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視聴記録『麒麟がくる』第33回「比叡山に棲む魔物」2020.11.22放送

<あらすじ>

 四方を敵に囲まれ窮地に立たされる信長(染谷将太)。光秀(長谷川博己)は朝倉に和議を申し込むべく、比叡山に陣を構える義景(ユースケ・サンタマリア)のもとへ潜入する。義景が頼る延暦寺の天台座主・覚恕(春風亭小朝)と面会するが、覚恕は自分から領地や金を奪った信長を許さないという。そんな折、尾張で信長の弟・信興が一向宗に討たれ、事態は切迫。信長は京を捨て尾張に戻ろうとするが、光秀は今までの苦労が水の泡になると再び説得する。すると信長は将軍(滝藤賢一)ではなく、帝(坂東玉三郎)を通じて周囲と和議を結ぶことを思いつく。

<紀行>
 滋賀県大津市。比叡山全域を境内とする延暦寺は、最澄によって開かれた天台宗の総本山です。根本中堂(こんぽんちゅうどう)では、現在、大改修工事が行われていて、静寂な堂内には最澄がともして以来1200年間、燃え続けている「不滅の法灯」が今も光り輝いています。
 三井寺(みいでら)の名で親しまれている園城寺(おんじょうじ)。光浄院(こうじょういん)は織田信長や足利義昭も立ち寄った格式の高い子院です。信長は園城寺の境内に陣を置き、焼き討ちの指揮をとりました。織田軍は無動寺坂を駆け上がり、根本中堂や大講堂がある一帯を焼き払ったと伝わります。瑠璃堂は焼失を免れ、現存する唯一の建物です。悲劇に見舞われた延暦寺は、今も多くの人々の信仰を集めています。

★戦国・小和田チャンネル「麒麟がくる」第33回「比叡山に棲む魔物」
https://www.youtube.com/watch?v=OnrvMvr9YbU

1.前回までのストーリー


 永禄11年(1568年)、織田信長は、足利義昭を奉じて上洛し、畿内の三好勢を四国に追いやって、足利義昭を征夷大将軍に就けることに成功すると、将軍のために二条城を築き、天皇の御所も改修した。これにより、室町幕府は再興され、天下の騒動が収まったように思われた。

 将軍・足利義昭の後見人という立場となった織田信長は、兼ねてより良好な関係ではなかった朝倉義景を討つため(異説あり)、「かつて自分を保護してくれた朝倉義景とは戦えない」と言う将軍・足利義昭を京都に残して、永禄13年(1570年)4月20日、若狭国へ向けて出陣し、越前国へ侵攻して金ヶ崎城などを落とすと、「朝倉義景を討った後、自分を討つのであろう」と勘違いした義弟・浅井長政の裏切りにより帰洛した。(帰洛すると、元号が「永禄」から「元亀」に変わっていた。)

 約2ヶ月後の6月28日、「姉川の戦い」で浅井&朝倉連合軍にリベンジしたが、死者数千人──河原は遺体で埋まり、川の水が赤く染まるという悲惨な戦いとなり、小谷城に逃げ込んだ浅井長政も、出陣しなかった朝倉義景も討つことは出来なかった。この時、参陣して活躍した徳川家康は、
「武田信玄の動きが気になるので、三河へ帰る」
と明智光秀に言った。ここは、個人的には、
「武田信玄の動きが気になるので、遠江に居城を移す」
と言って欲しかった。(徳川家康は、「姉川の戦い」後、岡崎に帰ると、岡崎城を嫡男・徳川信康に譲り、浜松城に移った。「姉川の戦い」は元亀元年(1570年)の出来事である。1570に450を足すと2020になる。そう、今年は「姉川の戦い450周年」にして、「徳川家康公浜松城入城450周年」である。)

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 一方、四国に退いていた三好勢は、「織田信長が姉川で負けた」と勘違いし、四国から摂津国に渡り、野田城&福島城に入った。こうして「野田・福島の戦い」が始まった。将軍・足利義昭は、「これで兄・足利義輝のかたきが討てる」と意気揚々と出陣した。(ドラマでは、明智光秀の諌言により、恐る恐る出陣した。)織田軍の楽勝かと思われたが、織田軍が付け城を築くと、「三好勢を討った後、自分を討つのであろう」と勘違いした石山本願寺法主・顕如が9月14日に蜂起したことにより、戦況は予断を許さなくなった。しかも顕如は、朝倉義景に出陣を要請していた。

