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諸説比較:結局「第一次越前朝倉攻め」とは何だったのか?

 「第一次越前朝倉攻め」とは、「織田信長が朝倉義景を討とうとして、京都から出陣して一乗谷へ向かったが、敦賀まで侵攻すると、「義弟・浅井長政逆心」の報を受けて帰洛したという戦い」なんですけど、そんな単純なものではなく、奥が深いような気がします。
 遠征の目的にしても、若狭湾の港が欲しかったとか、本願寺への牽制とか、考えられなくもない。

 ──天下静謐

 戦国時代の「天下」は、「日本全国」のことではなく、「畿内」のことだという。「畿内」は「三関(さんげん、さんかん)より西」である。

《三関》
・不破関(美濃国の関ケ原。現在の岐阜県不破郡関ケ原町)
・鈴鹿関(伊勢国関。現在の三重県亀山市天神)
・愛発関(越前国の関峠。現在の福井県敦賀市~福井県三方郡美浜町)

 福井県の天気予報を聞いていると「嶺南」「嶺北」と区別しているので、木ノ芽峠(木の目峠、木辺峠、木嶺、木部山)が越前国と若狭国の境目かと思っていたが、そうじゃない。木ノ芽峠より西に位置する敦賀郡(敦賀市)は越前国である。(敦賀の北陸道総鎮守・氣比神宮は、越前国一之宮であって、若狭国一之宮ではない。若狭国一之宮は、若狭彦神社&若狭姫神社である。)越前国と若狭国の境目は、木ノ芽峠ではなく、関峠(愛発関)である。

山科言継『言継卿記』「永禄13年4月20日条」
 早旦、弾正忠信長出陣見物。一条東へ坂本に令下。三万計有之。自両三日以前、直に若州へ罷り越す云々。三好左京大夫被送之。松永山城守は罷り出づ。摂州・池田筑後守、人数三千計有之。公家・飛鳥井中将、日野等被立了。今日、鰐迄被行云々。貴賤、男女、僧俗、見物了。
(【大意】早朝、織田信長が若狭国に向けて出陣すると聞いて見物に行った。兵数は約3万人で、2~3日で若狭国に着くという。三好義継は出陣せずに見送ったが、松永久秀は出陣した。摂津国の池田勝正は兵数約3000人で出陣。公家の飛鳥井雅敦、日野輝資らも出陣した。金持ちも貧しきも、男も女も、僧侶も俗人も、織田信長の出陣を見物した。)

              
 公家・山科言継の日記『言継卿記』によれば、織田信長は、3万に松永久秀隊(家臣)、池田勝正隊3千(幕府軍)、飛鳥井雅敦&日野輝資(朝廷軍)を加え、4月20日の早朝、京都から出陣し、北上して若狭国熊川(丹後街道熊川宿)に達しました。
 織田信長は、3万以上の兵で若狭国の朝倉方の国衆をどんどん討とうと出陣したのですが、なんと、なんと、若狭国の国衆が次々と熊川を訪れ、織田信長に恭順の意を示したといいます。

 ──なんだ、3万もいらんじゃん。1万で十分じゃん。

織田信長は拍子抜けしたことでしょう。

 ──熊川から西端(高浜城)と東端(国吉城)、先にどちらへ向かおうか?

 敵対心を表明している西若狭衆の武藤友益を討とうとして先に西端へ行くと、東端から武藤友益と繋がる朝倉軍が攻めてくる可能性があります。織田信長は、まずは東端の「境目の城」である佐柿国吉城へ行きました。想像するに、織田信長の考えは、3万の兵のうち2万を国吉城に置き、1万で西若狭へ向かおうとしたと考えられます。しかし、国吉城では1泊ではなく、2泊しました。1泊延びたのは、国吉城主・粟屋勝久が「何度も朝倉軍に襲われている。なんとかして欲しい」と懇願しての作戦変更によるのでしょう。
 織田信長は、関峠を越え、越前国敦賀に入り、天筒山城(城主・寺田采女正)を1日で落とすと、翌日、金ヶ崎城の城主・朝倉景恒は降参しました。そして、天筒山城に城番・池田勝正、金ヶ崎城に城番・木下秀吉を入れ置き、踵を返して西若狭へ向かいました。

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              ※敦賀観光協会「敦賀戦国歴史ロマン」より

 ──結局「第一次越前朝倉攻め」「金ヶ崎の退き口」とは何だったのか?

