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【活動支援記事】「明智光秀伝Ⅰ」

明智光秀の人生は、

Ⅰ期:誕生(1歳)から元服(11歳)まで
Ⅱ期:元服(11歳)から明智城落城(29歳)まで
Ⅲ期:明智城落城(29歳)から織田信長への仕官(39歳)まで
Ⅳ期:織田信長への仕官(39歳)から死没(55歳)まで

と4期に分かれ、岐阜→福井→石川→滋賀→京都と取材旅行をして、『明智光秀伝』を完成させようという野望を持っていたのですが、資金切れで頓挫。ということで、今までの取材成果をまとめておこうと思います。

 今回はⅠ期についてです。

Ⅰ期のポイントは、

 ──明智光秀の両親は誰で、どこで生まれたか?

になります。

 明智光秀の生誕伝承地は、

A美濃国誕生説
①手向郡(恵那市明智町)明智城(多羅城)で誕生
②可児郡(可児市瀬田)長山城(明智城)で誕生
③可児郡顔戸城(明智城)で誕生
④土岐郡鶴ヶ城の城主の屋敷「高屋敷」で誕生
⑤加茂郡堂洞城で誕生(堂洞城主・岸信周が実父)
⑥石津郡多羅城で誕生(多羅城主・山岸信周が実父)
⑦方県郡福光(土岐福光屋敷付近)で誕生。明智憲三郎氏説。
⑧山県市で誕生(土岐元頼が実父)
B近江国佐目で誕生(流れ着いた明智氏の子で、六角氏に仕えた。)
C若狭国小浜で誕生(刀鍛冶の子であったが、六角氏に仕えた。)
D山城国誕生説
①明智光秀は京都に住んでいた幕府奉公衆・明智氏の子(A⑦に同じ)
②明智光秀は進士晴舎の子・藤延の別名。

以上、明智光秀の生誕地には、大きく美濃国誕生説、近江国誕生説、若狭国誕生説、山城国誕生説の4説とあり、細かく分ければ、12説になります。

【調査結果の概要】

 定説は、『美濃国諸旧記』の「明智氏は美濃国可児郡明智郷長山城に興り、明智光秀の代まで続いた」ですが、私の現地取材の結果は「明智氏は美濃国手向郡明智上下村に興り、遠山氏に追い出されて土岐郡長山城へ移り、明智光秀の代には可児郡顔戸城(明智城)にいた」です。
 明智光秀が生まれた時の明智宗家の居城は顔戸城(明智城)でしょうけど、明智光秀の祖父は、明智家を追い出されて、高屋敷に住んだ(A④)とも、佐目に流れついたとも(B)。つまり、明智光秀を含め、光秀の祖父以降は明智氏ではなく、顔戸城(明智城)にはいませんでした。顔戸城(明智城)の明智宗家は滅亡しましたが、明智光秀が織田信長に仕えて再興したそうです。
・A⑥には、妻の実家で生まれた(A②)とする異説もありますが、そもそもA⑥は玄琳による創作だとされています。
・A⑧は「土岐元頼は死んでいなかった」、D②「進士藤延は死んでいなかった」が前提で、「明智光秀は死んでいなかった」とする明智光秀=天海説同様、証明は厳しいです。
・明智光秀は、京都に住んでいた明智庶子家の子とする説がD①で、美濃国内乱の時、父親が援軍を率いて美濃国へ向かい、明智光秀は美濃国で生まれたとするのがA⑦です。
・Cは明智光秀の母が初代冬広と再婚し、3代目冬広(養子)が明智光秀の子なので、2代目の弟が明智光秀だと考えられたようです。

※明智光秀は、誰に文化教養や学問、武術を学んだか?

A美濃国誕生説
・父(早逝)、祖父、伯父(明智光安)
・「明智光秀公学問所」の天龍寺から呼んだ学僧(A②)
・(明智光秀の父親は早世したので、父親代わりの)斎藤道三
・常在寺の住職
・妙心寺派大仙寺(『麒麟がくる』)
B近江国誕生説
・父、祖父
C若狭国誕生説
・時宗西福寺の住職(後に時宗称念寺の住職・薗阿上人に就任)
D山城国誕生説
・父、祖父
・天龍寺の学僧
・妙心寺の学僧

 では、早速、それぞれの説を詳しく検討していきましょう。
 ※長文につき、後日アップ。

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