 「朝倉義景&浅井長政連合軍が京を通過して、摂津国の織田軍を討とうと、琵琶湖西岸を南下している」との報告を9月22日に柴田勝家から聞いた織田信長は、「京に入られたら大変だ」と考え、すぐに戦いをやめ、翌9月23日に帰洛した。兄のかたきを討てなかった将軍・足利義昭は、悔しがり、
「織田信長は、案外脆い」
と言うと、政所執事・摂津晴門は、「織田信長を見限り、上杉謙信や、武田信玄を頼ったらどうか?」と進言した。

 翌9月24日辰下刻、織田信長が近江国坂本へ出陣すると、織田信長が摂津国にいると思っていた朝倉義景&浅井長政は驚き、比叡山の青山&壺笠山(坪笠山)に駆け上って着陣し、織田信長は、穴太~坂本にかけて着陣した。

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★比叡山延暦寺境内図(公式サイトの境内案内図に「坂本」「穴太」「日吉大社」「西教寺」「青山」「壺笠山」を朱で加筆)

山科言継『言継卿記』「元亀元年9月25日条」
昨日、坂本之合戦、雑談云々。越前衆悉く、江州北郡高島衆悉く、青山へ逐ひ上げ、穴太、坂本等、信長、陣取る云々。青山、局笠山両所へ逐ひ上げ置く云々。
【大意】昨日の坂本の合戦について雑談する。織田軍は、「越前衆」(朝倉軍)と「江州北郡高島衆」(浅井軍)を悉く「青山」へ追い上げ、織田軍は、穴太、坂本などに布陣したという。なお、朝倉&浅井連合軍は、無動寺谷周辺の「青山(忠兵衛山)」と「局笠山(壺笠山)」の両山へ追い上げられたとも聞く。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1919259/232

 織田信長が、
「何故、比叡山延暦寺は朝倉に加担するのだ?」
と聞くと、明智光秀は、
「織田信長は延暦寺から領地を奪い、朝倉義景は延暦寺に金を与えたから」
と答えた。ということは(理由が怨恨ではなく、金であれば)、織田信長が領地を返した上で、朝倉義景以上のお金を払えば解決?

2.今回のストーリー


【元亀元年略年表】

9月20日   朝倉&浅井連合軍、坂本に着陣。森可成討死(「坂本合戦」)。
9月21日   二条城警固のため明智光秀、村井貞勝、柴田勝家、上洛。
9月22日   柴田勝家、下向し、近江情勢を摂津国の織田信長に報告。
9月23日   摂津国から亥刻に足利義昭、子刻に織田信長が上洛。
9月24日   朝倉&浅井連合軍、織田軍の襲撃を受け、青山&壺笠山に布陣。
9月25日   織田信長、穴太、坂本に布陣。
9月26日   明智光秀、仰木(雄琴)に帰陣。
10月2日   丹羽長秀、木下秀吉、琵琶湖を渡り、坂本に着陣。
10月3日   高野の蓮養坊ら、比叡山(西塔)に放火。
10月4日   山城国西岡で土一揆蜂起。比叡山で放火。
10月5日   比叡山で放火。
10月11日 西岡の一揆、北白川まで進み、鯨浪(かちどき)をあげる。
10月19日 東山周辺で一揆が鯨浪をあげる。
10月20日 朝倉&浅井連合軍が下山し、修学院、一乗寺周辺に放火。
10月21日 細川藤孝、和田惟政、一色藤長、摂津国御牧砦周辺に布陣。
10月22日 若狭国の武藤友益、謀反。(「がらがら城の戦い」)
10月23日 木下秀吉、朝倉&浅井連合軍と交戦。
11月11日 土一揆、徳政を要求し石清水八幡宮に篭もる。
     一揆、「定灯」を消したため、内侍所の「御灯之火」を分火。
11月13日 足利義昭、三淵藤英へ斎場所内外両宮の修理を命令。
     勝軍城の明智光秀、吉田兼見邸を訪問し、石風呂を所望。
11月21日 織田信長、六角義賢(承禎)&義治父子と和睦。
      織田信長の弟・織田信興が小木江城で討死。
11月23日 明智光秀、吉田兼見邸を訪問し、石風呂を所望。
11月26日 勝軍城在城衆、山城国愛宕郡大原へ移動。
     「堅田の戦い」。坂井政尚、氏家直元舎弟、安藤守就二男討死。
11月28日 足利義昭&二条晴良、近江国志賀三井寺へ下向。
12月4日   菅屋長頼&木下秀吉、土一揆を鎮圧。
12月9日   ※「元亀元年12月9日付山門衆徒宛烏丸光宣綸旨」
12月12日 ※「元亀元年12月12日付一色藤長&曽我助乗宛織田信長誓書」
12月13日 上杉輝虎、「謙信」と改名。
12月14日 二条晴良、帰洛。織田信長、永原城へ退く。
12月15日 足利義昭、帰洛。
     壺笠山で人質交換
     ・織田方から:氏家常陸(稲葉伊予?)子、柴田修理勝家子
     ・朝倉方から:青木子、魚住子
     ・幕府から:三淵大和守藤英子
     朝倉義景&浅井長政、各自の国へ帰国。
     ※「元亀元年12月15日付山門三院執行代宛朝倉義景誓書」
12月17日 織田信長、美濃国に帰国。
12月18日 吉田兼見、禁裏より「天変御祈」を命じられる。

