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「本能寺の変」の真相★高島孫右衛門『元親記』「信長卿与元親被申通事、付、御朱印の面御違却之事」

 「本能寺の変」の動機についていては、50以上の説がありますが、学者が注目しているのは「四国政策転換説」です。
 織田信長は、明智光秀を取次として、長曾我部元親に「四国切り取り次第」朱印状を与えましたが、「四国の北半分(伊予、讃岐、阿波の北部)はダメ」と政策転換(遺却、違変)しました。
 この政策転換により、「本能寺の変」が起きたというのが「四国政策転換説」です。登場人物は、織田信長&長宗我部元親と仲介者の明智光秀です。他には、織田信長に四国政策転換を提案した松井友閑、明智光秀の背中を押した斉藤利三です。
 この記事では、1631年に長宗我部元親の側近の高島孫右衛門が著した『元親記』「信長卿与元親被申通事、付、御朱印の面御違却之事」と『諸家系図纂』(巻26下)「長曾我部譜 秦氏」を取り上げます。


「信長卿と元親、申し通ぜらるる事、付けたり、御朱印の面御違却の事」

 信長卿、御上洛以前より通せられし也。御奏者は明智殿也。又、明智殿の御内・斎藤内蔵助は、元親卿の為には小舅也。明智殿、御取り合ひを以て、元親卿の嫡子・彌三郎、実名の御契約を致す。

【意訳】長宗我部元親と織田信長とは、織田信長の上洛以前から通じていた。奏者(窓口)は明智光秀である。また、明智光秀の身内の斉藤利三は、長宗我部元親の小舅(こじゅうと。妻の兄)である。(注:ここでは長宗我部元親の正室が、石谷頼辰&斎藤利三の異父妹であることをいう。石谷頼辰は養子で、斎藤利三の実兄である。)明智光秀の取りなしで、長宗我部元親の嫡男・弥三郎の実名(諱)を織田信長に決めてもらうことになった。

 此の時、元親よりの使者に賀見因幡守と云ふ者、罷り上る。進物は長光の御太刀、御馬代金子十枚、大鷹二連なり。即ち「信」と云ふ御字を給はる。之に依り、「信親」と云ひし也。其の御祝儀として、信長卿より左文字の御太刀(羼は梨子地、金具分は後藤仕也)、御馬一疋(栗毛)拝領有り。此の由緒を以て、「四国の儀は、元親手柄次第に切り取り候へ」と御朱印頂戴したり。

【意訳】この時(天文6年)、長宗我部元親の使者として、加久見因幡守(『土佐物語』では、中島可之助(なかじまべくのすけ))という者が参上した。進物(献上品)は長光の太刀、馬代として金10枚、大鷹2連(もと。鷹狩りに使う鷹の数え方。『貞丈雑記』に「鷹は一羽、二羽とはいわず、一連、二連と云う」とある)である。そこで、織田信長から「信」の1字が与えられ、「信親」と名乗った。その御祝儀として、織田信長より左文字の太刀(鞘は梨子地(なしじ。漆の上に金や銀の粉末(梨子地粉)を蒔いた装飾)、金具は後藤家の作りである)、馬一匹(栗毛)を拝領した。(長宗我部信親の評判は高く、織田信長は養子にしたかったが、嫡男であったので果たせなかった。養子にしていたら、「本能寺の変」は起こらなかったかもしれない。)この由緒(織田信長が嫡男・弥三郎の烏帽子親になったこと)により、「四国は、長宗我部元親、手柄次第で(制圧した場所は)、領地にして良い」という朱印状をいただいた。

※「天正6年10月26日付長宗我部弥三郎宛織田信長書状」
対惟任日向守書状令披見候。仍阿州而在陳尤候。弥可被抽忠節事肝要候。次字之儀、信遣之候。即信親可然候。猶惟任可申也。謹言。
   十月廿六日         信長
    長宗我部弥三郎殿

