ月後、事態は急変しました。こともあろうに、足利高氏が倒幕派に寝返り、京都の六波羅探題を襲ったのです! 鎌倉は、新田義貞に3歳の嫡男を預けて総大将とし、北条時行の父・北条高時は斬首、義母兄・北条邦時は斬首、武芸指南役の狩野三郎と塩田次郎は討死・・・と、足利高氏は挙兵からたった24日間で鎌倉幕府を亡ぼしました。
 愕然とする北条時行の前に現れたのは、怪しい神官・諏訪頼重でした。なんでも、北条高時に北条時行を逃がすよう、頼まれたのだそうです。諏訪頼重は、信濃諏訪で北条時行を匿うと告げ、
「さぁ、天下を取り返す鬼ごっこの始まりですぞ!」
と叫び、北条時行を馬に乗せた。従う従者は2人。北条時行一行5人は、無事、信濃諏訪までたどりつけるであろうか?

「私は…恥知らずだ。一族が滅ぶ最中なのに、共に死ぬのが武士の子として当然なのに、貴方のせいで、生きる悦びにときめいてしまった。頼重殿、責任は取ってもらうぞ」(by 北条時行)

【主な登場人物】


《北条氏系図》
 太字は得宗家。丸数字は執権の代数。

北条①時政┬②義時┬名越朝時─時章─公時─時家─高家
     │   ├③泰時時氏┬④経時
     │   │        └⑤時頼┬⑧時宗─⑨貞時─⑭高時時行
     │   │           └宗政─⑩師時
     │   ├極楽寺重時┬⑥長時─赤橋義宗─久時─⑯守時
     │   │        └普恩寺業時─時兼─⑬基時
     │   ├⑦政村─時村─為時─⑫煕時
     │   └金沢実泰─実時─顕時─⑮貞顕
     ├時房─大仏朝直─宣時─⑪宗宣
     └政子(源頼朝室、尼将軍、日本三大悪女)

(1)北条時行(?-1353)


 主人公。鎌倉幕府の執権・北条高時の遺児。幼名「亀寿」。
 生年は不明。
①兄・北条邦時は正中2年(1325年)11月22日生まれ
②正中3年(1326年)3月13日の時点では生まれていなかったらしい。
『逃げ上手の若君』では、
「10歳の時に貴方様は天を揺るがす英雄となる」
としている。これは1335年の「中先代の乱」のことであろうから、『逃げ上手の若君』では、1333年の鎌倉幕府の滅亡時、兄・北条邦時は9歳、北条時行は8歳という設定のようだ。
 北条時行は、3回、鎌倉を奪還したことで知られる。
 2年後の1335年、10歳にして「中先代の乱」を起こし、足利尊氏の弟・足利直義を破って鎌倉を奪還(1回め)するが、わずか20日で足利尊氏に追われて逃げた。諏訪頼重らは大御堂(勝長寿院)で顔の皮を剥いで自害した。足利尊氏は、北条時行も自害したと勘違いしたという。
 「南北朝の内乱」(1336-1392)では、北朝方・足利尊氏の敵である南朝・後醍醐天皇について戦い、1337年、12歳にして鎌倉奪還(2回め)に成功。
 翌1338年、伊勢国大湊(三重県伊勢市)から陸奥国府(福島県伊達市)へ船で渡ろうとするも、遠州灘で台風に遭い、伊勢国に戻されて伊勢に住み、その子孫が小田原北条氏(後北条氏)の祖・伊勢宗瑞(北条早雲)だという。(この頭、宗良親王が乗った船は、遠江国白波(静岡県浜松市)に漂着し、宗良親王は、井伊谷の豪族・井伊道政のもとに身を寄せた。)
 北畠顕家の遠征軍に随行して「青野原の戦い」で土岐頼遠を破ったが、「石津の戦い」で高師直に大敗し、北畠顕家は戦死したが、北条時行は逃げ、1352年、27歳の時、「武蔵野合戦」で初代鎌倉公方・足利基氏を破って鎌倉を奪還(3回め)した。しかし、この奪還も短期間に終わり、逃走を続けるも、翌1353年、28歳の時、捕らえられ、5月20日、処刑されたとされる。

