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視聴記録『麒麟がくる』第十回「ひとりぼっちの若君」2020.3.22放送

京を訪れていた旅芸人の一座の元で、駒(門脇 麦)は戦災孤児だった自分を拾い、育ててくれた女座長・伊呂波太夫(尾野真千子)と再会する。
その年の末、今川義元(片岡愛之助)が尾張の国境に侵攻してくる。信秀(高橋克典)の元に人質として置かれていた三河松平家の嫡男・竹千代(のちの家康)の引き渡し要求に、道三(本木雅弘)は広い三河を今川に押さえられることに危機感を覚える。光秀(長谷川博己)は帰蝶(川口春奈)を通して動向を探るべく那古野城へ遣わされたところ、信長(染谷将太)と出会う。

<トリセツ>
織田信長と信広の関係は?
天文18年(1549年)11月。尾張との国境近くにある安城城で国境を守っていた織田信広は、今川軍の標的となり攻め込まれ、城は落ち、捕らえられました。
そこで今川義元は、織田信秀の息子<信広>と三河を治めていた松平広忠の嫡男<竹千代>との人質交換を申し出て、三河を掌握しようと企てました。https://www.nhk.or.jp/kirin/story/10.html

《これまでの年表》

天文16年(1547年)  明智光秀、堺で鉄砲入手(第1回)
          晩秋 加納口の戦い。土岐頼純毒殺さる。(第2回)
天文17年(1548年)3月 明智光秀、村人と田起こしをする。(第3回)
          春 小豆坂の戦い(第4回)
          初夏 明智光秀、古渡城で竹千代と会う。(第4回)
          晩秋 明智光秀、斎藤利政の命で京へ。(第5回)
                                  晩秋 明智光秀、三好長慶暗殺を防ぐ。(第6回)
          11月末 斎藤利政、大柿城を攻撃する。(第7回)
          12月末 織田信秀、斎藤利政との和睦を決意(第7回)
          12月末 明智光秀、斎藤利政の命で尾張へ。(第7回)
天文18年(1549年)帰蝶、織田信長に嫁ぐ。(第8~9回)
          今川義元、松平広忠に織田との戦を宣言(第8~9回)
          松平広忠、織田信長に殺害される。(第9回)
                                  夏 明智光秀、妻木郷で煕子と再会(第9回)
          11月 安祥合戦(第10回)
          11月 明智光秀、那古野城で織田信長と会う(第10回)
          冬 笠覆寺で、竹千代と織田信広の人質交換(第11回)
                                  冬 竹千代、今川氏の人質として駿府へ。(第11回)

 美濃国の守護代・斎藤利政(後の入道道三)は、力が衰えた守護・土岐頼芸を形骸化して、美濃国を実質支配していた。
 美濃国の南に位置する尾張国では、守護・斯波義統の力が衰え、代わりに守護代・織田信友の家臣・織田信秀(織田信長の父)が、津島、熱田の両港をおさえていた力を得ていた。

 織田信秀(古渡城)には3人の敵があった。1人は北の斎藤利政(稲葉山城)、もう1人は織田信秀の勢力拡大を好ましく思っていない国内の織田信友(清洲城)、そして最後の1人は、三河国に侵攻してきた今川義元(駿府今川館)である。
斎藤利政対策:織田信秀が斎藤利政に同盟を呼びかけると、斎藤利政は「海が近づいた」と喜び、守護・土岐頼芸に相談すること無く、二つ返事で了承した。そして、「同盟の証」として、嫡男・織田信長と、斎藤利政の長女・帰蝶が結婚することになった。
織田信友対策:強敵は今川義元である。今川義元と戦うためには、まずは尾張国統一が必要である。さて、どうやって、守護・斯波義統を追放し、守護代・織田信友を倒すかだ。
今川義元対策:今川義元は、東三河まで侵攻してきたが、織田方に寝返った戸田堯光(田原城)がよく戦っているし、西三河の松平広忠(岡崎城)については嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質にとってあるので、緊急課題とはいえない。とはいえ、居城を古渡から、三河寄りの末森城(縁起をかついで「末盛城」と表記)に移した。