※この「10月26日付長宗我部弥三郎宛織田信長書状」の年次は「天正3年」と考えられてきたが、平成26年(2014年)6月23日、林原美術館での「石谷家文書」の発見報告により、同文書所収の「12月16日付石谷頼辰宛長宗我部元親書状」に、「織田信長が荒木村重を攻めるため摂津に出陣した」「長宗我部弥三郎に「信」の字を拝領した」ということが記されており、「信」の拝領は、「有岡城の戦い」があった天正6年のことであることが判明した。
 同時に発給されたと思われる「四国は切り取り次第、所領にしてよい」という朱印状は発見されていない。

 然る処に、其の後、元親儀を信長卿へ或人さゝへ申と有聞及申処に、「元親事、西国に並なき弓取と申。今の分に切伐に於は、連々天下のあだにも可罷成。阿州、讃州さへ手に入申候はゝ、淡州などへ手遣可仕事程は、御座有間敷」と申上と云。信長卿「実(げ)も」とや思しけん、其後、御朱印の面違却有て、「予州、讃州上表申、阿波南郡半国本国に相添可被遣」と被仰たり。元親、「四国御儀は、某(それがし)が手柄を以切取申事に候。更に信長卿、可為御恩儀に非ず。存の外なる仰せ、驚き入り申す」とて、一円御請不被申。又、重而、明智殿より、斎藤内蔵助兄・石谷兵部少輔を御使者に被下たり。是にも御返事被申切也。

【意訳】そうしている内に(こうして、織田信長と長宗我部元親は同盟を組んだのであるが)、その後、長宗我部元親について聞き及んだ「織田信長に協力する」という或る人物(実は今井宗閑)が「長宗我部元親は『西国に並びなき弓取(西日本一の武将)』だという。今のペースでどんどん勝ち進んで、四国を平定してしまったら、後々、天下(織田信長)の仇(あだ。強敵)になりかねません。長宗我部元親にしたら、土佐国に加えて阿波国(徳島県)と讃岐国(香川県)さえ手に入れば十分なのに、さらに進軍して淡路国(淡路島)に侵攻したら異常事態です」と申し上げたという。織田信長も「実(げ)に」(全くその通りだ)と思ったのであろうか、その後、先の朱印状の内容を変えて、「伊予国、讃岐国は返上してもらい、阿波国の南半分を本国(土佐国)に添えて与える」と言った。長宗我部元親は、「四国については、私が実力で奪い取った所領であり、織田信長の御恩(協力、加勢)で奪い取ったのではない。思いもよらぬ命令で驚いている」と言い、一切、受け入れなかった。また、1月に続けて5月にも、明智光秀が長宗我部元親を説得しようと、斎藤利三の実兄・石谷頼辰を使者として送ったが、これも無視して返事しなかった。

※「或人」「佞人」:安土城において、織田信長に長宗我部元親について進言(讒言?)した人物。このため、長宗我部元親びいきの近衛前久は、長宗我部元親と織田信長の仲を取り持つのに苦労した。「近衛前久書状」(石谷家文書)の「佞人」が誰であるかは、近衛前久の回顧録から、松井友閑(織田信長側近の吏僚。堺の代官)であることが判明している。

※「天正11年2月20日付石谷光政・頼辰宛近衛前久書状」(石谷家文書)
 去々年冬、於安土種々悪様ニ信長へ申成候者て、既事切之やうニ成候を、われわれ達而信長へ元親無疎意趣を申分、当分御納得、其方へ被申越為躰にて候ニ、あしく申成候ものハ見事の者ニ成、われら毛頭無誤事を悪様ニ申成候事、誠ニ思外ゑんの下の舞とハかやうの事候歟、乍去、元親律儀人にて一切左様ニ不被存候由承候間、満足申候キ、其方まてにて候ハす、万方へ其趣申触候つれとも、悉人かミしり候て、虚説申候ものハ跡はけニ成候キ、至于今ハ不入事候、最前之筋目もそたち不申候へ共、信長より惟任日向守ニ被申付被差下使候事ハ、われら達而申入たる故与存候、(中略)其以後被差上使者大鷹二居候つるか、信長へ元親より被進之候時も、一段御間可然やうニ成申を、それも佞人の申成まてにてあしく成り候キ、今ハこれも申て無詮事ニ候へ共、信長へそこらの疎略にてハ無之候キ、悪様ニ申成候故にて候キ、われらハ其以来ハさし出、取成たてを申候て、結句人の遍執にて如此成行候キ、大事与存候て逼塞申候キ(中略)就其以来去年不慮、於京都信長生害之刻、拙者事毛頭無疎意処、信長連々入魂崇敬被申、人かましくあつかハれ候義を、佞人共連々令遍執、悪様ニ申成、三七殿存分故、不及了簡牢龍候、雖
然無誤趣一々申分、三七郎も既被聞分、此上ハ信長之時ニ不相替可有馳走之由候而、無異議刻、無程内輪之相論令出来、羽柴筑前守京都令進止候処、彼佞人企讒訴訴、(以下略)
https://images.dnpartcom.jp/ia/workDetail?id=HMA11X00013X0001


