同人誌は図書室から産まれる
自分が高校を出てから半年が経ち、だんだん学生の記憶も薄れてきた。
忘れないうちに色々書き残しておこう。
……というエッセイ的な記事です。しばらくネタが尽きなければやります。
感染症対策の記憶
コロナ禍真っ只中の学校は目に見えない「へんなもの」で支配されていた。
修学旅行がない、文化祭がない、受験はどうなる。
そういった、重苦しくも実態のない不安と、目に見えない脅威が生徒の間をゆらゆらと行き交っていたように感じる。
関東平野の終端部、辺境のど田舎母校とはいえど、コロナは確実に存在していた。
あまり都市部での集団感染を身近に感じる機会などなかったのだが、世間は大変だからとりあえず対策はしないといけない。
だが、なぜか昼飯だけは別だった。
マスクを外して白飯をかっくらうのが許されていた。
マスク美人もブスも関係なく、コロナも社会的距離もある。
だけど昼飯だけは、コロナ渦以前とまったく変わらぬ様子だった。
正しくいえば、うちの母校だけのようだった。他県の同期に聞くと昼飯時は教室に拘束されていることもあったらしい。
さらに厳密にいえば教師に口うるさく言われなかった、というだけである。
窓は常に開け放つのが条件だったし、クラスに残らず外で飯を食う生徒の方が多かった。
しかし、それも各自の自己判断。
毎日のように世間を賑わせている時も、なぜか母校だけは緩い空気だった。
今思えば、先生方が「せめて息抜きにでも」といった気遣いで見逃してくれていたのだろう。友達との昼飯しか楽しみがなかった僕らには、ありがたいことだった。
ずっと所属していた場所から離れてみると、見えてくるものがあるとはよくいうが、これもまた新たな「気付き」だった。
恩師の心意気を想うたび、胸に熱いものを感じる。
入学と変革、改革の渦。
田舎特有のゆるい空気感に加えて、在学中に校則が変わった母校。
それにはもちろん理由がある。
母校に新鋭気質の校長が赴任したタイミングだったのだ。
この新鋭気質というのは『気合いが入っていた』という意味で、労働環境改革の旗振り役だったのか、新たな制度を学校に持ち込んできた。
ちなみに、この人が本当に厄介だった。(いずれ書きます、たぶん)
そんな校長が在任中、一番最初に取り掛かったのが校則改革。
ジェンダーレス制服の導入や頭髪や服装の緩和化などが行われ、学校生活は一変した。地域住民からはあまり良い目をされていなかった気がするけども……。
その改革の中で一番助かったのは、電子機器類のチェック廃止。
文部科学省の推進するGIGAスクール構想がちょうど始まり、生徒全員にタブレットPCが配布された。厳密には配布ではなく購入だったが。
もちろん、これも校則改革にも影響した。
授業でスマートフォンやPCを使うこともあるため、ゲーム機以外の電子機器を持ち込むことが容認された。
自分の絵描き活動のなかで、この改革はあまりにもデカかった。
当時高校一年生、進学祝いに買ってもらったiPadを学校に持ち込めるようになったのだ。
ただ、これには問題があった。
同期への身バレの危険である。
当時iPadを持ち込んでいた生徒はあまり少なくなかったが、やはり異質。
タブレット持ち込んで何をやっているのかと覗かれることもしばしば。
これが仮に映画鑑賞やゲームなら「ふーん」くらいでいいが、アップルペンシルで何かしらを描いているとなれば興味の度合いも変わる。
「何描いてたの?」と聞かれたこともある。
これが厄介だった。高校生とはいえ艶めかしいイラストを頻繁に描いていたのでみられると性癖がバレる。
別にスケベな絵を描いているわけではないのでいいじゃない、と自分に言い聞かせていたが、やはり後ろめたい気持ちがあった。
人妻だの水着だのと狂ったように描くには、教室はキツすぎる。
登下校の列車内でしかまともに絵を描けない。
当時高校生だった自分が欲しかったのは、学校内で誰もいない場所。
校舎裏は寒いし汚い、それに虫もいる。
できれば空き教室がいいが、先に陣取られたらおしまい。
毎日探し続け、やっと見つけた最適な場所。
それが、広大な図書室だった。
本題
校舎は二つに分かれていて、教室のある「生徒棟」と「実習棟」があった。
生徒棟は職員室と教室、玄関があるが、実習棟は音楽室や美術室といった「選択科目」の時に使う教室のみ。