 ──山が動いた。

織田信秀と斎藤利政の同盟に不安を抱いた今川義元は、軍師(黒衣の宰相)・太原雪斎の「攻めるのは今」の言葉に後押しされ、松平広忠を先鋒として、三河国内の織田勢(安祥城、上和田城、岡城)の一掃をしようと動いたのである。
織田信長は、「先手必勝!」とばかりに、松平広忠を暗殺した。(自分の結婚式に、松平広忠の首で自分で花を添えようという発想が怖い。)
織田信秀「このたわけがっ!」(持っていた扇でびしっ!)
織田信長「美濃と同盟を組んだ。今川と戦う準備はできた」
織田信秀「強大な今川をあなどるな。まずは尾張国統一。次に竹千代を使って、松平広忠を調略・・・最後に今川との決戦じゃ」

 ──時は戻らない。止まることすらない。

既に東三河まで侵攻している今川氏。西三河の松平広忠が消え、今川氏が織田氏と直接対決する──この状況を最も恐れたのが斎藤利政である。同盟国の支援をしなければいけない=今川と戦わなければいけない。かといって同盟を切れば、「同盟の証」である帰蝶が殺される。──斎藤利政は、明智光秀に尾張国へ偵察に行かせた。この明智光秀という男、京都に行かせれば松永久秀らと懇意になるし、尾張に行かせれば織田信長と帰蝶の結婚が成立した。有能なのか、ただ単にラッキーボーイなのか──いずれにせよ、いい結果を出して終わっている。(明智光秀は後に織田信長の家臣になるが、やはり斎藤利政同様、便利屋の如くあれこれを任され、八面六臂の活躍をし、スピード出世をすることになる。)

《通説》

天文9年(1540年)  6月6日 第1次安祥合戦
天文11年(1542年)8月上旬 第1次小豆坂の戦い
                                 12月26日 松平広忠に竹千代と穎新が生まれる。
天文13年(1544年)8月22日~9月 第2次安祥合戦
                                  9月 松平広忠、正室・於大の方(水野氏)と離婚
天文14年(1545年)3月19日 松平広忠、継室・真喜の方(戸田氏)と再婚
                                  9月20日 第3次安祥合戦(日本最古の鉄砲使用)
天文16年(1547年)7月22日 日覚、本成寺宛て書状
          8月2日 竹千代、織田氏の人質になる。
          9月22日 加納口の戦い
                                 11月17日 土岐頼純、死亡(帰蝶が毒殺?)
天文17年(1548年)3月11日 北条氏康、織田信秀宛て書状
          3月19日 第2次小豆坂の戦い
          4月15日 耳取縄手の戦い
天文18年(1549年)2月24日 帰蝶、織田信長に嫁ぐ。
            3月6日 松平広忠、死去(病死とも暗殺とも)享年24
         3月 第4次安祥合戦
         11月6日 第5次安祥合戦
            11月10日 笠覆寺で、竹千代と織田信広の人質交換
               竹千代、岡崎城へ帰還
                                 12月24日 竹千代、今川氏の人質として駿府へ。

 このドラマ『麒麟がくる』では、物語を面白くするためか、テンポよく進めるためか、よく史実が曲げられる。たとえば、
・「加納口の戦い」の日に土岐頼純を毒殺→史実は「加納口の戦い」は9月22日で、土岐頼純の命日は11月17日。
・帰蝶との結婚式の日に松平広忠を殺害→史実は、結婚式の日は2月24日で、松平広忠の命日は3月6日。
である。
 また、「斎藤道三は、守護・土岐頼純を毒殺し、土岐頼芸を守護に再登板させた」とするが、通説は「土岐頼純は守護になっていない。土岐頼純を帰蝶が毒殺したので、守護・土岐頼芸は怖くなって尾張国へ亡命し、帰蝶が織田信長と結婚するのと入れ替えで美濃国に戻った」である。(斎藤道三よりも、帰蝶の方が怖い人物だったという。)
 また、前回、結婚式に参加せず、朝帰りした理由を「遠くまで松平広忠を殺しに行っていたから」とは言えず、「安食村の池に潜って大蛇を探してたから」と、昔の話をして、目が泳ぐこと無く嘘をつける織田信長が恐ろしい。そもそも春の夜に池に潜っても、暗くて何も見えないばかりか、凍死するぞ。
 それにしても帰蝶は賢く、美人(才色兼備)で、肝が据わっている。最高の嫁である! この感じだと、「本能寺の変」では、薙刀を持って戦い、明智光秀が鉄砲で織田信長を撃つと、間に入って「(「日向守」とは言わず、昔の名で)十兵衛・・・」と言いながら絶命しそうだ。

