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第1回:ヨーロッパ大戦から世界大戦へ

【第一次世界大戦から第二次世界大戦へ(1914年~1939年)】
第1回:ヨーロッパ大戦から世界大戦へ
第1回:【問い】
1.テーマ:ヨーロッパにおける戦争
・ヨーロッパにおける戦争はどのように始まり、拡大したか?
2.テーマ:東アジアにおける戦争
・東アジアにおける戦争はどのように始まり、拡大したか?
3.テーマ:戦争と植民地・領土問題・第1次世界大戦下でどの国が植民地を獲得し、領土問題が起こったか?

第1回:【問題提起】
1.ヨーロッパにおける戦争はなぜ始まり、拡大したか?
≪問題提起≫
1.ヨーロッパにおける戦争はどのように始まり、拡大したか?
サラエヴォ事件が第1次世界大戦の導火線になったと見るのは単純な結果論であって、別の選択肢も存在した。英仏露は調停外交を進めていたし、オーストリア=ハンガリー自体でも対応は一様ではなかった。だがドイツ政府の「白紙委任状」を得たオーストリア=ハンガリー政府・軍部は、この機会に先制攻撃をかけてセルビアを抑え込もうとした。駐ベオグラード(セルビア王国の首都)公使に訓令が飛び、7月23日夕刻、セルビア政府に最後通牒が手渡された。ところが24時間の期限内に届いたセルビア政府からの電報による回答は、通牒の文章をほとんどそのまま受け入れる内容で、主戦派のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が「戦争の理由は一切なくなった」と拍子抜けしたほどだ。それにも拘らず、28日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに宣戦布告した。8月4日、ドイツはベルギーに軍隊を進め、英仏露もこれに対抗し、戦争が勃発し、4年も続く第1次世界大戦に拡大していった。

2.東アジアにおける戦争はどのように始まり、拡大したか?
第1次世界大戦が勃発した時の日本政府は大隈重信内閣であった。外相の加藤高明は、イギリスが山東半島の膠州湾を根拠地とするドイツ仮装巡洋艦への攻撃の助力を求めてきたのを幸いに参戦を図り、参戦を通じて山東半島のドイツ利権の獲得を手掛かりに、大陸への侵略を強化することを狙ったのである。
第1次世界大戦を機にドイツ軍基地があった山東省膠州湾の青島(チンタオ)を占領し、大陸における利権拡大をめざした日本政府は、中国に対する要求を山東関係4項目、「満蒙」関係7項目など21項目にまとめて提出し、強硬な交渉姿勢によって第5号関係(中国国内の政府関係、病院、警察、鉄道、兵器廠、港湾、日本人の布教権)を除く大部分を受諾させた。1914年12月3日に日本政府が公使に与えた訓令は、第1号―第4号について「東亜ニ於ケル帝国ノ地歩ヲ益々確保シ対局ヲ保全セシメンカ為……絶対ニ必要」とその重要性を強調している。一方、中国では受諾の日である1915年5月9日は「国恥記念日」と呼ばれ、山東の主権回復を目指す抗日民族運動が広がる契機になった。        

3.第1次世界大戦下で英仏ロの連合国側はどの国が植民地を獲得し、領土問題が起こったか?
第1次世界大戦が始まりほぼ1年後の1915年7月から1916年3月までメッカのシャリーフ(預言者ムハンマドの子孫に与えられる称号)であるハーシム家のフサイン国王がイギリス側に立ってオスマン帝国に対して反乱を起こして参戦すれば、その見返りとしてアラブ独立国家建設を約束するという書簡が、シャリーフフサインとイギリスの高等弁務官マクマホンとの間に取り交わされた。イギリスはアラブ独立国家の建設を約束することでイギリス連邦内のムスリムを、アラブ反乱を通じてイギリス側に留めておくことができるという政治的効果を期待した。イギリスはアラブと手を結ぶ一方、バルフォア宣言でユダヤ人ヘの支援を約束するなど二重外交を行っていた。フサイン=マクマホン協定、英仏ロのサイクス=ピコ協定、バルフォア宣言に見られるように、イギリスとフランスが第1次世界大戦下で水面下で行った秘密外交であり、ロシアの革命政府によって暴露された。イギリスのこのような二重外交は現代のイスラエル対パレスチナの対立など中東問題の原因になっている。ヴェルサイユ条約ではドイツに海外の植民地を放棄させ、アルザス・ロレーヌをフランスに返還させ、日本が中国の山東半島ドイツ租借地青島や、太平洋のドイツ領南洋諸島を占領した。

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