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「徳川家康の自立」の時期

 「徳川家康の自立」とは、「徳川家康の今川氏からの離反」のことです。単純に考えれば、松平元康が今川義元の「元」を捨て、「松平家康」に改名にした時でしょうけど、実はもっと早い時期に自立しています。
 徳川中心史観による【従来説】では、
「桶狭間の戦い後、松平元康は、今川氏真に何度も今川義元の弔い合戦をしようと呼びかけたが、一向に応じないので、松平元康は、今川氏真を見限り、織田信長と清須同盟を組んだ」
として、「仕方なく清須同盟を組んだ日が徳川家康の自立の日」だとしていますが、現在は否定されています。

<「徳川家康の自立」の時期の諸説>

永禄3年(1560年)5月8日 今川義元「三河守」任官【戦国未来説】
永禄3年(1560年)5月12日 今川義元、駿府今川館から出陣
永禄3年(1560年)5月16日 松平元康、知立城入り→密かに坂部城へ
永禄3年(1560年)5月18日 大高城兵糧入れ
永禄3年(1560年)5月19日 桶狭間の戦い→大樹寺
永禄3年(1560年)5月21日 岡部元信、鳴海城を開城。刈谷城を攻撃。
永禄3年(1560年)5月21日 織田信長、沓掛城を攻撃。城主・近藤景春自害
永禄3年(1560年)5月23日 松平元康、岡崎城入り【平野明夫説】
永禄4年(1561年)1月20日  足利義輝「當國と岡崎鉾楯之儀」
永禄4年(1561年)2月 松平元康、将軍・足利義輝に駿馬献上(自立表明)
永禄4年(1561年)4月11日 松平元康、牛久保城を攻撃【学説】
永禄4年(1561年)6月17&18日  今川氏真「今度松平蔵人逆心」
永禄4年(1561年)9月21日  今川氏真「今度岡崎逆心之刻」
永禄5年(1562年)1月15日 松平元康と織田信長の清洲同盟【従来説】
永禄6年(1563年)6~10月の間 松平元康、「松平家康」に改名
永禄9年(1566年)12月29日 「徳川」に改姓

 「脱徳川中心史観」を目指す現在の学会の学説は、「徳川家康の自立の日」を「松平元康が牛久保城を攻撃することで、自立を表明した日」としていますが、実際はもっと以前から「自立したい」と思っていたり、表明しないだけであって、「実は自立していた」のではないでしょうか?
 徳川家康の研究者である平野明夫氏は、「徳川家康の自立」の時期を「桶狭間の戦いの直後」としておられますが、私は「今川義元が「三河守」に任官された日」だと考えています。

(1)今川義元「三河守」任官

永禄3年5月8日 宣旨
 治部大輔源義元
  宜任参河守
   蔵人頭
永禄3年5月8日 宣旨
 従5位下源義元
  宜任治部大輔
   蔵人頭
  口宣2枚
  5月8日右大弁
進上廣橋大納言殿

※『瑞光院記』(『史料稿本』)
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1560/13-2-3/4/0063?m=all&s=0063