 竹千代と織田信広の人質交換は、ドラマのような協議にはならず、即決されたという。織田は、竹千代を餌に、松平広忠を釣ろうとしていたが、松平広忠が暗殺されて、用無しになった。一方、今川は、城主・松平広忠がいなくなった岡崎城に、今川から派遣した城番(岡崎三奉行の交代制)を入れており、この城番の命令に岡崎衆を従わせるには、竹千代という人質が必要だったのである。

1.竹千代、織田家の人質となる。


親氏┬信広【太郎左衛門家】…        於大の方(前室。水野氏)
  └信光┬親長【岩津太郎家】…            ‖─竹千代(家康)
       └親忠【安祥】─長親┬信忠──────┬清孝─千松丸(広忠)
               └信定【桜井】 ├信孝【三木】┬忠倫
                      └康孝【鵜殿】└重忠

 松平家の宗家は、系図上は嫡流の太郎左衛門家ですが、領地である松平郷は山中にあり、経済的には豊かではありません。松平信光は岩津(岡崎平野の北端)に侵攻し、岩津松平家を分立させると、48人の子を三河全域にばらまいて、48家を分立させ、三河国を支配したといいますが、伝説です。実際は「18松平」といいます。(「松」を分解すると「十八公」となるからだという。)
 今川軍(北条早雲)が岩津城を攻めた時、松平郷から出陣した松平騎馬隊が蹴散らしましたが、岩津松平氏は衰退し、代わりに安祥松平氏が力を得て、安祥松平清孝(岡崎松平清康)の時に全盛期を迎えますが、暗殺され、当時10歳だった千松丸(後の松平広忠)は逃亡します。

 ──岡崎(三河守護所の所在地)を領する者は、松平家の惣領

安祥松平清康に代わって岡崎城に入ったのは名君・桜井松平信定で、織田信秀の力を借り、松平家の内紛を鎮めました。そこに、吉良持広の支援を得て、千松丸が帰城し、元服して松平広忠(「広」は吉良持広の「広」)と名乗りますが、吉良持広は亡くなり、後見人・阿部定吉の意向により超今川寄りになります。当時、松平家で力があったのは、安祥松平広忠と三木松平信孝ですが、松平広忠は、松平信孝を弟・鵜殿松平康孝の遺領横領罪で追い出しました。浪人となった松平信孝は、仕方なく平手政秀を通して織田信秀に「浪人となってしまった私や家臣たちを召し抱えてくれれば、三河国を攻め落とし、あなたに差し上げよう」と伝えると、織田信秀は了承しました。(後に松平信孝は「耳取縄手の戦い」で討たれました。叔父・松平信孝の首を見た松平広忠は、「なぜ殺した? なぜ生け捕りにしなかったのだ?」「叔父が敵(織田方)になったのは私が追い出したせいだ」と叫び、号泣したそうです。)