(2)北条高時(1304-1333)


 主人公・北条時行の父。鎌倉幕府第9代執権・北条貞時の3男(長兄は養子に出され、次兄は夭折したので、事実上の嫡男)。鎌倉幕府第14代執権(在職:1316- 1326)。後世の書物、たとえば下掲『増鏡』には、「病弱、かつ、虚無感を漂わせた人物で、闘犬、田楽に耽溺して政務を顧みない暗愚な当主」とあるが、実像は定かではない。(暗君ではなく、闘犬や田楽を愛好し、放蕩三昧の日々を送ったのは執権を退いた1326年以降のことだとも。)

相模の守高時と言ふは、病によりて、未だ若けれど、一年入道して、今は世の大事共いろはねど、鎌倉の主にてはあめり。心ばへなどもいかにぞや、うつつ無くて、朝夕好む事とては、犬くひ、田楽などをぞ愛しける。これは最勝園寺入道貞時と言ひしが子なれば、承久の義時よりは八代にあたれり。(『増鏡』)

北条貞時┬覚久(長崎光綱の養子へ)
    ├菊寿丸(嫡男。享年5)
    ├高時邦時(母:側室・常葉前(五大院宗繁の妹))
    ├泰家└時行(母:正室・にい(新、二位)殿)
    └崇暁(出家)

 正中3年(1326年、4月26日に「嘉暦(かりゃく)」に改元)3月13日、第14代執権・北条高時が病気のために出家すると、後継者として、安達氏(北条高時正室の実家)は、正嫡子(まだ生まれていない北条時行)が生まれるまでの中継ぎとして北条高時の弟・北条泰家を、長崎氏は庶長子・北条邦時(乳母の父は長崎思元)を推した。長崎氏が勝つも、北条邦時は正中2年11月22日生まれの生後約3ヶ月の幼児であったので、成長までの中継ぎとして、3日後の3月16日、北条貞顕を第15代執権としたが、負けた安達氏による北条貞顕暗殺の風聞が流れたこともあり、北条貞顕は、たった10日間で辞任し(「嘉暦の騒動」)、代わって中継ぎとして、北条(赤橋)守時が第16代執権に就任した。(漫画では、主人公・北条時行を嫡男とするが、実際は中継ぎ・北条守時の次の第17代執権は、「若御前」こと北条邦時が嫡男で、1次史料(北条貞顕の書状)にも「太守禅閣嫡子若御前」とある。ただ、北条時行が生まれた時点で廃嫡されたかもしれない。)
 元弘3年/正慶2年(1333年)5月18日、新田義貞軍が鎌倉へ侵攻し、5月22日に鎌倉に乱入されると、北条高時は、北条家菩提寺・葛西ケ谷東勝寺で、北条一族や家臣らとともに自刃して果て、北条時行だけが逃げた。享年31。

(3)足利高氏(1305-1358)


 主人公・北条時行の敵。室町幕府初代征夷大将軍(在職:1338-1358)。得宗・北条時の偏諱を受けて「高氏(たかうじ)」と名乗っていたが、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の諱・治(たかはる)の偏諱を受け、「尊氏(たかうじ)」と改めた。
 鎌倉幕府の御家人であったが、後醍醐天皇の誘いを受けた足利高氏は、後醍醐天皇方につくことを決意し、元弘3年/正慶2年(1333年)4月29日、所領の丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げ、5月7日に六波羅探題を滅亡させた。(篠村八幡宮は、明智光秀が本能寺に向かう時に軍議を開き、戦勝祈願をした神社としても有名である。)
 この間、足利高氏の妻・登子と嫡男・千寿王(元徳2年6月18日生まれの4歳。後の足利2代将軍義詮)は、鎌倉を脱出し、関東の一族の新田義貞に身を寄せた。その新田義貞は、上野国新田荘(群馬県太田市周辺)の生品神社に参集して5月8日に決起し、5月12日に世良田で蜂起し、新田義貞の軍の後を追っていた千寿王と合流すると、千寿王を大将として鎌倉に侵攻し、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ。鎌倉は三方を山、一方を海に囲まれた難攻不落の地であった。新田義貞が稲村ヶ崎で黄金の太刀を海に投げ込むと、潮がひいて海上の北条軍が遥か遠くに流されたため、磯づたいに侵攻できたという。