 私は、永禄3年5月8日に今川義元が「三河守」に任官された時、松平元康は、「このままでは今川義元の家臣として駿府に住み、岡崎に戻ることは出来ない」と考え、今川義元を裏切ろうと思ったと考えています。こういうと、「大高城兵糧入れや丸根城攻めをやっていますが」と反論されますが、これらは「裏切ってはいないと示すポーズ(目くらまし)」ではないかと。
 5月16日、今川義元より1日早く知立城に入った先陣・松平元康は、密かに知立城を抜け出し、実母・於大の再婚相手・久松俊勝が城主の坂部城(尾張国知多郡阿久比。現在の愛知県知多郡阿久比町)へ行きました。名目は「16年ぶりに母に会うため」ですが、そこには織田方の久松俊勝(於大の兄・水野信元(織田方)の家臣)がいましたし、もしかしたら水野信元もいたかもしれません。織田信長と今川義元についての情報交換がなされ、密約をしたものと思われます。(「松平元康は、人質として、ずっと駿府に軟禁されていた」と思っている方がおられるかもしれませんが、松平元康の初陣は、岡崎城から出陣して岡崎城に帰城した寺部城攻めですし、父の法要の時は、半年間、岡崎城の二の丸に住んでいました。しかし、実母・於大(織田方)には会っていません。今回会ったのは、どうしても密約を結びたかったから、どうしても今川義元を討ちたかったからでしょう。)
 「桶狭間の戦い 松平元康寝返り説」とは、「今川軍の兵糧を奪い、伯父・水野信元のいる向山砦の横を通って大高城に入って篭城した(参戦しなかった)」というものです。織田信長は、「今川義元には勝てない」と思ったものの、「負けない」方法を考えました。それは、「今川軍(数万人)の兵糧を奪う(困った今川軍は引き返す)」という作戦で、松平元康に深夜に密かにやらせたというのですが、どう考えても、これはありえないです。
 ただ、どうしても説明が付かないことが2つあります。
①岡部元信(今川方)が、刈谷城を攻め、水野信近(今川方)を討った。
②松平元信(今川方)は、今川勢のいる岡崎城に入れず、大樹寺で待機。
この2点に関しては、水野兄弟(信元&信近)や、松平元信が、「桶狭間の戦いの時に織田方だった」としないと説明できないのです。
 ①については、「駿府から1週間もかけてやってきて戦った人もいるのに、お前(水野信近)は桶狭間のすぐ近くの刈谷城にいながら出陣しないとは何事だ! 出陣しないということは、敵だとみなされても仕方がないぞ」と岡部元信が怒って殺害した、②については「大樹寺で待機して、今川義元の許可を得てから岡崎城へ入った」と説明されています。
 ①については、水野信近が目の前にいれば殴るかもしれませんが、刈谷城にいるわけで、わざわざ東海道(鎌倉街道)からそれて刈谷城まで行き、城を攻めて討つというのは尋常ではありません。「水野信近が篭城して戦わなかった」ではなく、「出陣して織田軍の味方をした」なら、その怒りを理解できますが。②については、今川氏真は駿府にいますので、5月20日に使者を送ったとしても、返事が届くのは5月26日以降かと。ところが松平元康は、5月23日に岡崎城に入っています。ともあれ、この時の松平元康一行は20人弱、岡崎城の今川勢は数百人はいたでしょうから、「織田軍が追ってくる。襲われる。助けて」と、岡崎城に飛び込むのが普通でしょう。なぜ、それが出来なかったのか? 岡崎城に入って織田軍に襲われるより、大樹寺で隠れていた方が安全だと判断したのか?

(2)松平元康、牛久保城を攻撃


 松平元康の牛久保城の攻撃は、今川氏真の認識では「4月12日」のようですが、実際は「4月11日である」とか、「4月11日の深夜の牧野氏の反乱を松平氏の反乱とみなす」(日暮れで日付が変わるのであれば、「4月11日の深夜」は「4月12日」)とする説もあります。

①「永禄10年8月5日付鈴木重時&近藤康用宛今川氏真判物」

去酉年四月十二日岡崎逆心刻、自彼地人数宇利、吉田江相移之処、同五月廿日父平左衛門与重時并近藤石見守両三人、於三州最前令忠節、其以後飯尾豊前逆心之砌、遠三忩劇之処、牛久保、長篠籠城刻、長篠江数度兵粮入置之、牛久保江数多人数送迎、無二令奉公之段、神妙之至也。其上三州一城相踏、人数拘置、殊近藤石見守彼地爾令堪忍、同前爾走廻事、前後共忠節之至也。然者、於三州出置吉河就相違、只今令訴訟之間、為其改替、遠州引間領之内新橋郷、小澤渡郷、人見之郷三ケ所、不及検地之沙汰、永為知行所出置、不可有相違、并寺社領、山芝、河原、野林可令支配、諸役等、自前々就無之者、令免除之、重而忠節之上、可加扶助、守此旨、弥可抽忠功之状如件、
 永禄拾卯丁年八月五日    上総介(花押)
  鈴木三郎太夫重勝殿
  近藤石見守殿

※「去酉年四月十二日岡崎逆心之刻」(永禄4辛酉年4月12日に岡崎(岡崎城主・松平元康)が今川氏真に反逆した時)=今川氏真の認識では、松平元康の自立(反逆)は「永禄4年4月12日」。