 松平氏の内部分裂(親今川と反今川の対立など)により、三木松平信孝らを取り込んだ織田信秀は、岡崎城の西の安祥城に織田信広(織田信長の異母兄)を入れ、岡崎攻略の付城(和田砦、大平砦、作岡砦)を築き、岡崎城の東の作岡砦(岡城)には松平信孝、南の和田砦(上和田砦)には松平信孝の子・松平忠倫を入れました。(松平信孝&松平忠倫親子は、岡崎へ押し入り、農作物を薙ぎ捨てたり、民家に放火したりしました。)西の安祥城には、織田信広(織田信長の異母兄)がいて、岡崎城を取り囲まれた松平広忠は、織田信秀に降参し、人質として嫡男・竹千代(6歳。後の徳川家康)を差し出したそうです(新説)。
 旧説(従来説)では、織田信秀と戦うため、「今川義元に加勢を頼もう」と、駿府へ使者を送ると、今川義元の返事はOKでしたが、「今川へ人質を出すように」と言うので、竹千代は、人質になるため、天文16年8月2日、駿府へ向けて岡崎を出発しました。
 岡崎から南下して、西郡(蒲形と合併して蒲郡市)から船に乗り、吉田(愛知県豊橋市)に着きました。そこからは陸路で、潮見坂(静岡県湖西市)に至ると、戸田康光(継室(後室)・真喜の方の父)が仮屋を建てて待っていて、ご馳走してくれました。さらに「田原城(愛知県田原市)へお越し下さい」と何度もしつこく誘うので、田原城へ行きました。
 その日の夕方、三河出身で、今は訳あって織田信秀陪臣になっていた森平太が、「戸田康光は、既に織田方に寝返っており、『三河国を手に入れたら、東三河をもらう』という密約を織田信秀と取り交わし、既に手付金として500貫文を受け取っている」と教えましたが、「継室の父親が裏切るはずはない」と誰も信じませんでした。
 翌朝、駿府に向けて陸路で出発しようとすると、戸田康光は、「途中の(天竜川とか大井川といった)大河が増水していて、陸路は不自由であるから、船で送る」と騙し、熱田へ連れて行きました。港にいた大将らしき人物が、「岡崎は今川と手を切って織田と組んだので、人質も織田で引き取ることになった」と説明し、羽城へ案内しました。怪しんだ天野康景は、家臣の1人を密かに岡崎城へ遣わしました。
 翌日、この天野康景の家臣が、岡崎城へ着き、見たままを話すと、松平広忠は、「報告の通りだろうな。真喜へ伝えよ」と言うので、そうすると、姥が奥から出てきて、「真喜の方は『何も知らない』と言っている。疑われるのは迷惑だ」と言って奥に引き込んでしまいました。奥で真喜の方は、「父は何を何を考えているのか? 『因果は車の輪のごとし』(明日は我が身)というが、これから私はどうなるのか? 殺されるのか?」と泣き崩れると、お付きの女房衆は、「何かの間違いですよ」と、一斉に慰めました。
 軍議を開き、松平広忠が「今川へはどう伝えよう?」と言うと、皆々、「すぐに報告しなされ」と言ったので、使者を送ると、今川義元は、「悔しい。(加勢の条件は人質であったが)すぐに報告に来るという誠実さに免じて、人質はいないが、加勢しよう」と約束しました。

2.竹千代が過ごした熱田散策

 織田信秀は松平広忠に使者を遣り、
「今川義元に付かずに、私と同盟を組め。さもなくば、人質にとった嫡男・竹千代を殺すかもよ?」
と脅迫すると、松平広忠は、
「今川義元との親交は深い。竹千代を殺したければどうぞ」
と言い返した。織田信秀は、感じ入って、
「今、竹千代を殺したら、永久に同盟は結べない。親子の縁は切れぬもの。そのうち気が変わるだろう」
と竹千代を生かしておきました。

 竹千代が監禁された場所は、まずは加藤図書助の熱田羽城で、さらに、那古野城(城主は織田信長)の南にある万松寺(織田信秀が建てた自分の菩提寺)の塔頭・天王坊(後の天王社。現在の那古野神社)に移されました。

 熱田羽城は、「熱田神宮裁断橋コース」(パンフレットは、熱田区役所1階の「情報コーナー」にあります)に入っています。

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※「熱田神宮裁断橋コース
⑥鈴之御前社(れいのみまえしゃ)(鈴の宮(れいのみや))
もとは、精進川(しょうじんがわ)の西側にあったが戦後現在地に移転。熱田社に参詣の人々のみそぎの場。7月31日の「茅の輪(ちのわ)くぐり」の神事は有名。
⑦徳川家康幼時幽居跡
天文16年(1547)、家康が竹干代と呼ばれた6歳のとき、岡崎から駿河の今川氏へ人質に出されたが、戸田康光により織田信秀へ送られた。家康は加藤図書助(かとうずしょのすけ)に預けられ、2年程幽居した。建物は戦災によってすべて焼失した。
⑧都々逸(どどいつ)発祥の地碑
寛政12年(1800)開店した鶏飯屋という茶屋に、お亀とお仲という美声の女子衆がいた。「ドドイツ・ドイドイ」の囃子の潮来節に似た節回しの歌で評判を得たという。「殿々逸節根元集」により発祥の地といわれる。
⑨裁断橋・姥堂(さいだんばし・うばどう)
小田原の合戦の際、18歳で病死した堀尾金助の供養のため、母が願いをこめて.東海道筋に架け替えたといわれる裁断橋の擬宝珠(ぎぼし)(市指定文化財)に刻んだ碑文が有名。2階が「オンバコさん」を祀った姥堂。擬宝珠は名古屋市博物館に保管。
http://www.city.nagoya.jp/atsuta/cmsfiles/contents/0000000/652/atsutajingu.pdf