 夫れに就いて、四国への御手遣、火急に御沙汰有り。信長卿御息・三七殿へ四国の御軍代に仰付られ、先手として三好正厳、天正十年五月上旬、阿波勝瑞へ下着す。先(ま)ず、一の宮・蠻山表へ取り掛け、両城を攻め落とす。三七殿は、岸の和田まで御出陣と有り。
 扨、斉藤内蔵助は、四国の儀を気遣に存によって也。明智殿謀叛の事、弥被差急。既六月二日に、信長卿、御腹をめさるゝ。

【意訳】そこで織田信長は、「四国征伐」の緊急命令を発した。織田信長の子・三七殿(織田(神戸)信孝)に総大将を仰せつけ、先陣として三好正厳(康長)が、天正10年5月に阿波国の勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)に下着(げちゃく。都から地方に向かい、目的の地に着くこと)した。先陣(三好隊)は、先ず、一宮城(徳島県徳島市一宮町)、夷山城(徳島県徳島市八万町夷山)を攻め、両城を攻め落とした。この時、織田信孝本隊は、岸和田(大阪府岸和田市)まで出陣していたという。
 さて、斎藤利三は四国のことを気づかってか、明智光秀の謀反を差し急いだ。そして、6月2日、織田信長は、(本能寺で、明智光秀に攻められて)切腹した。

※天正10年5月7日付織田信孝宛織田信長朱印状「四国国分(くにわけ)令」
就今度至四国差下条々
一、讃岐国之儀、一円其方可申付事
一、阿波国之儀、一円三好山城守可申付事、
一、其外両国之儀、信長至淡州出馬之刻、可申出之事、
右条々、聊無相違相守之、国人等相糺忠否、可立置之輩者立置之、可追却之族者追却之、政道以下堅可申付之。万端、対山城守、成君臣父母之思、可馳走事、可為忠節候。能々可成其意候也。
 天正十年五月七日  (朱印)
  三七郎殿

※「一の宮・蠻山表へ取り掛け、両城を攻め落とす」:「天正10年5月21日付斉藤利三宛長宗我部元親書状」(「石谷家文書」)には、「一宮を始、ゑひす山城、畑山城、うしきの城、仁宇(にう)南方不残明退申候」(阿波国東部の一宮城をはじめ、夷山城、畑山城(徳島県阿南市桑野町壱町ケ坪)、牛岐城(徳島県阿南市富岡町)、仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)、南郡(みなみごおり。阿波国南部)から残らず撤退した)とある。「戦って落とされた」のか、「取り囲まれて無血開城した」のか?

結局、「本能寺の変」は、「斎藤利三が、長宗我部元親を救うために、明智光秀に織田信長を討たせた暗殺事件」でOK?

 ──日向守内斎藤蔵助、今度謀叛随一也。(山科言経『言経卿記』)

「本能寺の変」について詳しく知っているこの山科言経の言葉が「本能寺の変」の全てと言っても過言ではないでしょう。「斉藤利三関与説」が正解!