 なげ入れしつるぎの光あらはれて 千尋の海も陸となりぬる(明治天皇)

さて、鎌倉侵攻軍の大将については、
①通説:新田義貞
②詳説:新田義貞と足利高氏の嫡男・千寿王の2人
③新説:足利高氏(新田義貞の挙兵は足利高氏の要請に応じただけ)
と3説ある。通説は①であるが、『逃げ上手の若君』では「大将・新田義貞が足利高氏の嫡男・千寿王を総大将とした」と②と③の中間だとしている。これは、新田義貞などの名前を出して物語を複雑にせずに、「北条時行 vs 足利高氏」という構図を明確にするためであろう。

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■『太平記』「相摸入道弄田楽並闘犬事」

又其比洛中に田楽を弄事昌にして、貴賎挙て是に着せり。相摸入道此事を聞及び、新座・本座の田楽を呼下して、日夜朝暮に弄事無他事。入興の余に、宗との大名達に田楽法師を一人づゝ預て装束を飾らせける間、是は誰がし殿の田楽、彼何がし殿の田楽なんど云て、金銀珠玉を逞し綾羅錦繍を妝れり。宴に臨で一曲を奏すれば、相摸入道を始として一族大名我劣らじと直垂・大口を解で抛出す。是を集て積に山の如し。其弊へ幾千万と云数を不知。或夜一献の有けるに、相摸入道数盃を傾け、酔に和して立て舞事良久し。若輩の興を勧る舞にてもなし。又狂者の言を巧にする戯にも非ず。四十有余の古入道、酔狂の余に舞ふ舞なれば、風情可有共覚ざりける処に、何くより来とも知ぬ、新坐・本座の田楽共十余人、忽然として坐席に列てぞ舞歌ひける。其興甚尋常に越たり。暫有て拍子を替て歌ふ声を聞けば、「天王寺のやようれぼしを見ばや」とぞ拍子ける。或官女此声を聞て、余の面白さに障子の隙より是を見るに、新坐・本座の田楽共と見へつる者一人も人にては無りけり。或觜勾て鵄の如くなるもあり、或は身に翅在て其形山伏の如くなるもあり。異類異形の媚者共が姿を人に変じたるにてぞ有ける。官女是を見て余りに不思議に覚ければ、人を走らかして城入道にぞ告たりける。入道取物も取敢ず、太刀を執て其酒宴の席に臨む。中門を荒らかに歩ける跫を聞て、化物は掻消様に失せ、相摸入道は前後も不知酔伏たり。燈を挑させて遊宴の座席を見るに、誠に天狗の集りけるよと覚て、踏汚したる畳の上に禽獣の足迹多し。城入道、暫く虚空を睨で立たれ共、敢て眼に遮る者もなし。良久して、相摸入道驚覚て起たれ共、惘然として更に所知なし。後日に南家の儒者刑部少輔仲範、此事を伝聞て、「天下将乱時、妖霊星と云悪星下て災を成すといへり。而も天王寺は是仏法最初の霊地にて、聖徳太子自日本一州の未来記を留給へり。されば彼媚者が天王寺の妖霊星と歌ひけるこそ怪しけれ。如何様天王寺辺より天下の動乱出来て、国家敗亡しぬと覚ゆ。哀国主徳を治め、武家仁を施して消妖謀を被致よかし」と云けるが、果して思知るゝ世に成にけり。彼仲範実に未然の凶を鑒ける博覧の程こそ難有けれ。相摸入道懸る妖怪にも不驚、益々奇物を愛する事止時なし。或時庭前に犬共集て、噛合ひけるを見て、此禅門面白き事に思て、是を愛する事骨髄に入れり。則諸国へ相触て、或は正税・官物に募りて犬を尋、或は権門高家に仰て是を求ける間、国々の守護国司、所々の一族大名、十疋二十疋飼立て、鎌倉へ引進す。是を飼に魚鳥を以てし、是を維ぐに金銀を鏤む。其弊甚多し。輿にのせて路次を過る日は、道を急ぐ行人も馬より下て是に跪き、農を勤る里民も、夫に被取て是を舁、如此賞翫不軽ければ、肉に飽き錦を着たる奇犬、鎌倉中に充満して四、五千疋に及べり。月に十二度犬合せの日とて被定しかば、一族大名御内外様の人々、或は堂上に坐を列ね、或庭前に膝を屈して見物す。于時両陣の犬共を、一二百疋充放し合せたりければ、入り違ひ追合て、上に成下に成、噛合声天を響し地を動す。心なき人は是を見て、あら面白や、只戦に雌雄を決するに不異と思ひ、智ある人は是を聞て、あな忌々しや、偏に郊原に尸を争ふに似たりと悲めり。見聞の准ふる処、耳目雖異、其前相皆闘諍死亡の中に存て、浅猿しかりし挙動なり。