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 所在地の住所は、下の明治初期の地図には「羽城町」とありますが、現在は「愛知県名古屋市熱田区伝馬二丁目」です。

 行ってみると、住宅街の中に上の写真の案内板と、番組最後の紀行で紹介された碑文が刻まれた黒い石碑があるだけです。「羽城公園に縄張り図とか、加藤家系図とか掲示したらいいのに」と思いました。

加藤①景廉…⑪景繁┬【東加藤家(図書助)】⑫順光─⑬順盛
           └【西加藤家(隼人佐)】①延隆─②資景…

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 上の明治初期の地図を見ると、「小規模な田中城(静岡県藤枝市田中)」「輪郭式平城」って感じですね。海を掘って堀とし、掘った土を盛り上げて土塁にした「掻上城」です。

 ──加藤図書の新地の構まで。
   海掘り上げたる松陰近く有て、出入り汐、はやき所なれば、
  〽みつ汐の入江や谷の秋の声(里村紹巴『富士見道記』永禄10年8月)

「羽城(はじょう/はしょ)」は「端場(はしば/はじょう)」「端所(はしょ)」「橋羽(はしわ)」で、「熱田の端っこ」の意味にとられがちですが、「端城」とも書き、本城の端に築かれたり、少し離れた場所に築かれた砦を指します。熱田羽城の本城は熱田神宮でしょうね。

 ──羽城、又は、端所とも書き、或は端瀬(『尾張地名考』)

 熱田羽城は、水堀で囲まれていて、出入り口は北西(舟津。『熱田町旧記』の「北東」は誤り)に1ヶ所あるだけなので、幽閉するには最適の屋敷城でした。

 ──羽城は、加藤図書助が居住の地なり。古来、掻き上げ城の跡なり。図書構の内、北東の方を船津とも云ふ。往古、渡海の船、入り集まる。故に号(なづ)くと古伝なり。(『熱田町旧記』)

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 ──熱田まで来たのにこれだけ?

 もちろん、熱田神社を参拝したり、蓬莱軒でうなぎを食したりすればいいのですが、ちょっと悔しいので、魚市場まで行ってみました。

 裁断橋は、遠いので行きませんでした。
 現在、裁断橋(長さ25m、幅5m)は、堀尾跡公園(愛知県丹羽郡大口町堀尾跡)の五条川に架けられています。平成8年の「慈愛と歴史をみつめる舞台づくり事業」として復元された橋で、姥堂を模した木造の門も建てられています。
https://www.town.oguchi.lg.jp/2412.htm


 ──死のふは一定 しのび草には何をしよぞ

 天正18年(1590年)の小田原征伐の際、尾張国丹羽郡御供所(現在の丹羽郡大口町)から出陣した堀尾金助を、母親は、平将門伝説の残る熱田の裁断橋まで見送ったそうです。
 堀尾金助は、小田原落城前の6月18日に18歳で病死しました。法名は「逸岩世俊」です。
 母は「若くして死んでしまった息子の不運と、母としての哀惜の情を、功名もない息子ではあるが、息子のことを多くの人に記憶してもらうことで供養としたい」と考え、裁断橋が老朽化していたことを思い出し、架け替えたそうです。
 とはいえ、「誰が、何のために、お金を出して橋を作り直したか」という話は、時と共に忘れ去られるもので、母は、天和8年(1622年)の堀尾金助の三十三回忌に再度、橋の架け替えをし、その際に、「今度こそ忘れ去られないように」と、擬宝珠に「成尋阿闍梨(じょうじんあじゃり)母の集」「ジャガタラお春の消息文」と並び「日本女性三名文」と称される「裁断橋擬宝珠銘文」を刻みました。
 この銘文は、濱田耕作『橋と塔』で紹介されて有名になり、水上勉脚本の舞台『天正戦暦姥架橋』となり、昭和55年(1980年)には、小学校5年生の国語の教科書(学校図書)に「悲願の橋」という題名で載りました。