 朝倉義景&浅井長政連合軍が比叡山(正確には青山&壺笠山)に逃げ込むと、膠着状態に陥り、
「織田信長は動かない、動けない」
と見込んで、各地で反織田の輩が挙兵した。

・六角義賢が近江の一向門徒と共に南近江で挙兵→木下秀吉が討つ。和睦。
・伊勢国長島において、顕如の檄を受けた願証寺の門徒が一向一揆を蜂起。
・三好衆が野田城&福島城から出陣→和田惟政が食い止めた。
・若狭国の武藤友益が謀反→「がらがら城(賀羅岳城)の戦い」

●11月21日 長島一向一揆により、小木江城で織田信長の弟・信興が討死。
●11月26日 「堅田の戦い」で坂井政尚らが討死。

 織田軍による比叡山の包囲は、約2ヶ月間に及んだ。「膠着状態がこのまま続けば、各地で反織田の輩が次々と挙兵し、弟・織田信興、坂井政尚のように、次々と重臣たちが死んでいく」と判断した織田信長は、朝廷&幕府を動かし、和睦を申し出た。その結果、11月28日、関白・二条晴良と将軍・足利義昭は、天台寺門宗総本山・園城寺(通称「三井寺」。「山門」といえば延暦寺、「寺門」といえば園城寺)へ下向した。
 朝倉義景も、積雪により、比叡山と領国・越前国との連絡が断たれることに不安に感じており、朝廷&幕府の仲介を受け入れた。
 12月14日、織田軍は勢田まで撤退し、12月15日には人質交換をして朝倉義景&浅井長政連合軍も帰国の途につき、「志賀の陣」は終了した。

★『麒麟がくる』の「志賀の陣」
①幕府:将軍・足利義昭は、餓死してしまった3匹の焼け焦げたかように黒いカワトンボを庭に捨てた。ここで訂正。虫籠の中の蜻蛉=自由に飛べない足利義昭だと思いましたが、動けない織田信長、朝倉義景、浅井長政でしたね。足利義昭にとって、この3人は死んでも代わり(武田信玄)がいるからいいけど、明智光秀の代わり(ストレートに意見を言う人)はいないので「死なせたくない」とのことです。(この場面で、将軍・足利義昭は、駒に「(明智光秀を)好きであったか?」と聞くと、駒は「はい」と答えました。この時代、「好き」「愛してる」と言った? 「慕っておったか?」「はい、お慕い申しておりました」では?)
 足利義昭は、明智光秀を死なせないために和睦の仲介をしようとするのですが、どうも摂津晴門が止めていたようです。

