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史実スペクタクル逃亡譚『逃げ上手の若君』第2話「鬼ごっこ1333」

 松井優征先生の『逃げ上手の若君』(『週刊少年ジャンプ』連載中)は大変面白く、私が「実は史実は・・・」なんて解説したら炎上必死?(多分、無視されるだけ(苦笑)。)
 史実を知らない方がいいと思う方はお戻り下さい。

第2話「鬼ごっこ1333」あらすじ


 前回は鎌倉幕府が8ページで滅ぶというスピード展開であったので、今回からは「諏訪編」かと思いきや、

 ──まだ鎌倉にいた。

警備が厳重で、鎌倉から出られそうにないという。
廃屋に隠れていたが、外から「北条邦時が捕まって斬首された」という噂話が聞こえてきた。廃屋から飛び出して詳しく話を聞くと、北条高時から保護を託された伯父(母の兄)の五大院宗繁が、懸賞金目当てで、隠れ場所を新田義貞に密告したのだという。とはいえ、新田義貞に「不忠の者」として一蹴され、懸賞金はもらえなかったという。

「甥の七光りで出世しておきながら、実の甥で、主君の子で、9歳の幼子を秒で敵に売った男──五大院宗繁は、日本史上屈指の鬼畜武将として名を残す」

諏訪頼重は言う。
「兄上様の仇討ちをもって、貴方様の天下への第一歩と致しましょう」

一方、五大院宗繁も、「懸賞金をもらえなかったのは側室の子だからだ」と勘違いし、北条時行の生け捕りを狙う「南北朝鬼ごっこ 賽の鬼・五大院宗繁」と化した。
 そして2人は出会うべくして出会った。諏訪頼重は北条時行に刀(「天下五剣」の一振りである北条氏の宝刀「鬼丸国綱」)を渡した。果たして北条時行は五大院宗繁に勝てるのか? それは戦か、はたまた遊戯か? 命を懸けた(賭けた)乱世の鬼ごっこ(足利高氏がゴールの現代風双六)の始まり(振り出し)です!!

※『太平記』「直冬上洛事付鬼丸鬼切事」
(前略)抑此鬼丸と申太刀は、北条四郎時政天下を執て四海を鎮めし後、長一尺許なる小鬼夜々時政が跡枕に来て、夢共なく幻共なく侵さんとする事度々也。修験の行者加持すれ共不休。陰陽寮封ずれ共不立去。剰へ是故時政病を受て、身心苦む事隙なし。或夜の夢に、此太刀独の老翁に変じて告て云く、「我常に汝を擁護する故に彼夭怪の者を退けんとすれば、汚れたる人の手を以て剣を採りたりしに依て、金精身より出て抜んとすれ共不叶。早く彼夭怪の者を退けんとならば、清浄ならん人をして我身の金清を拭ふべし」と委く教へて、老翁は又元の太刀に成ぬとぞ見たりける。時政夙に起て、老翁の夢に示しつる如く、或侍に水を浴せて此太刀の金精を拭はせ、未鞘にはさゝで、臥たる傍の柱にぞ立掛たりける。冬の事なれば暖気を内に篭んとて火鉢を近く取寄たるに、居たる台を見れば、銀を以て長一尺許なる小鬼を鋳て、眼には水晶を入、歯には金をぞ沈めたる。時政是を見るに、此間夜な夜な夢に来て我を悩しつる鬼形の者は、さも是に似たりつる者哉と、面影ある心地して守り居たる処に、抜て立たりつる太刀俄に倒れ懸りて、此火鉢の台なる小鬼の頭をかけず切てぞ落したる。誠に此鬼や化して人を悩しけん、時政忽に心地直りて、其後よりは鬼形の者夢にも曾て見へざりけり。さてこそ此太刀を鬼丸と名付て、高時の代に至るまで身を不放守りと成て平氏の嫡家に伝りける。相摸入道鎌倉の東勝寺にて自害に及ける時、此太刀を相摸入道の次男少名亀寿に家の重宝なればとて取せて、信濃国へ祝部を憑て落行。建武二年八月に鎌倉の合戦に打負て、諏防三河守を始として宗との大名四十余人大御堂の内に走入、顔の皮をはぎ自害したりし中に此太刀有ければ、定相摸次郎時行も此中に腹切てぞ有らんと人皆哀に思合へり。其時此太刀を取て新田殿に奉る。義貞不斜悦て、「是ぞ聞ゆる平氏の家に伝へたる鬼丸と云重宝也」と秘蔵して持れける剣也。是は奥州宮城郡の府に、三の真国と云鍜冶、三年精進潔斎して七重にしめを引、きたうたる剣なり。(後略)

【主な登場人物】

(1)諏訪頼重(?-1335)