  てんしやう十八ねん二月   天正18年2月
  十八日にをたはらへの    18日の小田原への
  御ちんほりをきん助と    御陣、堀尾金助と
  申十八になりたる子を    申す18に成りたる子を
  たゝせてより又ふため    立たせてより、又二目
  とも見さるかなしさの    とも見ざる悲しさの
  あまりにいまこのはし    あまりに、今、この橋
  をかける成はゝの      を架けるなり。母の
  身にはらくるいと      身には落涙と
  もなりそくしんしやう    もなり、即身成
  ふつし給へ         仏し給へ。
  いつかんせいしゆんと後   逸岩世俊と、後
  のよの又のちまて此     の世の、又、後まで、此の
  かきつけを見る人は     書付を見る人は、
  念仏申給へや卅三      念仏申し給へや。33
  年のくやう也        年の供養(注:33回忌)也。

堀尾金助堀尾吉晴の長男とも、16歳の時に養子になったとも。また、年の離れた従弟とも。
 堀尾吉晴は、堀尾金助の菩提を弔うために京都の妙心寺に春光院を建立しました。春光院には、堀尾吉晴夫妻と堀尾金助の木像が安置されています。これが長男説の根拠です。とはいえ、小田原征伐の時、堀尾吉晴は、居城・佐和山城から出陣しているのに、長男が尾張国丹羽郡から出陣しているのはどうかと思うし、堀尾吉晴の妻にしても尾張国丹羽郡に住んでいて、息子の出陣を村外れではなく、裁断橋まで見送ったというのは、聊か奇妙です。

3.竹千代、天王坊に移される。

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 織田信長の居城・那古野城の南に、織田信秀が建てた菩提寺・万松寺があり、その万松寺の塔頭に天王坊がありました。ここは、吉法師(後の織田信長)が学問を身につけた学問所です。そこに竹千代が幽閉されたのですから、織田信長と会っていたかもしれんませんね。

 名古屋城建設に伴う「清洲越し」(清洲から名古屋へ町ごと移転。普請奉行は「名古屋の生みの親」と称される松井武兵衛)で、那古野城は名古屋城の二の丸となり、万松寺は大須へ移転させられました。また、名古屋城の本丸の南には、天王社(現在の那古野神社)と東照権現(後の名古屋城東照宮)が建てられました。名古屋城東照宮は太平洋戦争の空襲で焼けましたが、豪華絢爛な建物だったそうです。

4.竹千代、人質交換で岡崎城へ戻る。

 太原雪斎は、「今度の戦いは、「今川の戦い」ではなく、「松平の戦い」に今川が手を貸すだけなので、私(太原雪斎)が出馬する。今川義元は、駿府にいて下さい」と言い、天文18年11月1日、駿府から7000人(1説に8000人)を率いて出陣し、11月4日に岡崎城に着きました。
 翌・11月5日、岡崎城で軍議を行うと、岡崎一門衆並びに家老衆が、進み出て、「今度の戦は、「松平の戦い」であるので、先陣を務めさせていただきたい」と申し出て承認されました。

《松平・今川連合軍 2万人 大将:松井宗信》

・追手表
 ・一番隊:岡崎衆(弓手中心)
 ・二番隊:朝比泰能(遠江掛川)隊
 ・三番隊:今川本隊(近習衆&太原雪斎)
・搦手表:鵜殿長照(三河西郡)隊、岡部元信(駿河岡部)隊
・南表:三浦義就隊、葛山長嘉隊
・両手北口:飯尾連龍(遠江浜松)隊、板尾顕茲隊

