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あるライブ好きがコロナ禍で感じたことの備忘録

私にとってのライブで音楽を聴くこと

私はライブで音楽を聴くのが好きだ。

ライブはいい。音響がしっかりと整えられた空間で音楽に包まれて、脳のメモリが音楽で満たされる感じ。爆音で音楽を聴く非日常感。ずっとイヤホンで何度も繰り返し聴いた大好きな曲が演奏されたときの待ってました感。しかも一部のフレーズがちょっとアレンジされていたときのここだけ感。このすべてがライブの醍醐味だ。

さらに、テレビやスマホの向こうにいるアーティストが同じ空間にいてこの目でご本人をとらえることができるというのもライブの魅力の一つ。なんなら触れたり会話できたりもする現場だってある。普段テレビやスマートフォンの向こうでは完璧な姿しか見せないアーティストがライブでは素の人間的な一面が見えたりすると、ファンとしてはやはり嬉しい。

私にとってライブはオアシス。週5の仕事が途方もなく続く日々という砂漠の中にあるオアシス。この場所があるから健康に生きていける。仕事のストレスで渇いたのどをうるおす休息地が先にあるのを知っているからこそ、どんなに日常が退屈でも、この世界がストレス社会でも、足を止めずに前を向いて進んでいけるのだ。私はライブを観に行く予定がある日をチェックポイントにして、そこを目指して歩く生活をしていた。

ときには毎週末ライブに行った。私が住む東北地方のとある県は全国と銘打つツアーでも華麗にスルーされるからほとんどのライブが遠征だけど、嬉々として車を飛ばし県をまたいでライブに向かう。カーステレオで数時間後に相まみえるアーティストの曲を流し今夜のライブへ向けて精神統一していく。そこに向かう時間も含めて、ライブに行くという体験だった。

新型コロナウイルスで消えたライブの現場と出現した動画配信形式のライブ

2020年、春を迎えようとしていた矢先にライブは消えた。新型コロナウイルスが蔓延し、ウイルスにとって人が密集するライブハウスは格好の餌食だった。数々のアーティストがライブの中止や延期を発表し、私が事前にチケットを購入して楽しみにしていたライブも例にもれず開催は白紙となった。

ライブの予定が私のスケジュールから一つ、また一つと消えて、私は世界から色が何色か失われていくような気がした。現場にしかないあの感動や興奮がないまま、ただ日々が1ヶ月、2ヶ月と無味無臭で過ぎていく。

先の見えない状況の中で、アーティストたちはSNSやオンライン動画配信で音楽を届けるようになった。形を変えることで画面の奥のプレイヤーたちは勝手が違ってやりづらい部分がきっとあっただろうけれど、リスナーとしての自分はいくつかのメリットを感じていた。

まず第一に、チケット代が比較的安いこと。そして地方在住民としては場所によるライブ格差(数にしろ質にしろ)がないのは非常に嬉しい。私にとっては移動に時間もお金も取られずにライブを楽しめるのは本当にありがたい。さらにライブハウスでは前列にいるか後列にいるか、スピーカーに対しての位置取りなんかでも楽しみが変わってくるのに、配信ならそれも一律だ。いい整理番号を確保するために焦ってチケットを買う必要はない。キャパは無限だから、売り切れ必至の人気公演によくあるチケット発売直後の争奪戦もなくなるわけだ。そして若さと体力を失いつつある私にとっては家のソファでお酒を飲みながら優雅に好きなアーティストのライブを楽しめるのはそれはそれで幸せなことだった。

しかしその一方で、オンライン動画配信のライブに物足りなさも感じていた。
当たり前だが家ではよほどの設備がない限りライブハウスのような大きな音が出せない。イヤホンなどの手段もあるけれど、やはり空間が音楽でいっぱいになるあの感覚がどうしてもほしかった。最初のうちは熱心に様々なアーティストのライブ情報を追って動画配信を見ていたが、徐々に私のライブ動画配信への熱量は失われていった。

ライブの新様式の模索、そして東京事変が選んだ手段

世俗のコロナウイルスへの恐れがある程度落ち着いた夏。それでもウイルスは相変わらず蔓延ったままの状況下で、各地の夏フェスは続々と中止を発表。世の中はソーシャルディスタンスなどのウイルスとの戦い方を覚え始め、様々なアーティストが少しずつ動画配信以外の手段も取るようになった。車の中で聴くドライブインフェスやアーティストとファンがアバターとなってライブを繰り広げるオンラインゲーム上でのライブなど今まででは到底実現するとは思わないものばかりで、音楽業界に生きる人達の試行錯誤と努力が見て取れるようだった。

夏から秋に変わる時節、東京事変のライブの映画館上映が全国各地で行われる知らせが入り、私はチケットを即購入した。ちなみに私は東京事変の再生を記念したツアーのチケット争奪戦に参戦したものの、あっけなく抽選漏れとなり歯がゆい思いでこの2020年を過ごそうとしていた一人だ。映画館上映とはいえ彼らの再生をこの身体で観て、聴いて、感じることができるのは予期せぬラッキーであった。
思えばライブを観に出かけること自体がとんでもなく久しい。私が前回最後に訪れたライブは2月の半ば頃。自宅以外でのライブ体験はおよそ7ヶ月ぶりとなる。おあずけ状態の犬のような気持ちの半年余りという期間はだいぶ長く感じた。