【大意】闘犬狂いの北条高時のご機嫌を取ろうとして、皆、犬を献上するので、当時の鎌倉には闘犬が4000~5000匹いて、月に12度も「犬合わせの日」(闘犬の日)が定められていたとある。


■『太平記』「時政参篭榎嶋事」

時已に澆季に及で、武家天下の権を執る事、源平両家の間に落て度々に及べり。然ども天道必盈を虧故に、或は一代にして滅び、或は一世をも不待して失ぬ。今相摸入道の一家、天下を保つ事已に九代に及ぶ。此事有故。昔鎌倉草創の始、北条四郎時政榎嶋に参篭して、子孫の繁昌を祈けり。三七日に当りける夜、赤き袴に柳裏の衣着たる女房の、端厳美麗なるが、忽然として時政が前に来て告て曰、「汝が前生は箱根法師也。六十六部の法華経を書冩して、六十六箇国の霊地に奉納したりし善根に依て、再び此土に生る事を得たり。去ば子孫永く日本の主と成て、栄花に可誇。但其挙動違所あらば、七代を不可過。吾所言不審あらば、国々に納し所の霊地を見よ」と云捨て帰給ふ。其姿をみければ、さしも厳しかりつる女房、忽に伏長二十丈許の大蛇と成て、海中に入にけり。其迹を見に、大なる鱗を三つ落せり。時政所願成就しぬと喜て、則彼鱗を取て、旗の文にぞ押たりける。今の三鱗形の文是也。其後弁才天の御示現に任て、国々の霊地へ人を遣して、法華経奉納の所を見せけるに、俗名の時政を法師の名に替て、奉納筒の上に大法師時政と書たるこそ不思議なれ。されば今相摸入道七代に過て一天下を保けるも、江嶋の弁才天の御利生、又は過去の善因に感じてげる故也。今の高時禅門、已に七代を過、九代に及べり。されば可亡時刻到来して、斯る不思議の振舞をもせられける歟とぞ覚ける。


【大意】太初代執権・北条時政が江ノ島に参籠したところ、江ノ島弁財天は、北条時政から7代の間、北条家が安泰である保証をした。(その後、江ノ島弁財天は、龍となって海に潜ったが、その時、鱗を3枚残したという。それで北条時政は、北条家の家紋を「三つ鱗」にしたという。)
 北条得宗9代高時まで続いたのは、江ノ島弁才天のご利益か、もしくは過去の善行のおかげであろう。妖霊星が現れて北条家滅亡の時期が迫っているのに、田楽だの闘犬に夢中になるとは、どうかしてるとしか言いようがない。

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