②「永禄4年4月16日付稲垣重宗宛今川氏真朱印状」

(今川氏真朱印「如律令」)
出置切符参拾貫文之事。
右、今度牧野平左衛門入道父子、去十一日之夜、令逆心敵方江相退之上、彼母割分弐拾貫文之地、年来令奉公之条、彼切符参拾貫文之内弐拾貫文之改替、為新知行所充行也。相残拾貫文者■■定之地可申付之、■合参拾貫文也。然者従来秋中可遂所務、至其時当夏納所共可請取之、守此旨、弥可抽忠節之状如件。
 四月十六日
  稲垣平右衛門尉

※「今度牧野平左衛門入父子、去十一日之夜、令逆心」=この5日後の手紙②には、「4月11日夜、牧野父子が逆心」とあるが、その時の牧野父子の背後に松平元康がいることが分かり、6年後の手紙①では、「4月12日、松平元康が逆心」と変えられたという。
 ということで、【学説】は、松平元康の自立(反逆)は、「永禄4年4月11日」である。

③「永禄4年6月11日付稲垣重宗宛今川氏真書状」

近年出置切符参拾貫文之事。
右、去辰年牧野民部丞逆心之刻於而抽忠節、今度松平蔵人令敵対之上、於牛久保令馳走之、殊子藤助於西尾走廻、父子励忠信之条、今度牧野弥次右兵衛尉西郷令同意為別心之間、従当年彼給恩地方参拾貫文之内、牧野郷賀茂散田方拾貫文、一宮東願寺方拾壱貫六百文、但屋敷分共此内壱貫六百文者為上納所可令取沙汰、并牧野平左衛門尉母割分拾貫文、合参拾貫文為定所令扶助也、縦向後西郷以忠節雖企訴詔、為各別之条、永不可有相違者、以此旨、弥可存忠功之状如件、
 永禄四辛酉年六月十一日

※「今度松平蔵人令敵対」(今度(こたび)、松平蔵人元康、敵対せしむ)とある。
※2年後の永禄6年3月6日の「牛久保合戦」では、稲垣重宗の家臣16人が討ち死にした。1つの塚に埋めたところ、雨夜に死者の霊魂が、「ギャーッ」と産夫馬(うぶめ)のように叫ぶので、「産夫馬塚」と呼ばれている。

④「永禄4年6月17&18日付奥平氏宛今川義元書状」

今度松平蔵人逆心之刻、以入道父子覚悟、無別条之段喜悦候、弥境内調略専要候、此旨親類被官人可申聞候、猶随波斎・三浦右衛門大夫可申候、恐々謹言、
 六月十七日
           氏真(判)
 奥平道紋入道殿
今度松平蔵人逆心之刻、無別条属味方之段喜悦候、仍馬一疋栗毛差遣之候、猶随波斎・三浦右衛門大夫可申候、恐々謹言、
 六月十七日
           氏真(判)
 奥平監物丞殿
就今度松平蔵人逆心、不準自余、無二属味方之間尤神妙也、猶於抽忠節者、 浅間大菩薩・八幡大菩薩不可有等閑候、猶随波斎・三浦右衛門大夫可申候、恐々謹言、
 六月十八日
           氏真(判)
 奥平監物丞殿

※永禄4年6月17日、今川氏真は、奥平定勝に書状を送っている。同日付で当主・奥平定能(奥平定勝の嫡男)にも書状と栗毛馬1頭を贈っている。不思議なのは、翌日付で、また奥平定能に書状を送っていることである。
 3通共に「今度、松平蔵人、逆心(の時に)」と松平蔵人(松平元康)の逆心に触れている。

⑤「永禄4年9月21日付野々山元政宛今川氏真書状」

参州細谷代官并給分五拾貫文之事右、先年依吉田令内通忠節被出置、任先判形両通之旨領掌了、次代官徳分代方六貫八百文、米方四斗、同陣夫壱人之事、是又如年来可令所務候。縦彼地為知行自余江雖出置之、右之給恩五拾貫文并代官徳分米銭、陣夫等之事者、以田地割分之可令扶助也。殊今度岡崎逆心之刻、出人質捨在所無二為忠節之条、永不可有相違者、守此旨弥可存忠功者也。仍如件、
 永禄四辛酉年九月廿一日
                 氏真(花押)
 野々山四郎右衛門尉殿

