見出し画像

センジュ出版のはじまり

昨日はとある大学で30分ほど話をさせていただいた。
実はこの学校で、センジュ出版のある本を広告し、宣伝するというプロジェクトがスタートする。
その関係で少し時間をいただき、私は広告のずっとずっと手前、五感と直感がもたらす物語についてを伝えることに。

この学校で話すのはこれで4度目だったか。
20歳前後の皆さんとご一緒するたび、必ず自分の大学時代を思い出し、
その頃の自分にも聞こえるように講義している気がする。

編集者を目指したのは大学生の頃だ。
卒業してから入った会社はいくつかに渡っているが、これまでずっと編集の仕事を続けてこられたことを思えば本当にありがたいし、
また、この仕事を目指してくれた大学生時代の自分にも感謝したい。

とはいえ、当時の私は期待に胸を膨らませていたわけでも、未来に夢を描いていたわけでもない。
世の中の不条理にクサクサしながら、この世界の中で「弱さ」の部分を引き受けた、また背負わされた人達が見ている景色に触れて回っていた。
どこか冷めた目で見ていた社会。
一方で、どこかに居場所があるはずだと必死に探し求めていた幼い自分。

当時のことを、『しずけさとユーモアを』(エイ出版社刊。現在は版元がEDITERSに移行)で少し書いている。

 文芸学科の卒論で書いた小説は、アダルトチルドレンの若い女性主人公が女性編集者のおばちゃんと一緒に生きる力を取り戻していくという、単純で陳腐な話。担当教官からはその小説を解説した副論文の方を褒められた。
 副論文のテーマもアダルトチルドレンだ。その頃、関連書籍を読み漁り、レターカウンセラーの養成講座に通ったり、心理学系の講演を聞きに遠方まで出かけたり、ボランティア活動にのめり込み児童養護施設や刑期を終え出所された方のうち身寄りのない方が住まう寮などを訪れたりしていた当時の私にとって、この副論文にはかなり力が入った。
 今思うと気持ちが悪いくらいに自分探しに必死だった。家の外に自分の場所があると当時の私は信じていて、ここじゃない、ここじゃないと思いながら、ずっと疲弊していた。
 自分が何者で、どんな形をしているのか、きっちり確かめたかった。はっきりさせたかった。それが大学時代の私だ。

 ここに書かれていた女性編集者のおばちゃんは、間違いなく今の自分だろう。ケラケラと笑って主人公を励まし、主人公の生きづらさを受け入れ、時に一緒に涙し、その上で主人公を未来へと導くおばちゃん。
 22歳の私にとって、このおばちゃんは何歳のイメージだったんだろうか。この時の倍の年齢になった私はおばちゃん編集者だ。そしてたしかに、私の編集にグッと力が入るのは、人生に少しため息をついたことのある著者の原稿であることも、否定できない。まるで未来を暗示していたかのようなこの卒論。
 もしかしたらずっと昔から、私はセンジュ出版を知っていたのかもしれない。


先日ここにも書いた「読書てらこや」で、『時間は存在しない』という本を課題本に選んだ。
ヴェローナ生まれの理論物理学者、カルロ・ロヴェッリが書いた本書は、「物理学的に時間は存在しない」との著者の考察が紐解かれ、その中には以下のような一節がある。

時間はすでに、一つでもなく、方向もなく、事物と切っても切り離せず、「今」もなく、連続でもないものとなったが、この世界が出来事のネットワークであるという事実に揺らぎはない。時間にさまざまな限定がある一方で、単純な事実が一つある。事物は「存在しない」。事物は「起きる」のだ。

センジュ出版という出来事はどこで生まれてどう変化するのか。
あの卒論の中にはもう、センジュ出版が起きていたような気がする。
『時間は存在しない』の上記の抜粋のあとに、以下のような下りがある。

 この世界を出来事、過程の集まりと見ると、世界をよりよく把握し、理解し、記述することが可能になる。これが、相対性理論と両立し得る唯一の方法なのだ。この世界は物ではなく、出来事の集まりなのである。
 物と出来事の違い、それは前者が時間をどこまでも貫くのに対して、後者は継続時間に限りがあるという点にある。物の典型が石だとすると、「明日、あの石はどこにあるんだろう」と考えることができる。いっぽうキスは出来事で、「明日、あのキスはどこにあるんだろう」という問いは無意味である。この世界は石ではなく、キスのネットワークでできている。


この世界がキスのネットワークでできているだなんて、さすがイタリア生まれの著者の表現に洒落てるなぁと苦笑するが、

科学のもう一つの深い根っこ、おそらくそれは詩だ。詩とは目に見える物の向こう側を見通す力のことである

とする著者にとっては、これもまさに科学的なのだろう。
そんな著者が、この世界を次のように記している。

 わたしたちがこの世界を理解する際に用いる基本的な装置は、空間の特定の点に常に据えられているわけではない。かりにそのような計器があったとして、それらはある場所にある時点で存在している。つまり、空間的にも時間的にも限定された「出来事」なのだ。
 実際さらに細かく見ていくと、いかにも「物」らしい対象でも、長く続く「出来事」でしかない。もっとも硬い石は、化学や物理学や鉱物学や地理学や心理学の知見によると、じつは量子場の複雑な振動であり、複数の力の一瞬の相互作用であり、崩れて再び砂に戻るまでのごく短い間に限って形と平衡を保つことができる過程であり、惑星状の元素同士の相互作用の歴史のごく短い一幕であり、新石器時代の人類の痕跡であり、横長のわんぱくギャング団が使う武器であり、時間に関する本に載っている一つの例であり、ある存在論のメタファーなのだ。そしてそれは、わたしたちが知覚している対象より、むしろ知覚しているこちら側の身体構造に依拠したこの世界の細分化の一部であり、現実を構成する宇宙規模の鏡のゲームの複雑な結び目なのである。この世界は石ではなく、束の間の音や海面を進む波でできている。


センジュ出版は何も定まっていない。
音であり、波である。
そしてこの波が、音が、変化を始めたのは、おそらく2015年の創業の日ではない。
恋愛とアルバイトと読書と課題とボランティア活動と自分探しとで日々が彩られていった、
あの大学生の私が、いや、『モモ』を手にした小学校6年生の時の私が、はたまたこの世に生まれる前の私が。いや、誰かが。
センジュ出版というゆらぎを望んだのかもしれない。
この波のもたらす世界が、ますますしずかで、そしてユーモラスであることを願って。


#今日の一冊
#世の中ががらりと変わって見える物理の本
#カルロロヴェッリ
#187 /365

サポート、励みになります!