 織田信長は、足利義昭があてにならないので、「京(天下)など、もうどうでもいい」と帰国しようとします。(『三河物語』に「天下は朝倉殿持ち給へ。我は二度望み無し」とあります。)その自暴自棄な態度を明智光秀が「帰蝶に笑われる行為」と批判すると、織田信長は、「足利義昭があてにならないなら天皇に」と思いつきました。

②朝廷:「将軍(幕府)はダメだ」として、織田信長は正親町天皇に和睦の仲介を申し出ました。(史実では、正親町天皇を動かしたのは二条晴良です。)
 正親町天皇は、
「これは朕と弟の戦いやもしれぬ」
と、第13回「帰蝶のはかりごと」の帰蝶の
「これ(注:聖徳寺の会見)は、父上と私の戦じゃ」
に匹敵するお言葉を発せられ、勅命で織田信長を救いました。

史実:足利義昭→二条晴良→正親町天皇→和睦
ドラマ①:足利義昭→摂津晴門→X(摂津晴門と覚恕が結託)
ドラマ②:織田信長→正親町天皇→和睦(二条晴良が下向)

比叡山に棲む魔物・覚恕「信長は、我等を甘く見ておった。これで都は、古き良き姿に立ち戻るであろう」
老獪な室町幕府官僚・摂津晴門「これを機に、甲斐の武田信玄を京に迎え、織田の力を封じてゆきたいと存じますが、いかが思し召されます?」
明智光秀「信長様の戦は、まだまだ終わってはおりませぬぞ」
戦国未来「あたたちは、第六天魔王信長の恐ろしさをまだ知らない」

【元亀2年略年表】

2月17日  佐和山城主・磯野員昌、織田方に寝返る。
2月24日  丹羽長秀、佐和山城代になる。
5月12日     織田信長、伊勢国長島に兵を送る。
5月16日    氏家卜全、討死。
6月11日    筒井順慶、足利義昭の養女と結婚。
8月4日     「辰市城の戦い」で、筒井順慶、松永久秀を破る。
8月18日    織田信長、北近江へ出陣し、横山城に着陣。
9月2日      明智光秀、和田秀純に書状を送る。
9月3日      織田信長、一向一揆の拠点・金森を攻める。
9月12日   「比叡山焼き討ち」

※元亀2年9月2日付和田秀純宛明智光秀書状
 御折紙令拝閲候、当城へ被入之由尤候、誠今度城内之働古今有間敷儀候、八木方ニあひ候てかんるいをなかし候、両人覚悟を以大慶施面目迄候、加勢之儀是又両人次第ニ可入置候、鉄炮筒并玉薬之事、勿論可入置候、今度之様体皆々両人をうたかい候て、後巻なとも遅々にて無是非次第候、人質を出候上にて物うたかあいを仕り候へハ、報果次第ニ候、石監・恩上ハ』被上候時もうたかいの事をハやめられ候へ之由、再三申旧候つる、案之ことく無別儀候て、我等申候通あい候て、一入満足候、次をさなきものゝ事、各登城之次ニ同道候て可被上候、其間八木此方ニ可為逗留候、弓矢八幡日本国大小神祇我々うたかい申ニあらす候、皆々くちゝゝニ何ニてと申候間、其くちをふさき度候、是非共両人へハ恩掌之地可遣候、望之事きかれ候て可被越候、仰木之事ハ是非共なてきりニ可仕候、頓而可為本意候、又只今朽木左兵衛尉殿向より被越候、昨日志村之城■■■■■■ひしころしニさせられ候由候、雨やミ次第、長光寺へ御越候て■■■謹言。尚以てつはうの玉薬一箱参候、筒之事ハ路次無心元候間不進之候、八木被帰候時可遣候、返々愛宕権現へ、今度之忠節、対我等候てハ無比之次第候、入城之面々よく名をかきしるし候て可被来候、又堅田よりの加勢之衆、両人衆、親類衆たるへく候か、左候共、此方への忠節あさからさるよし、よく可被申届候、又此方加勢之事三人之内ニ一人つゝ人数を副、かわりゝゝニ可置候間、その分別かん用候、万々目出候さ可有推量候、八木対面候て満足書中ニハ不得申候、以上、
 九月二日
                 明十兵光秀(花押)
  和源殿

