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【詳細版】三条西実澄なる人物

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     ※三条西実澄像(二尊院(三条西家の菩提所)の肖像画の模写)

★2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』での三条西実澄
学問好きで変わり者の老公卿(くぎょう)。大納言。伊呂波太夫を通じて、光秀と正親町帝(おおぎまちみかど)の間を取り持つ。
https://www.nhk.or.jp/kirin/news/news_201016.html

 三条西実澄と正親町天皇は「祖母が姉妹」という関係である。
 三条西実澄は、「蘭奢待問題の時、またその後も正親町帝の朝廷運営を鋭く批判した人」(金子拓『織田信長<天下人>の実像』)だという。「天下の御意見番」こと大久保彦左衛門のポジションか。

1.三条西家 


三条家
(藤原北家閑院流嫡流)┬実房
               └嵯峨家正親町三条家)┬公豊
                          └三条西家

正親町三条実継┬正親町三条公豊【嵯峨家(正親町三条家)】
       └三条西①公時─②実清=③公保─④実隆─⑤公条─⑥実澄

 三条西家(さんじょうにしけ)は、藤原北家閑院流嫡流の「清華家」三条家の分家である「大臣家」嵯峨家(正親町三条家)の分家で、正親町三条実継の次男・公時を祖とする。家格は、第3代・公保は嵯峨家からの養子であり、生家の家格を引き継いだため、三条西家は、嵯峨家同様、「大臣家」であり、大臣にまでは昇進できる。(江戸時代は、中院家、正親町三条家、三条西家を「三大臣家」と言った。)三条西実澄は、三条西家第6代宗主である。
 通字は「公」「実」「季」で、分家には、押小路家、武者小路家、高松家がある。

《公家のヒエラルヒー(家格)》

上級貴族:堂上家(とうしょうけ)
摂関家(近衛家、鷹司家、二条家、一条家、九条家)
清華家(三条家、西園寺家、徳大寺家、久我家、菊亭(今出川)他)
大臣家(中院家、嵯峨家(正親町三条家)、三条西家)
羽林家(正親町家、四辻家、姉小路家、武者小路家、飛鳥井家他)
名家(日野家、烏丸家、勘解由小路家、甘露寺家、万里小路家他)
半家(高倉家、竹内家、富小路家、石井家、高辻家、舟橋家他)
下級貴族:地下家(じげけ)
・家司、官人

公家(くげ):「武家」に対する名称。本来は天皇や朝廷のこと。
公卿(くぎょう):「公 (こう)」と「卿 (けい)」 の総称。上級貴族。「公」は、太政大臣、左大臣、右大臣を、「卿」は大納言、中納言、参議、及び、三位以上の朝官をいう。
官位官職:太政大臣(正一位、従一位)>左大臣、右大臣>内大臣(正二位、従二位)>大納言>権大納言(正三位)>中納言(従三位)>参議(正四位下)
五摂家(関白になれる家):近衛家、鷹司家、二条家、一条家、九条家。
三大臣家(大臣になれる家):中院家、嵯峨家、三条西家。

              後柏原天皇
        ‖─後奈良天皇─正親町天皇
勧修寺教秀┬女子(藤子)
     └女子
             ‖─三条西公条─三条西実澄┬三条西公世
            三条西実隆                ├三条西公尊
                                 ├三条西公光─三条西実条
                                 ├三条実綱
                           └女子
                        ‖─女子(安)
                   稲葉良通   ‖─女子(斎藤福→春日局)
                                                                           斎藤利三

※「本能寺の変」後、斎藤利三が処刑されると、安や福を三条西公国が奉公人として保護した。

2.三条西実澄


・生誕:永正8年(1511年)8月4日
・薨去:天正7年(1579年)1月24日(享年69)
・改名:実世(初名)→実澄→実枝、龍(1字名)
・法名:三光院玄覚豪空
・官位:正二位内大臣
・氏族:三条西家
・両親:父:三条西公条(称名院。1487-1563)
    母:甘露寺元長の娘(?-1552)
・兄弟姉妹: 水無瀬兼成(1514-1602)、中院通為室、大久保忠員室
・室:前室・吉田兼満(神祇権大副)の娘(?-1544)
   後室・正親町三条公兄(今川義忠の娘の子)の娘(?-?)
・子:公世(1537-1544享年8):母・吉田兼満の娘
   公尊→公陸(1548-1562享年14):母・正親町三条公兄の娘
   公光→公明→公国(1556-1587享年32):母・正親町三条公兄の娘
   三条実綱(1562-1581)→三条公頼へ:母・正親町三条公兄の娘
   稲葉良通室(春日局の祖母):母・正親町三条公兄の娘
   高倉永孝室(高倉永慶の母):母・正親町三条公兄の娘

