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モーツァルトへの旅 91 その3 父の記録

父の遺品を整理していたところ、定年後に旅した記録が書斎から出て来ました。1991年と2000年ですから30年以上前の話。モーツァルトやバッハ、絵画が大好きだった父は独学でドイツ語も学び、独りヨーロッパへ旅立ちました。

父の文章、撮り下ろし写真やスケッチ、フリーのイメージ写真等を盛り込み、アナログで残された旅の記録をデジタルデータとして完成させ残してあげたいと思います。

目次
モーツァルトへの旅 父の記録 その3
・ザルツブルグでのコンサート
・ザルツカンマーグートの湖水地帯を行く
・ウィーン市内観光 (都心部)
・シェーンブルン宮殿へ

モーツァルトへの旅 父の記録 その3

その3・・紫  その4・・緑

ザルツブルグでのコンサート

夜のコンサートに備えるため 17:30、ホテルへ帰ってシャワーを済ませてから、急ぎの場合に備えて持ってきた携行食にパンとジュースを添えて夕食とする。

いよいよ、ここではるばる日本から持って来たダークスーツと黒い靴が役立つことになった。予定の時刻にロビーに集合した後、H氏に手配していただいたタクシーに分乗して会場であるモーツァルト・セレナーデンへ行く。

コンサートはVokalensemble La Capplla による無伴奏多声部カノンの演奏である。 曲目は当然ドイツ語で書かれているので内容はただちに判らなかったが、プログラムに示されている作曲者の年代から前半がバロック以前の15~16世紀のものであること、後半はハイドンやモーツァルトの曲があるのでバロック以降のものであることが判る。

演奏者は曲によって4~5名で奏され女性が加わることもあった。トークも混えた演奏であったが、感じたところは、ハーモニィの美しさ、よく透る声質、民族の歴史と文化を遡って音楽の源流に触れたように思われた。

イメージ

ホテルへ帰りシャワー後の23:20(日本時間 06:20) 家へ電話が通じたので 明日の予定などを伝え、母の様子に変わりないことを確かめる。

ザルツカンマーグートの湖水地帯を行く

7月20日 (土) 08:02ハインツさんが運転するバスでホテル・ピッターを出発、ザルツブルグから東のウィーンまで280Kmの行程とのこと、振り返るとザルツブルグの市街地が遠く見下ろされ、間もなく山間部にさしかかる。

朝もやが晴れてくる、緩やかな斜面の緑は雨上がりの日差しにかがやきを増している。 08:25 ザルツカンマーグート湖水地帯、最初のフシュル湖が左手にみえてくる、静かな湖水だ。

ザルツカンマーグート

ほどなく、二つめの湖、 ウォルフガンク湖が近づいてくる、近くの街はサンクト・ギルゲンであることが地図上から読み取れる。この街もモーツァルトゆかりのところで彼の母アンナ・マリア・ベルトルの生地であると同時に、姉ナンネルの住んだところでもある。対岸に家々や教会がみえる。

トラウン湖畔

09:30 トラウン湖畔の町(クムデン?)に到着、30分休憩する。おもいおもいに湖岸の広場で散歩したり休んだりする。3両連結のトロッコ観光バスがエンジンをうならせて一般道路へ出て行く。

10:00 全員バスに戻って発車、まもなくアウトバーン14号線に入る。ウィーンまでの距離は180Kmぐらいとみられる。11:30 サービスエリアにはいって休憩、カイザー・ビール (15AS) を飲む、バスの左前方はドナウ河の河岸段丘のようだ、みわたすかぎりの麦畑がつづく、シューベルトの伝記を描いた映画「未完成交響曲」のなかで彼が麦畑のなかでデイトする場面があったのを思い出す。

13:00 私たちの宿泊先であるホテル・アナナスの前を通ってシュヴァルツェンベルク広場からベルベデーレ宮殿へとすすむ、宮殿脇のプリンツ・オイゲン通りにホテル「ベルヴェデーレ・シュテックル」 があった。