1.従来の説


 永禄11年(1568年)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛した。
 上洛した織田信長は、朝倉義景に対し、将軍・足利義昭の命令として2度上洛を命じたが、朝倉義景は2度とも拒否した。これを「叛意あり」と解釈して、織田信長は、永禄13年(1570年)4月20日、「第一次越前朝倉攻め」を開始した。
 織田信長は、元亀元年(1570年)4月25日(永禄13年4月23日に「元亀」に改元)に金ヶ崎城の支城である天筒山城、翌4月26日には本城の金ヶ崎城を落としたが、「同盟関係にあった妹婿・浅井長政が裏切った」と聞き、「挟み撃ちにされたら大変だ」と撤退した。これを「金ヶ崎の退き口」といい、軍記物(時代小説)には木下秀吉(後の豊臣秀吉)が殿(しんがり)を務めて孤軍奮闘したとあるが、実際に殿を務めたのは、天筒山城の城番・池田勝正、金ヶ崎城の城番・木下秀吉と明智光秀であった。

 織田信長研究でよく用いられる『信長公記』では、「京都より直ちに越前へ御進発」、江戸幕府の公式文書『東照宮御実紀』では、「信長、越前の朝倉左衛門督義景をうたんと軍だちせられ」と、どちらも、出陣の目的は、朝倉征伐だとしている。(だから「第一次越前朝倉攻め」なのである。)

※太田牛一『信長公記』(巻之三)
 元亀元年庚午四月廿日、信長公京都より直ちに越前へ御進発。坂本を打ち越し、其の日、和邇に御陣取り。
 廿一日高島の内、田中が城に御泊り。
 廿二日若州熊河、松宮玄蕃が所に御陣宿。
 廿三日佐柿、栗屋越中が所に至りて御着陣。翌日御逗留。
 廿五日、越前の内敦賀表へ御人数を出ださる。信長公、懸けまはし御覧じ。則ち、手筒山へ御じ取り懸け候。彼の城、高山にて、東南峨々と聳えたり。然りと雖も、頻りに攻め入るべきの旨、御下知の間、既に一命を軽んじ粉骨の御忠節を励まれ、程なく攻め入り、頸数千三百七十討ち捕り。並び金ケ崎の城に、朝倉中務大輔楯籠り候。
 翌日、又、取り懸け、攻め干さるべきのところ、色々降参致し、退出候。引壇の城、是れ又、明け退き候。則ち、滝川彦右衛門、山田左衛門尉両人差し遣はされ、塀、矢蔵引き下ろし、破却させ、木目峠(きのめとうげ)打ち越し、国中御乱入なすべきのところ、江北浅井備前、手の反覆の由、追々、其の注進候。然れども、
「浅井は歴然御縁者たるの上、剰へ、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべかざるの条、虚脱たるべし」
と、おぼしめし候ところ、方々より事実の注進候。
「是非に及ばず」
の由にて、金ケ崎の城には、木下藤吉郎残しおかせられ、
 四月晦日、朽木(くちき)越えをさせられ、朽木信濃守馳走申し、京都に至って御人数打ち納められ、是れより、明智十兵衛、丹羽五郎左衛門両人、若州へ差し遣はされ、武藤上野守人質執り候て参るべきの旨、御言葉候。則ち、武藤上野守母儀(ぼぎ)を人質として召し置き、其の上、武藤構へ破却させ、五月六日、はりはた越えにて罷り上り、右の様子言上候。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/91
※江戸幕府の公式文書『東照宮御実紀』(第2)
 ことし弥生、信長、越前の朝倉左衛門督義景をうたんと軍だちせられ、又、援兵を望まれしかば、君にも遠江、三河の勢一萬余騎にて、卯月廿五日、敦賀といふ所につき給ふ。
 やがて織田と旗を合せ、手筒山の城をせめやぶる。なをふかく攻入て、金が崎の城に押よせらるる所に、信長のいもと聟近江の浅井備前守長政、朝倉にくみし、織田勢のうしろをとりきるよし注進するものありしかば、信長大におどろき、とるものもとりあへず、当家の御陣へは告もやらず、急に朽木谷にかゝり尾州へ逃げ帰る。
 木下藤吉郎秀吉にわづか七百余の勢をつけてのこされたり。秀吉は、君の御陣に来り、しか/\〃のよしを申し、救ひをこひしかば、快よく請がひたまひ、敵所々に遮りとめんとするをうちやぶり通らせ給ふ。されど敵大勢にて小勢の秀吉を取かこみ、秀吉、既に危く見えければ、最前秀吉が頼むといひしを捨てゆかむに、「我、何の面目ありて再び信長に面を合すべき。進めや者共」と御下知ありて、御みづから真先に進み鉄砲をうたせたまへば、義を守る御家人、いかで力を尽くさゞらん。敵を向の山際までまくり付、風の如くに引とりたまふ。椿峠までのかせ給ひ。しばし人馬の息をやすめ給ふ御馬前へ、秀吉も馬を馳せ来り、「もし、今日、御合力なくば、甚だ危きところ、御影にて、秀吉、後殿をなしえたり」とて謝しにけり。
(【大意】徳川家康は、1万余人を率いて敦賀に着陣した。浅井長政逆心の報を受け、徳川家康に何も言わず、木下秀吉に700人を付けて逃げ帰った。敵は大軍なので、木下秀吉が徳川家康の陣に来て助けを求めた。木下秀吉がピンチだったので、徳川家康自ら鉄砲を撃ち、敵を追い払った。木下秀吉は「おかげさまで、無事、殿を務められた」とお礼に来た。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772965/24