※「殊今度岡崎逆心之刻、出人質捨在所無二為忠節之条、永不可有相違者、守此旨弥可存忠功者也。」:野々山四郎右衛門尉元政(「野々山氏」は島津氏の庶流で、三河国野々山(所在不明。愛知県豊田市野口町とも、愛知県豊川市御油町野山とも)を領して「野々山」と称した)が岡崎逆心(松平元康の逆心)に加担しなかったことを顕彰した。

⑥「1月20日付今川氏真宛足利義輝御内書(写)」

就当国与岡崎鉾楯之儀、関東之通路不合期之条、不可然候。閣是非早速令和睦者、可為至妙候。委細、三条大納言并文次軒可演説候。猶信孝可申候。穴賢。
 正月廿日          (足利義輝花押)
 今川上総介殿

※「当国と岡崎、鉾楯の儀に就き」「閣(おのおの)是非をさしおき早速和睦せしめるは、神妙たるべき候」(今川と松平が矛と盾のように対立しているが、いいも悪いもない。早々に和解するのがよかろう。)
※今川氏真、北条氏康、武田信玄に送られた。
※これに対し松平元康は、将軍・足利義輝に駿馬「嵐鹿毛」(「早道馬」といわれる飛脚用の馬)を献上して、自立を表明した(馬を献上して足利幕府と直接的な関係を築く事を通して、独立した領主として、足利幕府の承認を取り付けようとした)。

⑦「5月1日付水野信元宛北条氏康書状(写)」

久不能音問候、抑近年対駿州被企逆意ノ由、誠以歎敷次第候、就之自駿府当方へ出陣ノ儀承候間、氏康自身出馬據歟、■州閣■敵、於三州弓矢無所詮候、去年來候筋目駿三和談念願、就中三亜相如筋語ハ、就彼調被成下京都下知、当国へモ被ゝ書由、各御面目到候哉、松平方へ有意見、早ゝ落着候様、偏ニ其方可有馳走候、委細口上申含候間、令省略候、恐々謹言、
 五月朔日     氏康(花押)
 水野下野守殿

・「永禄4年5月1日」(平野明夫説)→「去年」は「云年」で再検討!
・「永禄5年5月1日」(柴裕之&本田隆成説)→系譜発見!
・「永禄6年5月1日」(臼井進説)

 この書状の発行年は不明であったが、丸島和洋氏が系譜に記載されているのを発見し、その系譜により、永禄5年の書状であると判明した。「去年來候筋目駿三和談念願」(「小田原編年附録4」)とあり、「去年(永禄4年)、(松平元康が自立して)駿府(今川氏真)と三河(松平元康)が対立しているが、和談を願う」と訳されていたが、別の写し(「水野家文書」)に「云年」とあり、現在は「(松平元康と今川氏真には)年来の交わりもあることであるから、今は駿府(今川氏真)と三河(松平元康)が対立しているが、和談を願う」と訳されている。

(3)清洲同盟


 「清洲同盟(きよすどうめい)」は、織田信長と徳川家康の間で結ばれた軍事同盟です。徳川家康が織田信長の居城・清洲城へ行って締結したので「清洲同盟」なのですが、学者は、「徳川家康が清洲城へ行くことはありえない」として、「織徳同盟(しょくとくどうめい)」「尾三同盟(びさんどうめい)」などと呼んでいます。
 既に織田信長と「織水同盟」を結んでいた伯父・水野信元が永禄4年2月に仲介したそうですが、両家は、信長の父・織田信秀と松平元康の祖父・松平清康&父・松平広忠以来の宿敵でしたので、両家の家臣の反発があったようで、同盟締結までには至りませんでした。
 とはいえ、織田信長は美濃国の斉藤氏と戦わねばなりませんし、松平元康も離反した今川氏と戦わなければならないので、互いに戦っている場合ではなく、翌・永禄5年になって同盟を組んだようです。
 すぐに解消されると思われた同盟でしたが、織田信長が「本能寺の変」で亡くなるまで続きました。

 同盟締結の時期は、不明ですが(永禄5年(1562年)1月15日に締結したとするのは『武徳編年集成』)、「同盟」というからには、当然、「松平元康の自立以後」のことになります。(そもそも「清洲同盟」については、『信長公記』『松平記』『三河物語』に出てこないので、その存在を疑う学者もいます。)

※参考記事(昔書いた記事を読むと、いろんな意味で笑っちゃうよ。)
https://iiakazonae.com/338/

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