■三条西実澄関連略年表


永正8年(1511年)8月4日     誕生。(父・三条西公条)
大永元年(1521年)2月20日 元服。諱を「実世(さねよ)」とする。
天文13年(1544年)2月8日     長男・公世、薨去。享年8。
天文13年(1544年)6月2日   諱を「実澄(さねずみ)」に改める。 
天文15年(1546年)5月7日   四辻季遠と駿河国を経て甲斐国へ下向。
天文16年(1547年)8月20日 大井信常らと歌会。
天文20年(1551年)5月22日    甲斐国から駿河国を経て帰洛。
天文21年(1552年)2月19日    関東へ下向。
天文22年(1553年)      駿河国へ下向。
永禄元年(1558年)8月21日 駿河国より帰洛。
永禄2年(1559年)5月26日   駿河国へ下向。
永禄3年(1560年)5月19日   「桶狭間の戦い」で今川義元討死。
永禄4年(1562年)12月6日   次男・公尊、薨去。享年14。
永禄6年(1563年)12月2日   父・三条西公条(称名院)、薨去。
永禄12年(1569年)6月26日 駿河国より甲斐国を経て帰洛。
永禄13年(1569年)3月17日 宮中で『源氏物語』の講義を開始。
元亀元年(1570年)12月    「志賀の陣」和睦の勅使(『明智軍記』)
元亀2年(1571年)8月20日   伊勢国へ下向。
元亀2年(1571年)12月4日   伊勢国より帰洛。
元亀3年(1572年)12月6日   細川藤孝への「古今伝授」開始。
元亀4年(1573年)4月1日     武田信玄、没。
元亀4年(1573年)4月7日     足利義昭と織田信長の和睦の勅使
天正2年(1574年)12月24日 諱を「実枝(さねき)」に改める。
天正3年(1575年)3月20日   織田信長に蹴鞠を披露(『信長公記』)
天正3年(1575年)12月29日 三条西公明、諱を「公国」に改める。
天正4年(1576年)1月     安土城、築城開始。
天正4年(1576年)3月4日  美濃国から帰洛(美濃国へ発った日は不明)
天正4年(1576年)6月18日   細川藤孝への「古今伝授」終了。
天正4年(1576年)10月12日 細川藤孝へ「古今伝授」の「奥書」を発行。
天正5年(1577年)4月11日   安土から帰洛し、折返し安土へ下向。
天正5年(1577年)11月20日 正二位権大納言から正二位大納言に就任。
天正7年(1579年)1月20日   正二位内大臣に就任。
天正7年(1579年)1月22日   内大臣を辞任して出家。
天正7年(1579年)1月24日   「三光院玄覚豪空」薨去。享年69。

『公卿補任』「天正7年」
・大納言正二位藤実枝69内膳別当。正月20日、任内大臣。依所労危急也。
・内大臣正二位藤実枝69正月20日任。同月22日辞。同日出家。法名豪空。
            同月24日薨。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991100/336

■教養人実世は「天下名仁」


 正二位内大臣・三条西実世は、右大臣・三条西公条と甘露寺元長の娘の子。歌人でもあり、「近世歌学の祖」と呼ばれています。元亀3年(1572年)12月6日から天正4年(1576年)6月18日まで、30回に分けて細川藤孝に「古今伝授」をしたことで知られています。(「古今伝授」は、半年もあれば十分ですが、3年半もかかったのは、途中で細川藤孝が蟄居させられたり、参戦したりして中断していたためです。)
 蹴鞠の達人、書家としても知られ、三条西家の家業となる「香道(御家流)」も始めています。万里小路惟房(正親町天皇の従兄弟)と並び称されるこの時代の教養人、「天下名仁」(『多聞院日記』)です。

太田牛一『信長公記』(巻8)「今川氏真と相国寺で蹴鞠」
 三月十六日、今川氏真御出仕、百端帆を御進上。以前も千鳥の香爐は止め置かせられ候ひき。今川殿(蹴)鞠を遊ばさるるの由、聞こしめし及ばれ、
 三月廿日、相国寺において御所望。御人数、三条殿父子、藤宰相殿父子、飛鳥井殿父子、弘橋殿、庭田殿、烏丸殿。信長公は御見物。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/111

■実澄の歌人Life


 天文13年(1544年)、長男・公世と妻(前室・吉田兼満の娘)を相次いで失うと、諱を「実澄(さねずみ)」に改め、歌人生活を送りました。各地の大名(特に甲斐国の武田氏と駿河国の今川氏)から招かれて、和歌や『源氏物語』の講義をして回ったそうです。