ベルヴェデーレ宮殿

石段を降り中に入ると、さほど広くはないが中庭に面したテラスの下にテーブルが配されており、ここで昼食をとることになった。気温はさほど高くなく庭の緑をわたる風がここちよい。メニューはスープ、前菜、ビーフ、野菜、ケーキとつづく、飲み物は自由にオーダーする。

ウィーン市内観光 (都心部)

14:30 昼食を終え、いよいよウィーン市内観光へと移る。先ずはベルベデーレ宮殿からである。プリンツ・オイゲン通りから入って宮殿 (上宮) 左手から正面へと進む、この宮殿はトルコ軍を破った英雄プリンツ・オイゲン公の夏の離宮で、ルーカス・フォン・ヒルデブラントの作といわれ、壮大でシンメトリーな美しさをもっている。

ベルヴェデーレ宮殿

国立オペラ座、王宮庭園内のモーツァルト像、 美術史博物館をへて王宮へと進む、王宮の城門を入るとオイゲン公像、カール大帝の騎馬像、 新王宮と旧王宮が建ち並び、新王宮の ファサード頂部にハプスブルグ家の紋章である双頭の鷲が輝いている。

ウイーンの街並み

バスはシティ・エァー・ターミナルの方へ抜けるとリンクからもう一つ外へでて緑ゆたかなシュタットパーク沿いを廻る。ベートーヴェン像の前で気勢をあげている人が数人みえた。この後、バスは市街地を走り、いよいよシェーンブルン宮殿へと向った。

シェーンブルン宮殿へ

シェーンブルン宮殿は市街地の南西にあるハプスブルグ家の夏の離宮である。この宮殿の歴史を一瞥すると約400年前、皇帝マクシミリアンII世 (1576年没)から始まったようで、1696年ヨーゼフⅠ世によって夏の離宮に改築され、その後、1743年にいたってフランツI世の跡を継いだ女帝マリア・テレジア(1780年没)が増築を行わせほぼ現在の姿になったといわれる。

シェーンブルン宮殿

あまりにも部屋数が多いため正確な順序などは判らないが、つぎつぎに観たなかからモーツァルトにゆかりのあるものなど思い起こしてみたい。

女帝マリア・テレジアの 「朝食の間」(絹地に花のアップリケをした飾り額がみられる)、マリア・テレジアの子供 (16人も生まれた?)の肖像画で飾られた「バルコニーの部屋」、ルーブル宮殿の「鏡の間」を模したといわれる有名な「鏡の間」は1762年9月6歳のモーツァルトがマリア・テレジアの御前で演奏をしたところであるが、本来は大臣の就任宣誓に使用された部屋といわれる。

もう一つ「儀式用大広間」があってここでは、モーツァルトの時代に皇帝であったヨーゼフII世 (1741〜1790) の結婚記念祝宴画が壁面を飾っている。

ヨーゼフII世は啓蒙専制君主とも言われ、モーツァルトのウィーンにおける活躍を少なからず支援した皇帝でもある。

シェーンブルン宮殿

「マリー・アントワネットの部屋」 は彼女が15歳のころまで住んでいた部屋である。もちろんマリー・アントワネットの肖像画が飾られている。

さらには、バロック絵画が見事な「大ローザ・小ローザの部屋」「中国の小部屋」「うるし塗りの部屋」「ナポレオンの部屋」「磁器の部屋」などがあり、かずかずの調度品のうちには日本から持ち込まれた伊万里や有田焼の花瓶、景徳鎮らしき中国の壺、大形花瓶などもみられた。

見学を終えたときはすでに17:20 になっていた。18:00 ホテル・アナナスへチェックインする。 (夕刻になって、カメラの電池切れに気づく)

ウイーン市内マップ

その4へ続く・・・

ご興味ある方は、詳細をblogでご覧いただければ幸いです。


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