2.最新の学説


 永禄11年(1568年)8月、朝倉義景は、若狭国守護・武田氏の内紛に介入し、足利義昭の甥である若狭国守護・武田元明を「保護する」という名目で若狭国小浜から連れ去り、越前国一乗谷に軟禁した。
 永禄11年(1568年)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛した。
 織田信長は、永禄13年(1570年)4月20日、将軍・足利義昭の命令で、「武藤友益討伐」など、若狭国の内紛解決のために3万人を率いて、幕府軍(池田勝正隊3千人)と共に出陣したが、結果的に「第一次越前朝倉攻め」へと発展してしまった。若狭国の内紛解決には、若狭国内の反武田派を討った上で、一乗谷に軟禁されている若狭国守護・武田元明を解放することが必要であることが分かったのであろう。
 織田信長は、越前国敦賀へ侵攻して、元亀元年(1570年)4月25日に金ヶ崎城の支城である天筒山城を落とし、翌4月26日には本城の金ヶ崎城が開城したが、「同盟関係にあった妹婿・浅井長政が裏切った」と聞き、「挟み撃ちにされたら大変だ」と撤退した。これを「金ヶ崎の退き口」という。『信長公記』によれば、「金ケ崎の城には木下藤吉郎残しおかせられ」(木下秀吉(後の豊臣秀吉)を金ヶ崎城に残し置いた)とあるが、殿には、木下秀吉以外にも、明智光秀と池田勝正がいたことが「5月4日付一色藤長書状」から分かっている。この殿を指揮した大将は、力関係からして、300人の織田軍木下隊を率いる木下秀吉ではなく、3000人の幕府軍池田隊を率いる池田勝正であろう。

 最近の日本史学会は、『信長公記』『東照宮御実紀』よりも、1次史料(日記、手紙など)を重視する傾向にある。織田信長が、毛利元就へ送った覚書に「若狭之国端に武藤と申者、企悪逆之間、可致成敗之旨、為上意被仰出之間、去四月廿日、出馬候。武藤種々相詫候条、召出、要害已下令破却、任御下知之事。彼武藤一向不背之処、従越前加筋労候」とあることから、現在の学説は、「武藤友益討伐」が「第一次越前朝倉攻め」へと発展してしまった、である。

元亀元年七月十日付織田信長覚書(『毛利家文書』)
一、若狭之国端に武藤と申者、企悪逆之間、可致成敗之旨、為上意被仰出之間、去四月廿日、出馬候。武藤種々相詫候条、召出、要害已下令破却、任御下知之事。
一、彼武藤一向不背之処、従越前加筋労候。遺恨繁多に候之間、直に越前敦賀郡に至て発向候。手筒山、金前両城を蹈相支候し、不移時刻、先手、手筒山攻上、即、乗入数百人討捕、落居候。金前城に朝倉中務太輔、楯籠之間、翌日可攻破覚悟処、懇望之間、加用捨追出候。両城共、以任存分候。則、国中へ雖可及行候。備播表出勢之儀、内々約諾申之条、時宜為可示合、金前には、番手入置、先帰洛候つる事。

3.『麒麟がくる』のストーリー


 織田信長の女軍師・帰蝶が、織田信長に「(美濃国を守るために)朝倉義景を討て」と指示したが、織田信長は渋っていた。その理由は、①大義名分が無い、②朝倉軍は強く、織田軍だけでは朝倉軍に勝てないから、である。
 明智光秀の提案で、織田信長が足利将軍よりも偉い正親町天皇に会うと、「天下静謐のための戦いならやむ無し」との勅命をいただけたので、織田信長は、諸将を上洛させ、京都から出陣した。この時、将軍・足利義昭に対し、明智光秀が「天下静謐のため、佐分利の武藤友益を討つために出陣する」と説明して幕府の協力を申し出たが、摂津晴門は、「それは口実で、朝倉義景を討つのであろう」と見抜いた。将軍・足利義昭にしても、朝倉義景に世話になっていた時期があったので、「将軍は、戦う者ではなく、戦いの調停をする者である。京都で吉報を待つ」と言い、幕府軍は出陣しなかったとする。(「第一次越前朝倉攻め」が将軍・足利義昭の命令であれば、「織田軍 vs 朝倉軍の戦い」ではなく「幕府軍 vs 朝倉軍の戦い」になるが、このドラマでは「皇軍(官軍) vs 朝倉軍の戦い」である。)

 最新の学説を指示しながらも、武藤友益を倒すのに3万人もいらないので、「武藤友益征伐」は口実で、実際は「朝倉義景征伐」であるとした。

 最新の学説に対する「武藤友益を倒すのに3万人もいらない」という批判はよく聞くが、「あちこちに呼びかけたら、我も我もと集まって、必要以上の3万人になってしまった」とか、「武藤友益以外の抵抗者がいるかもしれないので、念の為に3万人で進軍した」とも考えられる。

4.戦国未来の説

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