<「本能寺の変」関連人物>
・主犯:明智光秀
・幇助:斉藤利三
・遠因を作った人
 ・織田信長(四国政策を変更した人物)
 ・松井友閑(織田信長に四国政策の変更を促した人物)
 ・長宗我部元親(四国政策の変更に反発し、恭順が遅れた。)

【参考】里山倶楽部四国編「織田信長の四国攻め」
http://satoyamasikoku.fc2web.com/nobunaga1.pdf

【参考文献】『長曾我部譜 秦氏』
 元親、曽(かつ)て、信長未だ上洛以前、明智光秀を先容(せんよう)と為して信長と通ず。斎藤内蔵助は、元親小舅也。故、斉藤、明智、専(もっぱ)ら和睦の儀を為し、信長詰焉。元親使・加久見因幡、太刀、馬(金十枚)、鷹を献ず。信長、悦而、賜「信」字、於元親嫡男・弥三郎(是明智兼而申之故也)。又、太刀、馬、之の謝として送る。且、「四国は、元親以鋒刃之功可切取」賜朱印。
 信長上洛の儀は、人讒「元親云。彼勇名赫于四州。後必為天下の患」。信長同之。遣使云「阿州半国(南郡)、土州は元親領之。讃、予2州は、信長に献ずべし」。元親、大怒曰「四州は、我切取国也。何受信長の命(めい)乎」。不能返報。明智亦使斎藤兄・石谷兵部述「和義不破」。元親怒堅、明智と絶ゆ。信長使三七信孝、領四国而発駕。三好笑岩為先鋒。信孝陣于泉州岸和田。五月上旬、笑岩、先到阿州勝瑞而、攻落一宮、蠻山2城。六月二日、信長為光秀被弑(依四国違変而斉藤思殃(わざわい)及其身而存令明智謀叛)。
【現代語訳】長宗我部元親は、かつて、織田信長が上洛する以前から、明智光秀を先容(取次)と為して、織田信長と通じていた。斉藤利三は、長宗我部元親の小舅である。故に、斎藤利三と明智光秀は、専ら信長に対し、長宗我部元親との和睦を進めていた。長宗我部元親は、加久見因幡守を使者として太刀、馬(黄金10枚)、鷹を献上した。信長は悦んで、長宗我部元親の嫡男・彌三郎に「信」の字を賜った。(これは明智光秀が兼てより織田信長の申し述べていた故である。)。またこの献上の謝礼として、太刀、馬を贈り、且つ、「四国は長宗我部元親の合戦に依る切り取り次第」とする朱印状も賜った。
 織田信長の上洛後、讒言をする者(実は松井友閑)が「長宗我部元親の勇名は四国に鳴り響いている。後に必ず天下の患(わずらい)となる」と讒言した。織田信長は、これに同意し、使いを遣わし、長宗我部元親に「阿波国半国(南郡)と土佐国は、長宗我部元親の領分とする。讃岐国と伊予国の2ヶ国は、織田信長に献上せよ」と伝えた。長宗我部元親は大いに怒り、「四国は私が切り取った国である、どうして信長の命(めい)を受けられようか」と、返報すらしなかった。明智光秀は、また、使者として、斎藤利三の兄・石谷頼辰を送り「和議を破るべきではない」と言ったが、長宗我部元親の怒りは堅く、明智光秀とも断交した。
 織田信長の使者である織田信孝は、四国を領するために出陣し、三好笑岩がその先陣を務めた。織田信孝は、本陣を和泉国岸和田に置き、5月上旬、先陣の三好笑岩は、先に阿波国勝端に至り、一宮城、夷山城を攻め落とした。
 6月2日、織田信長は、明智光秀に殺された。(四国国分(くにわけ)の違変(契約を破ること)により、斎藤利三は、災いがその身に及ぶと思い、明智光秀に謀反を決意させたという。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920302/196

ところで、『長曾我部譜 秦氏』の冒頭に、「蓋聞長曾我部氏者其始祖従異国来着船於日本伊勢国桑名浦」(蓋(けだ)し聞く。長曾我部氏は、其の始祖、異国より来たり、日本伊勢国桑名浦に於いて着船す。)とあるのですが、「異国から来た秦氏」って・・・徐福と共に蓬莱宮を目指した人?
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920302/194
 『元親記』には、「秦川勝の末葉、土佐国司となり、長曽我部、江村、廿枝郷など三千貫領知すべき綸旨を頂戴し、御盃を賜る。その盃に酢漿草の葉が浮かび、これをもって酢漿草を紋に定む」とあります。

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