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正信偈9 「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」

正信偈 9
 
能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
 
心というのは、目に見えるものではありません。ですから、信心といっても、目には見えません。信心があるとかないとか言いますが、ちゃんと考えたいならば、信心とはいったい何か、心の状態のことなのか、そもそも心とは何か、初めから考えていかねばなりません。
 
「信心がある」というのは、一種の状態をあらわす言葉です。例えば、私たちは普段から「いのちがある」という言い方をしますが、「いのち」というものの実体は無いですね。「生命活動をしている」状態のことを、「いのちがある」と、物があるように言い換えているのです。ある意味では比喩表現とも言えます。ですから、いのちはあるけどいのちはありません。これと同じように、「信心がある」というのも、状態をあらわす比喩表現です。自分の心に、確固たる「信心」と呼ばれるものがあるわけではなくて、仏さまについて疑いの無い状態、お助けを素直に受け入れられる状態のことを「信心がある」と呼ぶと、私は思います。
 
信心には必ず称名(ショウミョウ)がセットです。称名とは南無阿弥陀仏と言葉を口にすることです。南無阿弥陀仏というときに、そこに信心があります。信心が無ければ南無阿弥陀仏は口から出ません。自分自身が言葉となって、極悪人のもとへ届けば、必ず助けられると確信した仏さまです。だから、あなたの口から名号が出たということは、そこに信心があったということです。あるとかないとかを自覚で判断できるものではありませんね。南無阿弥陀仏と言ってみれば良いのです。簡単なことです。
 
そこで、「一念喜愛心」というのは、あみだの仏さまのお助けを喜ぶ心のことです。つまり、南無阿弥陀仏とお念仏することですね。極悪人を助けるための言葉ですから、南無阿弥陀仏と受け取ったからには、やっぱり喜びが生まれるだろうと、もし喜びが無くとも、それはあなたが極悪人たる証です。まさしくお助けの目当てということがハッキリしますね。
 
「一念喜愛心」をおこした人は、「不断煩悩得涅槃」、つまり、「煩悩を無くさないままに、仏となる道を歩む」とあります。極悪人を善人に変えようというのがあみだの仏さまの目的ではありません。極悪人を極悪人のままに、そのままに受け止めるのがあみだの仏さまです。「あみださまは鶴に走ってこいとは言わん。亀に飛んで来いとも言わん。そのままに。そのままに。」師匠から聞かせていただいた言葉です。
 
条件を付けないお助けだから、極悪人をお助けできます。あなたが助かります。究極の受容です。そのままに。そのままに。

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