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755年(1265年前)の七夕の夜の契り

 楊貴妃のことを忘れられない唐の玄宗皇帝は、蜀の方士に探させた。
 方士は、太真苑=蓬莱宮(熱田神宮)で楊貴妃に会った。方士が「玄宗皇帝に会ったことを報告する。証拠が欲しい」と言うと、楊貴妃は簪の一部を方士に与えた。方士が「これはよくある物。玄宗皇帝と楊貴妃の2人だけしか知らない密約を知りたい」と言うと、楊貴妃は、天宝14年(755年)7月7日の夜、長生殿で、
在天願作比翼鳥(天にありて、願はくは比翼の鳥)
在地願為連理枝(地にありて、願はくは連理の枝)
天長地久無時尽(天長地久にして、尽くる事なからん)
と約束したことを教えた。方士は唐に帰り、玄宗皇帝に簪を渡し、七夕の夜の密約を報告すると、玄宗皇帝は「楊貴妃に間違いない」として、熱田に来て、熱田神宮別宮・八劍宮の御祭神となった。

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【出典】『曽我物語』(巻2)「玄宗皇帝の事」
 飽かぬ北の御方の御名残りは、玄宗皇帝、楊貴妃と申せし后、安禄山戦の為に、夷(えびす)に下し給ふ。御思ひの余りに、蜀(しよく)の方士を遣はし給ふ。方士、神通にて、一天三千世界を尋ね回り、太真苑(たいしんゑん)に至る。蓬莱宮(ほうらいききゅう)これなり。ここに来たつて、玉妃に会ひぬ。この所に至りて見れば、浮雲(ふうん)重なり、人跡(じんせき)の通ふべき所ならねば、簪(かんざし)を抜きて、扉(とぼそ)を叩く。双鬟(さうくわん)童女(どうにょ)二人出でて、「しばらくこれに待ち給へ。玉妃は、大殿籠(おおとのごも)れり。ただし、いづくより、如何なる人ぞ」と問ふ。「唐の太子の使ひ、蜀の方士」と答へければ、内に入りぬ。時に、雲海沈々(ちんちん)として、洞天(とうてん)に日暮れなんとす。悄然(せうぜん)として、待つところに、玉妃(ぎよくひ)出で給ふ。これ、即(すなは)ち楊貴妃なり。右左の女、七、八人。方士、揖(いつ)して、皇帝、安寧を問ふ。方士、細かに答ふ。言ひ終をはりて、玉妃、証(しるし)とや、簪を分きて、方士に賜たぶ。その時、方士、「これは、世の常にある物なり。支証に立たず。叡覧に備へ奉らんに、如何なる密契かありし」。玉妃、暫く案じて、「天宝14年の秋7月7日の夜、『天にありて、願はくは比翼の鳥、地にありて、願はくは連理の枝、天長地久にして、尽くる事なからん』と、知らず、奏せんに、御疑ひあるべからず」と言ひて、玉妃去りぬ。方士、帰り参りて、皇帝に奏聞す。「さる事あり、方士、誤りなし」とて、飛車に乗り、我が朝(ちょう)、尾張の国に天下り、八剣(やつるぎ)の明神と顕れ給ふ。楊貴妃は、熱田の明神にてぞ渡らせ給ひける。蓬莱宮、即ちこの所とぞ申まうす。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/877589/38

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