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光秀の夢、信長の夢

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 NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、「本能寺の変」の前、明智光秀が、「毎晩、月へと続く高木を伐る夢を見た」とした。

「月にまで届く、大きな樹を伐る夢なのだ。見ると、その樹に登って、月に行こうとしている者がいる。どうやら、それは信長様のように見える。昔話で、月に登った者は二度と帰らぬという。わしは、そうさせぬため、樹を切っているのだ。しかし、その樹を伐れば、信長様の命はない。わしは夢の中でそのことを分かっている。分かっていて、その樹を伐り続ける。このまま同じ夢を見続ければ、わしは信長様を……嫌な夢じゃ」(by 明智光秀)

【夢占い(夢判断)】「帰蝶と明智光秀が織田信長をけしかけて月に登らせようとしたが、月に近づくにつれて変容していく織田信長を畏れた明智光秀が高木を伐り倒そうとする夢」であろう。「本能寺の変」の動機である「ノイローゼ説」に繋がる。

 さて、『明智軍記』(巻10)「不仁之人者天罰不逃事」(仁ある人は麒麟を呼ぶが、仁なき人は天罰から逃れられない)では、「本能寺の変」に関して、次の3つの怪異が紹介されている。

①多くの人々が同じ夢を見たという怪異
 当時の人々が「比叡山から猿が上洛する夢」を見た。
②織田信長の初夢が正夢になったという怪異
 子年生まれの明智光秀が、午年生まれの織田信長に切腹させた。
③織田信長の死が、100里先まですぐに届いたという怪異
 伊勢神宮の杣を伐っていた杣人が「織田信長が死んだ」と聞いた。

『明智物語』「不仁之人者天罰不逃事」
 去る元亀2年の秋も、信長、俄に比叡山延暦寺を攻め崩し、神社、仏閣、1宇も残さず焼き払ひ、僧俗共に殺害して、其の跡、明智光秀に賜ひける砌、「以後、此の山は、永く再興致すべからざる」の由、両度迄仰せ渡されしかども、元来、光秀は、医王、山王を信仰しけるに付き、密かに21社並びに諸堂仏閣を形計り経営し、因々人を遣はし、不浄を清め、掃除等を申し沙汰し、彼の時分、死に残りたる僧綱には、密々、手鈑を与へ、庵室をも結ばせなどして、此の10余年の間、憐愍(れんみん)を加へしとぞ。其の比(ころ)、人毎の夢に、猿共、夥しく群がりつつ、水色の旗を持ち、都へ上り、家々に立て置きぬと見へるとかや。
 今ぞ知りぬ。信長父子は信長殺せり。更に、明智にあらざる事を。されども、定まれる運命有りと言ひ伝へしは誠成る哉や。
 当正月2日の夜、信長公、御夢に鼠出て、馬の腹を喰ひ破りしかば、其の馬、忽ち死にけりと御覧じて、自ら夢を判じ玉ひけるは、「今年、我、49にて午の歳なり。然れば、子の年の人有りて、怨敵となるべき先表にもや有らん」と思召して、則ち、諸国の大名、並びに家来、大身なる輩の年共を算(かぞ)へさせられしに、日向守計り子年のて、当年55歳にぞ成りにける。織田殿、聞こし召し、「此の者は係る事すべしとも覚へず。偖は虚夢にてぞ有るべし」と宣ひしかども、終に光秀に討たれ給ひけるこそ不思議なれ。
 偖又、伊勢太神宮、修造せんとて、当春より紀州熊野の山中に入り、材木を悉く杣(そま)載取ける処に、6月2日辰の刻計り、川向ひより人の声して、「信長薨じ玉ふ間、皆々、先ず罷帰るべし」とぞ呼ばはりける。之に依り、大小工等、驚き騒ひで、「此の上は、仰せに従ふべし」とて、勢州山田にぞ帰りける。「京都より熊野迄は100里に及ぶ所なれば、人間の通ずべきにあらず。偏に神明の御告げなり」と人、皆、奇異の思ひをなせり。

【大意】元亀2年(1571年)秋、織田信長は、突然、「比叡山延暦寺焼き討ち」を行い、建物を焼き払い、その場にいた者を全員殺害し、延着寺領(を中心とする志賀郡)を明智光秀に与えた時、「今後、比叡山延暦寺を長きに渡って再興するな」と2度も申し付けた(大事なことなので2度言った)が、明智光秀は、以前から山王信仰の信者であったので、密かに山王21社や諸堂を形だけも造営し、時々、人を派遣しては、不浄を清め(血で汚れた土をさらい)、掃除などをさせ、「比叡山延暦寺焼き討ち」で生き残った僧には、密かに、手弁当を与え、住む庵を建てるなどして、(「本能寺の変」の1582年まで)の11年間、世話をしてきた。「本能寺の変」の直前、人々は、夢で、(比叡山の神である山王神の眷属の)猿たちが、群がって、(明智軍の)水色の旗を持って都へ上り、家々に立て置くのを見たという。
 今、分かった。織田信長父子は、織田信長が殺したのであって、明智光秀が殺したのではない。「決められた運命が存在した」と言い伝えられてきたのは、真実ではないかと。
 今年(「本能寺の変」が起きた天正10年)1月2日の夜、織田信長は「鼠が出てきて、馬の腹を喰ひ破り、その馬が忽ち死んだ」という夢を見た。織田信長は、「私は今年49歳になる午歳生まれである。ということは、子歳生まれの人が怨敵となる予知夢であろう」と思い、すぐに、戦国大名や戦国武将の生まれた歳を調べさせると、明智光秀だけが子歳生まれの55歳であった。報告を聞いた織田信長は「明智光秀だけはありえない。この夢は虚夢であろう」と言ったが、(その年の6月2日、本能寺にて)明智光秀に討たれたのは不思議な事である。
 また、伊勢神宮を遷宮しようとして、今年(天正10年)の春から紀伊国熊野の山中に入り、杣(神社建設に使う木)を杣(杣人、樵)が伐っている時、6月2日の辰の刻(午前8時)、川の対岸から「スポンサーである織田信長が亡くなったので、一時帰宅せよ」と呼ばれた。(伊勢神宮は20年毎に遷宮するが、資金不足で長いこと行われていなかった。それを天正10年、織田信長がスポンサーとなって復活させた。)それで杣たちは驚き騒ぎ、「こうなったからには、仰せに従おう」と、伊勢国山田に帰った。「京都から熊野までは100里以上ある。(織田信長が亡くなって数時間後に彼の死を伝えるとは)人間業では無い。偏に伊勢大神の御告げである」と人々は、皆、不思議に思った。


 鼠が馬の腹を食いちぎる(子年の人が、午年の織田信長に切腹させる)という天正10年の織田信長の初夢の話は有名で、多くの本に載せられている。

※初夢:新年のある夜に見る夢(現代では、1月1日から1月2日の夜、または、1月2日から1月3日の夜に見る夢とされる)。日本には、この夢の内容で1年の吉凶を占う「夢占い」(「夢判断」とも)の風習がある。いい1年にするには、いい初夢を見ればいいわけで、枕の下に七福神の絵を敷いて寝る。

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