東京事変による映画館上映形式のライブで見えてきたもの

そして上映当日。映画館に入るといつもは静けさが漂うロビーが考えられないほどにごった返していた。決して大きいとは言えない映画館なので、ロビーに雑然と人が集まると正直いわゆる「密」を感じるほどだった。シアターが開場して指定の席に座ってしまえば、1席置きに空席の配置となっているのでそこからは安心できたので問題ない。
上映が始まるのを待っている間、隣に座っていた男女二人組が東京事変が活動停止したときの無念や再生の速報を見て感激したこと、そして今始まらんとしているライブ上映へのはやる気持ちを話しているのが聞こえてきた。男性の方は初期からのファンらしい。緊張にも似た興奮がほとばしる語りぶりで1席の空席を挟んでもこちらに感情がひしひしと伝わってきて、私は一人表情をほころばせていた。
ああ、そうだ。これもライブの一部だ、と気づいた。開演前に偶然隣あった見ず知らずの人たちの会話にひっそり耳を傾けること。刻一刻と近づく開演を待ちながら、この人は最近ファンになって初めてこのバンドのライブに来たっぽいとか推測してみたりライブで聴きたい曲を語り合う内容にぼんやり共感したりして過ごすこの時間も含めてライブ体験なのだ。これは家で観る配信ライブの物足りなさの一つだと思った。

そして上映が始まり、一般家庭では到底出せない大きなボリュームで鳴る音楽を半年以上ぶりに体感した。この映画館のスピーカーは音楽鑑賞用のものではないだろうし、素人が聴いても耳が喜ぶ音を提供できているとは言えないものだった。しかし、低音が壁を伝って足に響いてくるこの感じ。これを感じたとき、ライブが持つ生々しさの一端を見つけたような気がした。いくらアーティストが生放送で演奏するのを家で眺めていても見つけられなかった「生(なま)の感覚」は、聴覚や視覚だけじゃない身体全体の受動態で感じる細やかなあらゆる感覚刺激によってもたらされていた。家で観るライブ配信動画では物足りないはずだ、と納得した。目に映るのはスクリーンに投影された1ヶ月以上前に録画された東京事変で、いまここに彼らはいない。でもライブで感じる興奮の一部分がそこにはあった。

さらに、これは個人の人間性の問題もあるかもしれないが、家ではライブ配信を観ている途中にどうしても気が散ってしまうことがしばしばあった。(ライブの内容は申し分ないというのに)やはり90分や120分といった長尺を全力で楽しみきるなら、自分にとって自由度が高い自室よりは、目の前の公演にしか集中せざるをえない場が適切なのだと感じた。

ライブの再構築で期待される可能性

未知のウイルスによってライブの現場が減っていく打開策で、多くのアーティストは「インターネット生配信でライブ動画を提供する」ということにシフトした。これはライブの現場を代替するものとしてとても自然な流れに感じていたが、いちライブフリークとしては物足りなさを感じ、結果的にはこれだけでは代替にならないと思った。
ウイルスとの共存を強いられる状況で、良くも悪くもライブを再構築する契機となったと思う。ライブというものを構成する要素としてどれを残してどれを切り離すか。私の場合は、同期性を切り離しても大きな音を体中で感じるという要素をライブに求めていた。

そして非同期のライブについては勝手ながら少し別の意味でも可能性を感じた部分もある。アーティストがツアーを周るのに人口が少ない地方が抜け落ちてしまうのが否めない中で、もし非同期ならそのような小規模な地方もカバーできるのだとすれば。地方に生まれ落ちた少年少女に一流のライブを体験する機会を与えられるのであれば、非同期だとしてもあるのと無いのとでは大きい差だと思った。まあこれは田舎に住むただの音楽好きの戯言にすぎないけれど。

いよいよ2020年も冬の足音が聞こえてきた。いまだに新型コロナウイルスとの睨み合いは続いている。それでも音楽業界はライブという文化を早く取り戻すために働き続け、最近は少しずつ現場にも人が戻りつつある。いつかは気兼ねなくライブを楽しめる元通りの日々がやって来るのだろう。やっぱりライブの魅力に取り憑かれた者としては、ミュージシャンとファンが対峙して音楽に包まれる物理的空間は最強。これに異論はない。だけど個人的には、ライブの形を暗中模索したこの2020年を無かったことにはしないでほしい。できれば今年生まれた新しいライブ仕様も、音楽が繰り広げる世界を表現するひとつの手段として定着したら嬉しい。それが今までなんらかの問題でライブに行くことを諦めていた人にもより豊かな音楽文化が届くと思うから。会場キャパ以上の需要のある公演で溢れてしまったファンの受け皿となることはもちろん、住む場所や金銭事情、家族関係、身体の問題といった壁を超えてより多くの人がライブを楽しめる世界は、とても素敵だと思う。

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