《元亀2年(1571年)の筒井順慶》

6月11日   足利義昭の養女と結婚。
8月4日   「辰市城の戦い」。松永久秀を破る。
10月25日 明智光秀の仲介で織田信長に臣従。
11月1日   明智光秀らの仲介で、松永久秀と和睦。

 元亀2年(1571年)、足利義昭は、自分の部下を増やそうと、独断で筒井順慶を味方にしてしまった。(ドラマでは、筒井順慶を明智光秀が織田信長に紹介する前に、駒が足利義昭に紹介したとする。結婚の前祝いの能の演目は「羽衣」。古文書だと庭に舞台を設けず、庭の向かい側の建物で演じています。)
 怒った松永久秀が足利義昭から離反すると、松永方の武将たちが次々と筒井方に移り、8月4日の「辰市城の戦い」で、筒井順慶は、ついに松永久秀を破りました。筒井順慶は、筒井城を奪還し、松永久秀&久通父子は多聞山城へ逃げました。
 10月25日、筒井順慶は、明智光秀の斡旋で織田信長に臣従し、11月1日、明智光秀&佐久間信盛の仲介で、明智光秀与力・筒井順慶と佐久間信盛与力・松永久秀は和睦しました。
 その後、松永久秀は再び裏切って自害に追い込まれることになります。松永久秀は、一般的には「織田信長を裏切った男」として知られていますが、正確には「足利義昭を見限った男」「足利義昭に呆れた男」でしょう。(「織田信長と組んでいた足利義昭から離れた」が、「織田信長から離れた」と誤解されているようです。)

★筒井順慶なる人物
https://note.com/senmi/n/n5a9ee2b948da

摂津晴門「戦は終わり、明智様はこうしてお戻りになられたではありませぬか」
明智光秀「戦が終わった(大笑)。信長様の戦はまだまだ終わってはおりませぬぞ。今、こうして摂津殿がここにおられる。叡山の主も無傷のままです。古く、悪しきものがそのまま残っておるのだ。それを倒さねば、新しき京都は造れぬ。よって戦は続けなければならぬ。お分かりか?」

 ──そして、「比叡山焼き討ち」(NHKの表記は「比叡山焼討ち」)

平吉がぁ、平吉がぁ~。転売ヤーの悲しき末路。
妹はどうなったのだろう?
私が脚本家なら、「あっ、お兄ちゃん!」と叫びながら飛び出してきた妹と仲良く逝かせてあげるな。(既に妹は、外国人に転売されてるかもしれませんね。そういうえば、このドラマ、外国人(宣教師)が出てきませんね。)

これで比叡山の大掃除は終わった。次は幕府の大掃除だ。

3.天台座主・覚恕


 『麒麟がくる』では、天台座主・覚恕を「幼少時より美しい兄に対してコンプレックスがあり、天台座主として金と権力で兄に対抗しようとする」人物(『麒麟がくる』公式サイトより)だとしていますが、私が調べた限りでは、兄弟仲は良かったようです。もし、覚恕が、兄に対してコンプレックスがあるとしたら、実際は第1皇子なのに、母の身分が低かったので、第2皇子とされて出家させられたという恨みでしょうか?

 あと、正親町天皇が、「覚恕が、長年、御所の屋根の修理をしなかった」と言っていましたが、覚恕が天台座主に就任したのは数ヶ月前で、織田信長が御所の屋根を修理して以降のことです。天台座主に「なりたて」であったので、皆が自分に頭を下げるのが楽しく、戦国大名・朝倉義景に頭を下げられ、お金を積まれて、いい気分になり、「よし、よし、助けてやろう」となったのでしょう。