 翌・11月6日早朝、安祥城(700人。城代は織田信長の兄・織田信広)の攻撃を開始しました。織田信広は、弓や鉄砲で攻撃し、松平・今川連合軍は、持盾、掻盾で矢を、竹束で鉄砲玉を防ぎ、(多勢であったので、疲れた兵は退かせ)新手と入れ替えながら前進し、三之丸、二之丸と落とし、本丸を包囲しました。
 織田信広は、「3日後には織田信長が後詰に来るので、それまでの辛抱だ」と城兵に呼びかけて戦ったそうです。(織田信長の父・織田信秀は、病気で寝ていたらしい。)
 太原雪斎が、大声の家臣に、門の前で「城番・織田信広については、生かして尾張に送って竹千代と人質交換するので、命は取らない。だから、安心して出てきなさい」と言わせると、「生け捕りにされて、屍(しかばね)の上の恥辱にしよう」と言って、織田信広が出てきたので、竹籠に入れ、「籠の鳥」「網代の氷魚」状態にしました。
 「安祥城、攻撃される」との知らせを受けた織田信長は、「後詰に行く」と言い、11月8日早朝、馬廻衆だけで出陣し、鳴海に着いた時には1000人くらいに膨れ上がっていましたが、「安祥城、落城」の狼烟(のろし)を見て、「どうしようか、帰ろうか」と悩みながら立ち止まっていると、松平・今川連合軍の大将・松井宗信から「織田信広と竹千代の人質交換したい」という手紙が届いたので、織田信長は、「竹千代は、父・織田信秀が、策略を持って奪った子である。こういう時のために使おうと思ったのであろう。良きに取り計らえ」と平手政秀&林秀貞(古い本だと「通勝」。「秀」は織田信秀の「秀」か?)に言い、帰城しました。
 こうして、11月10日、笠覆寺(通称「笠寺観音」「笠寺」。愛知県名古屋市南区笠寺町)で人質交換を行い、竹千代は、岡崎城へ入りました。松平家譜代の家臣はもちろん、一般大衆も出迎えて、大変喜んだそうです。

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 岡崎城には、岡崎古城(旧・三河国守護所。「明大寺城」とも)と対岸の岡崎新城(上の写真の岡崎城)がありました。
 岡城(作岡砦)の松平信孝を討ち取った「耳取縄手の戦い」は、岡崎古城での戦いになります。
 ちなみに、真喜姫のお輿入れの時、「本城は竹千代様の城であるから、新城へ」と真喜姫を粗末に扱ったのが、戸田氏寝返りの1因になったとか。

 ──広忠は、田原の戸田少弼殿の婿にならせられ給ひて、御輿が入れ然る処に「本城え御輿を入れん」と云ひければ、「本城は竹千代城なれば、新城え入れよ」と仰せければ、久しく支えて、何かと申しけれども、叶はずして終には新城え入らせ給ふなり。(大久保彦左衛門『三河物語』)

 岡崎城(岡崎新城)は、上の写真のように正面(南側)から撮ると松が入るので、東側から撮影するのが常識です。紀行では、岡崎城の東にある岡崎ニューグランドホテル9階のスカイレストラン「パリ」から撮ったようです。(パリは高すぎて、奥のビルが入ってしまうので、もう少し低い7階の客室(716~719号室)から撮るのがベストだとか。)
https://newgrand.yad.jp/

 なお、天守を築いたのは、徳川家康の関東移封後に岡崎城に入った豊臣秀吉家臣・田中吉政で、徳川家康の在城時代にはありませんでした。

──死のふは一定 しのび草には何をしよぞ

 これは、織田信長が大好きな歌で、「私が死んだら、後世の人は私を忘れてしまうだろうか? 人々の記憶に残るような何かをしたい」という意味で、「桶狭間の戦い」で勝利してからは謡わなくなったそうです。「今川義元を倒したという功績は、後世に残るだろう」と安心したのでしょう。
 「ひとりぼっちのブロガー」・・・私が死んでも、私が生きた証として、この記事は残るだろうか? 母がいたら、ブログの記事を本にしてくれるかもしれないけど・・・妹次第だな。
 noteはどうか知らないけど、twitterは、現地時間の2019年11月28日、公式アカウントにおいて、「故人のアカウントに配慮し、非アクティブなアカウントは削除しません」と発表しました。

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