   世にしたふ親のおやなる子の子にて
            立もつづかぬその名をぞ思ふ
 
 天文15年(1546年)5月7日には、四辻季遠と共に、駿河国を経て甲斐国へ下向し、天文16年(1547年)8月20日には歌人として知られる大井信常(武田信達の次男)、武田信繁(武田信玄の同母弟)、武藤信堯(大井信常の弟)らが精進(山梨県南巨摩郡富士河口湖町精進)において歌会、船遊びを行っています(『甲信紀行の歌』)。また、四辻季遠も大井信常の宿所を訪問して和歌を詠んでいます(相玉長伝『心珠詠藻』)。

 天文21年(1552年)以降、京を離れ、駿河国へ移っています。
 永禄12年(1569年)6月26日に帰洛すると、永禄13年(1569年)3月17日から御所で毎日のように『源氏物語』の講義を開始し、『源氏物語』の解説書『山下水』を著しました。

■実枝となって政界復帰(織田信長の「武家伝奏」)


 元亀4年(1573年)4月7日、足利義昭と織田信長の和睦の勅使として、正親町天皇は、織田信長へ二条晴良、三条西実澄、庭田重保を派遣すると、和睦が成立しました。これを機に三条西実澄は織田信長に接近し、天正2年(1574年)12月24日には諱を「実枝(さねき)」に改め、「武家伝奏」(公家(朝廷)と武家(一般には足利義昭を指すが、ここでは織田信長)との連絡役)となって、政界に完全復帰しました。

『御湯殿上日記』「元亀4年(1573年)4月7日条」
七日、世上の事か、ぶけへくわんぱく、三てう大納言(注:三条西実澄)、にわた三人、御つかゐにまいらせらるゝ。のぶなが御事によりて、御心え候との御事にて候。又、この三人、やがてのぶ所へ御いり候て、このよしおほせらるゝ。わらくになりて、めでたし、めでたし。
(世上の事か(正親町天皇は)、武家(足利義昭)へ、関白(二条晴良)、三条大納言(三条西実澄)、庭田(重保)の三人を、御使ゐに参らせらるる。信長は、御事によりて(不在であったが、家臣が)「御心得候」との御事にて候。又、この三人、やがて信長の所へ御入り候て、この由、仰せらるる。和睦になりて、めでたし、めでたし。)
※吉田兼見『兼見卿記』
「元亀4年(1573年)4月5日条」

五日、乙卯。為無事之義、勅使・二条殿、三条亜相(注:三条西実澄。「亜相」は「大納言」の唐名)、庭田黄門(注:庭田重保。「黄門」は「中納言」の唐名)、本陣・知恩院へ御出也。予(注:吉田兼見)、可罷出之旨、御使之間、罷向本陣。御両三人、委細申談了。信長、各(おのおの)へ被申対面、即、帰京也。予、帰了。
「元亀4年(1573年)4月7日条」
七日、丁巳。以和平之義、自信長名代・織田三郎五郎(注:津田信広)、佐久間右衛門尉(注:佐久間信盛)、細川兵部大輔(細川藤孝)、武家御所へ伺候也。各御対面云々。後刻、参武家御所了。
「元亀4年(1573年)4月8日条」
八日、戊午。巳刻、信長下向也。至路次罷出、申礼了。今度、当所、無別義之段、併神慮勿論也。近郷之者、多分、各安堵了。


 織田信長は、足利義昭を擁して上洛し、畿内の三好氏を四国へ追いやりました。次の目標は朝倉討伐でした。この時期、明智光秀は、「朝倉家臣団や越前国の地理に詳しく、京都外交もできる」と重宝されたことでしょう。朝倉氏を討った織田信長は足利義昭を京から追放し、明智光秀に足利義昭の支持者が多い丹波国の平定を命じました。
 織田信長の次なるターゲットは武田氏です。武田家臣団や甲斐国の地理に詳しい三条西実枝は、重宝されたことでしょう。

 それから約4年後の天正7年(1579年)1月の薨去の4日前に内大臣に就任しましたが、2日前に辞任して政界を引退すると、出家し、法名を「三光院玄覚豪空」としました。しかし、1月24日に急逝──上掲の『公卿補任』には、「依所労危急也(所労に依り危急也)」(所労(疲労、病気)により急逝した)とあります。享年69。

『多聞院日記』「天正7年(1579年)1月26日条」
去24日、三条西殿、死去了。69才云々。「天下名仁」惜事。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920656/32

※三条西実澄の訃報を受けて細川藤孝が詠んだ歌

   遠ざかる世々の跡きて思う哉
          いやはかななる夢の名残に

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