見出し画像

宗教とは

宗教は自分が在ることの不思議から出発する。

自分が世界に産まれてきたこと、自分が今生きていること、これらの不思議を感じたときに自己を見つめることから始まる。

「なぜうまれたのだろう」「なぜ生きているのだろう」 と。
(アンパンマンの歌詞にも「なんのために生まれて何をして喜ぶ。分からないまま終わる、そんなのは嫌だ。」とある。児童向けアニメの歌詞にこんなにも鋭い歌詞を入れるやなせたかしの宗教心には驚かされる。)

私は一人でに産まれたのではない。生物的には父と母とがいなければ産まれない。
私は一人でに自分の力だけで生きてきた訳ではない。主には両親、祖父母、きょうだい、その他の血縁者、家族、友だち、学校関係者、近所の人たちその他諸々の人々の中で育ち、今も生きている。

自分自身を構成している基(もと)のようなものを考えると、全ての原点を思い出せる訳ではないが、どれを取ってみても完全に自分から始まったものは無いように感じる。自分の中の全てのことが絶対に誰かに依ってあるもの、他人の模倣、他人からの学びによってここにあるものである。換言すると、自分と関わりのある全ての他人の要素によって今の自分が構成されている。今の自分の姿を拓いていくとそこには自分は残らないのである。

一人でに何もない空間からポッと産まれ出て一切の人と関わらずに育ってきたならば「なぜうまれたのだろう」「なぜ生きているのだろう」という疑問を持つことも正当性を帯びるであろう。
しかし、自分の姿を拓くと、そこには自分と関係性のあった他人の集合体があることに気がつく。他人によって産まれ出て他人によって生かされていること、他人によって今の自分があることに気づく。

ここで宗教が初めて体感として、自分の問題として捉えられるようになる。ここに至らなければ、それまでに獲得した宗教的事象はただの知識に過ぎなかったことになる。実感を持たない知識、情報である。自分自身になっていない宗教的事象は全くの空虚である。

自分が在ることの不思議を感じ、その不思議によって生かされることが宗教である。宗教の主語は自分に始まり自分に終わらなければならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?