 諏訪大社の諏訪大社大祝とされ、『逃げ上手の若君』では、少し先の未来が見えるようだ。
 諏訪氏は、代々、信濃国守護・北条氏の御内人であったが、1333年の鎌倉幕府滅亡後に信濃国守護に任じられた小笠原氏と諏訪氏とは対立関係になり、諏訪頼重&時継父子は、北条時行を奉じて1335年に「中先代の乱」を起こした。その結果、鎌倉を一時占領するが、京から派遣された追討軍に大敗し、諏訪頼重は、子・諏訪時継ら43人と勝長寿院で自刃した。ただ、「其死骸を見るに、皆面の皮を剥で何れをそれとも見分ざれば、相摸次郎時行も、定て此内にぞ在らん」(皆、顔の皮を剥いでいたので、誰の遺体であるか判断できなかったが、北条時行の遺体は、この中のどれかであろう)と考えられたが、北条時行は生きていたので、もしかしたら諏訪頼重父子も生き延びたかも知れない。

『太平記』「足利殿東国下向事付時行滅亡事」
始遠江の橋本より、佐夜の中山・江尻・高橋・箱根山・相摸河・片瀬・腰越・十間坂、此等十七箇度の戦ひに、平家二万余騎の兵共、或は討れ或は疵を蒙りて、今僅に三百余騎に成ければ、諏方三河守を始として宗との大名四十三人、大御堂の内に走入り、同く皆自害して名を滅亡の跡にぞ留めける。其死骸を見るに、皆面の皮を剥で何れをそれとも見分ざれば、相摸次郎時行も、定て此内にぞ在らんと、聞人哀れを催しけり。

(2)五大院宗繁(?-?)


北条氏得宗家被官である御内人。
主人公・北条時行の異母兄・北条邦時の母の兄。

北条貞時┬覚久(長崎光綱の養子へ)
    ├菊寿丸(嫡男。享年5)
    ├高時┬邦時(母:側室・常葉前(五大院宗繁の妹))
    ├泰家└時行(母:正室・にい(新、二位)殿)
    └崇暁(出家)

 1333年の鎌倉幕府滅亡時に、妹婿・北条高時から嫡男・北条邦時(五大院宗繁の甥。『逃げ上手の若君』では嫡男としない)を託された。

「中にも五大院右衛門尉宗繁は、故相摸入道殿の重恩を与たる侍なる上、相摸入道の嫡子・相摸太郎邦時は、此五大院右衛門が妹の腹に出来たる子なれば、甥也。主也。「何に付ても弐ろは非じ」と深く被憑けるにや、「此邦時をば汝に預置ぞ。如何なる方便をも廻し、是を隠し置き、時到りぬと見へば、取立て亡魂の恨を可謝」(中でも五大院宗繁は、故・北条高時から長年にわたって恩を受けてきた武士であり、北条高時の嫡子・北条邦時は、妹の子であるから、甥にあたる。主君でもある。「同んな時であっても裏切らないであろう」と深く信頼し、「北条邦時を預ける。いかなる手段を使ってでも北条邦時を隠し遠し、時が来たと思ったら、立ち上げて、亡魂の恨みを和らげて欲しい」と頼んだ。)

 しかし、五大院宗繁は、懸賞金目当てに、甥であり、主君でもある北条邦時を売ろうと考え、新田義貞執事・船田義昌に北条邦時の所在を密告した。北条邦時は、5月28日に捕縛され、5月29日に鎌倉で処刑された。

「「不道也」と、見る人毎に爪弾をして悪みしかば、義貞、「げにも」と聞給て、「是をも可誅」と、内々其儀、定まりければ、宗繁是を伝聞て、此彼に隠れ行きけるが、梟悪の罪身を譴めけるにや、三界雖広一身を措に処なく故旧雖多一飯を与る無人して、遂に乞食の如に成果て、道路の街にして、飢死にけるとぞ聞へし」(「不忠者」と、見る人毎に爪弾きにして悪く言ったので、新田義貞も聞いて「その通りである」と思い「誅殺すべし」と内々に決定すると、五大院宗繁はそれを伝え聞いて、逃げた。極悪の罪がその身に報いをなしたのか、この世(欲界、色界、無色界)は広いが、居場所はなく、旧友であっても食事を与える者は無く、遂に乞食となり、道端で餓死したとされる)。

