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覚恕なる人物

1.覚恕について


万里小路栄子(女院)
 ‖─正親町天皇(1517-1593)
後奈良天皇(1497-1557)
 ‖─覚恕(1521-1574)
伊予局(宮人)

 覚恕(かくじょ)は、知仁親王(後の第105代後奈良天皇)の第2皇子で、第106代正親町天皇の異母弟である。母の伊予局は、小槻雅久宿祢の娘である。(豊臣秀吉(1537-1598)が後奈良天皇の御落胤であれば、覚恕の異母弟になる。)
 別称は、「曼殊院宮」「竹内殿」「金蓮院准后」。

『華頂要略』(142)「諸門跡伝」
覚恕准三宮 御奈良天皇第二皇子。母伊豫局、小槻雅久宿祢女。
永禄5年12月、青蓮院尊朝親王得度務戒師。
元亀元年3月23日、補延暦寺座主、上卿大納言藤原実澄卿。
同2年9月12日、山門為信長軍勢滅亡、於茲座主無其謂歟。
天正2年正月3日遷化。号「金蓮院准后」。
当代雖為皇子尚不被及親王宣下。
※『諸門跡伝』(異本:母親の名が書き換えられているVer.)
覚恕准三宮 御奈良天皇第二皇子。母刑部卿親就女。
天文19年9月、従青門、被授与紫衣
弘治3年8月28日、准三宮遷化
永禄8年12月、青蓮院尊朝親王御得度勤戒師。
元亀元年3月23日、補延暦寺座主、上卿大納言藤原実澄卿
同2年9月12日、山門為信長軍勢滅亡、於茲座主無其謂歟。
天正2年正月3日遷化。号「金蓮院准后」。
当代雖為皇子、尚不被及親王宣下、但子細如前歟。
※2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の覚恕
天台座主(比叡山延暦寺住持)。正親町天皇の弟。幼少時より美しい兄に対してコンプレックスがあり、天台座主として金と権力で兄に対抗しようとする。朝倉・浅井連合軍を比叡山にかくまい、信長により焼き討ちに遭う。
https://www.nhk.or.jp/kirin/cast/47.html
覚恕は元亀元年(1570年)に天台座主になるまでは、北野天満宮別当でしたので、伊呂波太夫とは、興行の交渉などで顔見知りだと思われます。

2.略年表


大永元年(1522年)12月18日 誕生(異説あり)。
大永5年(1525年)4月1日    曼殊院門跡・慈運を師として得度。
天文6年(1537年)6月29日  師・慈運、遷化。門主を継承。
天文6年(1537年)12月29日  北野社別当職に就任。
天文19年(1550年)9月    紫衣を授かる。
天文22年(1553年)       千妙寺亮珍から台密三昧流を灌頂さる。
弘治3年(1557年)8月28日    准三宮の宣下を受けて「金蓮院准后」。
永禄5年(1562年)12月    尊朝法親王(青蓮院)の得度で戒和上。
元亀元年(1570年)4月23日  第166世天台座主に補任。元亀に改元。
元亀2年(1571年)9月12日    織田信長による「比叡山焼き討ち」。
天正2年(1574年)1月3日   遷化。
慶長10年(1605年)11月3日  良恕、覚恕33回忌追善和歌、興行。

『詠歌大概』「覚恕」
曼殊院茲運の付弟となり、薙髪せらるること、大永5年4月1日の条に、
勅命により、後柏原天皇宸筆御懐紙に観音経を摺写せらるること、享禄3年5月27日の条に、
因幡堂薬師に詣ぜらるること、天文元年9月6日の条に、
連歌御会を催さるること、同年11月25日の条に、
参内して経典を読誦せらるること、同4年5月28日の条に、
同じく参内して源空の縁起を書せらるること、同5年6月2日の条に、
北野社別当職を管掌せらるること、同6年12月29日の条に、
参内して公事根源抄を書写せらるること、同19年11月10日の条に、
三宮に准ぜらるること、弘治3年8月28日の条に、
皇子(誠仁)の御手習に候せらるること、永禄4年11月9日の条に、
参内して石山寺縁起を進講せらるること、同7年7月3日の条に、
廬山寺勧進帳を読進せらるること、元亀元年2月10日の条に、
天台座主に補せらるること、同年4月23日の条に、
延暦寺を焼夷せらるるにより、天台座主を辞せんとせらるること、同2年9月12日の条に、
小御所に仁王経を修せらるること、同年9月23日の条に、
武田信玄の権僧正叙任の斡旋を為し、信玄より太刀を贈らるること、同3年7月26日の条に、
覚恕より、荒神の呪を受けさせらるること、天正元年10月9日の条に、
覚恕、御病のこと、同年12月22日の条に、
覚恕の33回忌法会の為め、品経の勅題を公家衆に賜ひ、和歌を詠進せしめらるること、慶長10年12月2日の条に見ゆ。


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