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臨済宗妙心寺派の法系図

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             <悟渓八哲>
               ┌天従宗受
               ├西川宗洵
               ├仁済宗恕
               ├玉浦宗珉─文叙瑞郁─黙宗瑞淵─南渓瑞聞
               ├寿岳宗膨
                               ├瑞翁宗縉
               ├独秀乾才─仁軸宗寿─快川紹喜─南化玄興
    ┌悟渓宗頓(東海派)┴興宗宗松─泰秀宗韓─沢彦宗恩 
    ├特芳禅傑(霊雲派)─大休宗休─太原崇孚
雪江宗深┤<妙心寺四派>
    ├景川宗隆(龍泉派)─明叔慶浚─希菴玄密
    └東陽英朝(聖沢派)─天蔭徳樹

・南渓瑞聞:『おんな城主 直虎』で有名になった龍潭寺住職
・快川紹喜:沢彦宗恩と兄弟の契りを結んだ恵林寺住職
・沢彦宗恩:若き織田信長の相談役(名付け親)
・太原崇孚:今川義元の軍師「黒衣の宰相」
・明叔慶浚:太原崇孚を臨済宗に改宗させた名僧
・東陽英朝:土岐持頼の子。瑞泉寺、林昌寺住職。

調べた感想
①武家の「通字」に近いルールがあったのか「宗」がつく僧が多い。太原崇孚は、太原宗孚なのでは?
②有力武将がいる地方に臨済宗妙心寺派が進出して寺を建てた。臨済宗妙心寺派の寺の分布と室町幕府奉公衆の本拠地の分布が重なるような気もする。

 さて、明智光秀は、若い頃、京都に住んでいて天龍寺で学んだとも、美濃国に住んでいて快川紹喜(かいせんじょうき)に学んだともされています。また、岐阜県恵那市の明知城には、天龍寺の学僧・勝恵を招いた「光秀公学問所」がありました。(現在は、学問の神・菅原道真公を祀る天神社になっています。建てたのは、明智光秀だと伝わっていますが、場所が明智城ではなく、明知城ですから、明智遠山氏でしょうね。師も天龍寺の学僧ではなく、近くの長楽寺(現在は廃寺)の住職だったとか。)

 明智光秀の息子たちは、「本能寺の変」後、切腹したり、逃亡したり、そして、臨済宗妙心寺派の僧になったりです。

・明智光秀の長男=明智晴光(山岸光舎)→出家して玄琳
 ・師は細川藤孝が中興した妙心寺大心院の院主・三英瑞省
・明智光秀の次男=明智光慶→出家して南国梵桂
 ・師は南化玄興(快川紹喜の弟子)

 明智光秀の長男の明智晴光は、山岸家の養子となり、山岸光舎と名乗ったので、次男の明智光慶を長男とする系図や本が多い。
・明智晴光は、山岸家の養子となっていたが、切腹しようと思った。しかし、祖父に止められ、その祖父が亡くなると出家して玄琳と名乗った。
・明智光慶は、亀山城で病死、もしくは、切腹したことにして逃亡した。
・明智光秀には生存説(出家して南光坊天海)があるが、天海は天台宗なので・・・生きていたら、臨済宗の僧になったのでは?

山岡荘八の小説『生きていた光秀』では、明智光秀は、すぐに妙心寺に逃げ込んだが、後に比叡山の松禅院に移って大日と名乗ったという。後に曽呂利新左衛門が建てた助松庵へ移り、本徳寺に位牌を残して天海と共に寺を去ったという。また、玄琳が南国梵珪になったという。

┌曽呂利新左衛門(豊臣秀吉の御伽衆)
└女・香矢
  ‖─玄琳→南国梵珪
 明智光秀(妙心寺→比叡山(松禅院)→助松庵→大日庵→本徳寺)

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現在は明智光秀公の謎の解明と『明智軍記』の現代語訳に取り組んでいます。
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