■『太平記』「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」

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義貞已に鎌倉を定て、其威遠近に振ひしかば、東八箇国の大名・高家、手を束ね膝を不屈と云者なし。多日属随て忠を憑む人だにも如此。況や只今まで平氏の恩顧に順て、敵陣に在つる者共、生甲斐なき命を続ん為に、所縁に属し降人に成て、肥馬の前に塵を望み、高門の外に地を掃ても、己が咎を補はんと思へる心根なれば、今は浮世の望を捨て、僧法師に成たる平氏の一族達をも、寺々より引出して、法衣の上に血を淋き、二度は人に契らじと、髪をゝろし貌を替んとする亡夫の後室共をも、所々より捜出して、貞女の心を令失。悲哉、義を専にせんとして、忽に死せる人は、永く修羅の奴と成て、苦を多劫の間に受けん事を。痛哉、恥を忍で苟も生る者は、立ろに衰窮の身と成て、笑を万人の前に得たる事を。中にも五大院右衛門尉宗繁は、故相摸入道殿の重恩を与たる侍なる上、相摸入道の嫡子相摸太郎邦時は、此五大院右衛門が妹の腹に出来たる子なれば、甥也。主也。何に付ても弐ろは非じと深く被憑けるにや、「此邦時をば汝に預置ぞ、如何なる方便をも廻し、是を隠し置き、時到りぬと見へば、取立て亡魂の恨を可謝」と相摸入道宣ければ、宗繁、「仔細候はじ」と領掌して、鎌倉の合戦の最中に、降人にぞ成たりける。角て二三日を経て後、平氏悉滅びしかば、関東皆源氏の顧命に随て、此彼に隠居たる平氏の一族共、数た捜出されて、捕手は所領を預り、隠せる者は忽に被誅事多し。五大院右衛門是を見て、いやいや果報尽はてたる人を扶持せんとて適遁得たる命を失はんよりは、此人の在所を知たる由、源氏の兵に告て、弐ろなき所を顕し、所領の一所をも安堵せばやと思ければ、或夜彼相摸太郎に向て申けるは、「是に御坐の事は、如何なる人も知候はじとこそ存じて候に、如何して漏聞へ候けん、船田入道明日是へ押寄候て、捜し奉らんと用意候由、只今或方より告知せて候。何様御座の在所を、今夜替候はでは叶まじく候。夜に紛れて、急ぎ伊豆の御山の方へ落させ給候へ。宗繁も御伴申度は存候へ共、一家を尽して落候なば、船田入道、さればこそと心付て、何くまでも尋求る事も候はんと存じ候間、態御伴をば申まじく候」と、誠し顔に成て云ければ、相摸太郎げにもと身の置所なくて、五月二十七日の夜半計に、忍て鎌倉を落玉ふ。昨日までは天下の主たりし相摸入道の嫡子にて有しかば、仮初の物詣で・方違ひと云しにも、御内・外様の大名共、細馬に轡を噛せて、五百騎・三百騎前後に打囲で社往覆せしに、時移事替ぬる世の有様の浅猿さよ、怪しげなる中間一人に太刀持せて、伝馬にだにも乗らで、破たる草鞋に編笠着て、そこ共不知、泣々伊豆の御山を尋て、足に任て行給ひける、心の中こそ哀なれ。五大院右衛門は、加様にして此人をばすかし出しぬ。我と打て出さば、年来奉公の好を忘たる者よと、人に指を被差つべし。便宜好らんずる源氏の侍に討せて、勲功を分て知行せばやと思ければ、急船田入道が許に行て、「相摸の太郎殿の在所をこそ、委く聞出て候へ、他の勢を不交して、打て被出候はゞ、定て勲功異他候はんか。告申候忠には、一所懸命の地を安堵仕る様に、御吹挙に預り候はん」と云ければ、船田入道、心中には悪き者の云様哉と乍思、「先子細非じ」と約束して、五大院右衛門尉諸共に、相摸太郎の落行ける道を遮てぞ待せける。相摸太郎道に相待敵有とも不思寄、五月二十八日明ぼのに、浅猿げなるやつれ姿にて、相摸河を渡らんと、渡し守を待て、岸の上に立たりけるを、五大院右衛門余所に立て、「あれこそ、すは件の人よ」と教ければ、船田が郎等三騎、馬より飛で下り、透間もなく生捕奉る。俄の事にて張輿なんどもなければ、馬にのせ舟の縄にてしたゝかに是を誡め、中間二人に馬の口を引せて、白昼に鎌倉へ入れ奉る。是を見聞人毎に、袖をしぼらぬは無りけり。此人未だ幼稚の身なれば、何程の事か有べけれ共、朝敵の長男にてをはすれば、非可閣とて、則翌日の暁、潛に首を刎奉る。昔程嬰が我子を殺して、幼稚の主の命にかへ、予譲が貌を変じて、旧君の恩を報ぜし、其までこそなからめ、年来の主を敵に打せて、欲心に義を忘れたる五大院右衛門が心の程、希有也。不道也と、見る人毎に爪弾をして悪みしかば、義貞げにもと聞給て、是をも可誅と、内々其儀定まりければ、宗繁是を伝聞て、此彼に隠れ行きけるが、梟悪の罪身を譴めけるにや、三界雖広一身を措に処なく故旧雖多一飯を与る無人して、遂に乞食の如に成果て、道路の街にして、飢死にけるとぞ聞へし。


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