「あの都はわしの都じゃ。返せ! 返せ! 返せ! わしに返せ!」

 タイトルの「比叡山に棲む魔物」は覚恕のことでしょう。俳優さん(春風亭小朝さん)の怪演を見ていると、「まさに魔物だ」と思えてしましますが、史実の覚恕が「魔物」の域に達するまでは、まだ数年かかるような気がします。今はまだ天台座主に「なりたて」で浮かれているだけかと。
 また、「比叡山に棲む」といいますが、天台座主は比叡山に住んではいません。年中行事、法会など、必要な時だけ比叡山にやってきます。(「比叡山焼き討ち」の時、覚恕は比叡山にはいませんでした。北山の曼殊院別院にいたようです。)ドラマでは、明智光秀が比叡山へ行くと、覚恕が登場し、山崎吉家が「横川(よかわ)中堂(注:横川の本堂)での行(ぎょう)をなさなれてのお帰り」と言ってましたが、天台座主が比叡山で行(修行)はしないでしょう。「行」ではなく、「お勤め(勤行)」か?

※三塔(山門三院):東塔(止観院)、西塔(宝幢院)、横川(楞厳院)の総称。それぞれに本堂がある。

★覚恕なる人物
https://note.com/senmi/n/n8758fa30313c

4.「志賀の陣」終結史料

※元亀元年12月9日付山門衆徒宛烏丸光宣綸旨
          綸旨
 今度、義景、信長就防戦之儀、任公武籌策、和与之由、尤神妙也。殊、山門領、如先規不可有相違之段、併、仏法宝祚不安之基、何事如之哉。可存其旨之由。依天気如件。
  庚午
   十二月九日         右中弁(判)
    山門衆徒中
【大意】今度の朝倉義景と織田信長との合戦「志賀の陣」は、「公武籌策」(朝廷(関白・二条晴良)&幕府(将軍・足利義昭)の調停)に任せて、「和与(和解)」に及んだことは、神妙である。殊に山門領は、先の規則とは変更が無い。
※綸旨(りんじ):天皇の意を受けて発給する命令文書。従って、書いた烏丸光宣や、使者の二階堂孝秀の命令ではなく、正親町天皇の命令である。
※元亀元年12月12日付一色藤長&曽我助乗宛織田信長誓書
 山門之儀、今度、無事之条、種々書載付被仰出通存知候。自今巳後、奉帯び公儀、於無疎略之旨、信長、不可存別儀候。八幡可有御照覧候。非偽申候。此旨可被仰聞候旨、可有御披露候。恐々謹言。
  十二月十二日          信長(判)
   一色式部少輔殿
   曽我兵庫助殿
【大意】「山門之儀」(比叡山延暦寺の件)は、今回不問にふすよう足利義昭より種々書付て仰せ出された旨を承知し、今から後は、公儀(足利義昭)に対して疎略な態度をとらないことについては、織田信長は、八幡神に誓って約束する。以上の事を「可有御披露候」(足利義昭にお伝え下さい)。
※幕臣・一色藤長&曽我助乗宛の書状であるが、「御披露有るべく候」とあるように、実質的には将軍・足利義昭宛の誓書である。
※元亀元年12月15日付山門三院執行代宛朝倉義景誓書
 当表一和之儀、勅命、上意達而被仰下付而、叡山之儀、如佐々木定頼時之、寺務等被成綸旨、御内書、以信長誓紙申定之条、向後帯山門、弥不可有疎略儀、若、到違背者、日本国大小神祇、殊、山王之七社、八幡大菩薩、御罰可罷蒙候。此旨、三院可相違候事、専用候。恐々謹言。
 于時元亀元庚午歳
    十二月十五日          義景(判)
     山門三院執行代(御同宿中)
【大意】朝倉義景から山門三院執行代へ。
①織田信長との「一和(和解)」については、正親町天皇の「勅命」と足利義昭の「上意」により仰せ下され、②比叡山延暦寺については、佐々木定頼の時(天文16年6月)の寺務のようにするよう、正親町天皇の「綸旨」、足利義昭の「御内書」が下された。
 織田信長が「誓紙」を認(したた)めて定めたように、今後、「山門」に対しては、ますます疎略が無いようにします。背けば、日本の神々、特に比叡山の日吉神や、武門の神・八幡神に罰せられるでしょう。

※『伏見宮御記録』「元亀元年山門へ綸旨并信長状」
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000646750000/fc6b28d703874671a6068c725b6e2a4e

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