つまり、授業がない昼休みは使わないのだ。
そんな一階の端に、今回の主役である図書室があった。生徒棟からは遠かった。
母校の図書室はコロナ禍の対策で、なんと飲食が解禁されていた。
昼休みは弁当を持ち込んでよし、と言われたのだから驚きである。
ここで話が繋がる。
つまり、学校改革とコロナ渦のおかげで自分は得をしたのだ。
ありがとう、ソーシャルディスタンス。
ただし、これは読書用スペースに限った話で、蔵書の置かれている方面へ飯を持っていかないのが条件だった。
当たり前である。
ただ、そんな不届な生徒はそもそも図書室に足を運ばない。なんと僕だけだったのである。
時折後輩なり先生なりが本を読みにくるが、それもさっさと教室に帰る。
顔見知りの友人に出会ったことは一度もない。
結局授業前の予鈴が鳴るまで、図書室には僕一人が居座るだけだった。
ずっといるはずの司書はほとんど見かけなかったし、別棟にある図書室まで足を運ぶ生徒もいない。
そこはまさしく、僕だけの広い作業場だった。
昼休みに寄稿イラストを仕上げ、送り出す。
学内WiFiを使ってPCから事務作業をする。
フルカラーイラストの仕上げを終わらせる。
小説のネタ探しで蔵書を読む。
びっくりするほどやりたい放題できたのが今となっては不思議。
これも緩さかなぁ、いや、違う気がする……。
高校二年生の日々は、図書室で本を作り、ちょっとスケベなイラストを描く日々だった。
間違いなく楽しい時間で、落ち着いて絵に向き合える場所だった。
今思い返すと貴重な場所だ。
進学した僕は、学生向けワンルームでエロ絵を描き、ルノワールでスケベ文を綴る。
あぁ、学生時代のフレッシュさよ、帰っておいで……。
そろそろ記事を締めようかと思うが、高校を出てからの話をする。
あの時期、金もなく自信もなかった自分が籠っていた図書室。
ただひたすら好きなものと向かい合い、本に囲まれるのが好きだった幼い頃からの読書趣味。昼休みは僕にとって幸せな時間だった。
その延長線上に、今があるのは間違いない。
高校を出てから多忙でも、まだ本を作っている。
同人誌を作っている時も、学校を出てからも考えたこと。
それは「電子化」の波のことだ。
同人誌にせず、有料サイトでデータとして配布するほうがいい。
そのような考えがだんだん浸透したのも、コロナ禍での即売会中止を受けてからに見える。
テレワークやオンライン授業などが人々の生活を支えたあの時期から、紙である必要性は若者の認識から外れてきたのではないだろうか。
実際に同期を観察しても、紙よりスマホが楽のようだ。
実際、一度だけ紙媒体などの「実体」として残るものに勝るものはない、と力説したことがあった。だけど同期に理解してもらえなかった。
学校からの重要なお知らせや事務連絡も、プリントではなくてPDFの時代。
その方が管理に手間を割かず、探すのも楽だというのは実際頷ける。
しかし、その結果として何があったか、という記憶が大量に存在している。
行き交う情報の整理ができず、抜け落ちる大事な情報。
怠惰のために使われるタブレット、制限しなかった結果の授業妨害。
生徒間のいじめ、格差、阻害につながるネット環境。
スマホ世代と言われる高校生たちに、タブレットはうまく使いこなすことができなかった。
僕だってその一人だ。結局同人誌を作る以外で活用できる授業がなかった。
コロナ禍がなければもう少しマトモにできたのか、それとも「必要不可欠」な対応だったのか。
高校を卒業してからもたまに考える。
今の高校生たちはうまく使いこなせている。これは間違いない。
授業でタブレットを活用する方法も、しっかり根付きつつあるだろう。
ただ、最初の世代だった我々はあまりにも試されすぎた。
他校ではiPadを導入した結果、値上がりに負けて翌年度からタブレットPCに変えたところもある。
電子化、デジタル化は我々に何をもたらしたのだろう。
これはいいことなのか、悪いことなのか。そんなことをたまに考える。
コロナが悪い、で全部片付けるので良いかもしれない。
だけど後味が悪い。そんな気分である。
学生時代が輝いているのは「冷静になって」しまったからなのだろうか?
そう思うたび、今はちょっとだけ寂しい思いである。