見出し画像

第7回:日本の戦後処理と東アジア、パレスチナ分割、ブレトン=ウッズ体制  

【第2次世界大戦後の「冷戦」下における「戦争」の構図】(1950年~1980年)
【第7回】日本の戦後処理と東アジア、パレスチナ分割、ブレトン=ウッズ体制  
第7回 ≪問い≫
1.テーマ:日本の戦後処理と東アジア
・対日講和条約と日米安保条約によって、日本の東アジアにおける位置は、どう変化した
か?
2.テーマ:「第三世界」の連携、パレスチナ分割と中東戦争
・パレスチナ分割、スエズ運河を巡って中東で戦争が起こったのはなぜか?
3.テーマ:ブレトン=ウッズ体制の成立と崩壊
・第2次世界大戦後、どのような事情でブレトン=ウッズ体制が成立し、崩壊したか?

≪問題提起≫
1.対日講和条約と日米安保条約によって、日本の東アジアにおける位置は、どう変化したか?
第2次世界大戦後、米国とソ連は世界の政治経済復興に主要な役割を果たしたが、他方で両国はそれぞれの思惑から世界を二分する冷戦体制を形成していった。東アジアにおいては、中国国共内戦、朝鮮戦争を契機として、米国の日本占領方針は非武装民主化から反共親米陣営の最前線化へと転換した。
サンフランシスコ講和会議では、ソ連は講和条約に調印せず、中華人民共和国・台湾(中華民国)・南北朝鮮は会議に招請されず、戦争で甚大な被害をこうむった東アジア諸国の主権と国境処理は曖昧にされた。これは米軍の沖縄占領と本土駐留継続をもって極東での米国の存在感を示す外交戦略の一環として位置付けられ、今日に至る、中国、台湾、韓国、ロシアとの領土紛争の種を残した。
1960年には安保改定と同時に日米地位協定が締結された。これは条文ごとに「日米合同委員会合意議事録」(合意がない限り非公表)で補足され、占領時の米軍の地位を引き継いだ。こうして米国は日本全土をどこでも基地化することができ、また日本は米軍使用域外の犯罪・事故への一次捜査権を行使できない事態が恒常化することとなった。結局、戦後日本は戦争放棄の憲法をかかげながら、米軍が駐留しかつ米軍が実質的に指揮する自衛隊を持ち、軍事的に威嚇し続ける国家という二面性をもつ存在として東アジアに対することとなった。
      
2.パレスチナ分割、スエズ運河を巡って中東で戦争が起こったのはなぜか?
第2次世界大戦では宗主国間だけでなく、世界の植民地を巻き込んだ全面戦争となり、宗主国の政治的・経済的体制の衰退ともあいまって、植民地の住民の独立志向を決定的にした。その結果、続々と新興国家が出現していったが、これらの国家は、政治的に旧宗主国とは別行動を目指し、旧宗主国の色のつかない独自のグループを作ろうとした。植民地独立勢力の勝利を決定的にしたジュネーブ協定の後、新興国のまとまりの最初の試みとしてアジアアフリカ会議がバンドンで開催され、共通の信条としての10原則が打ち出された。
一方、旧宗主国側はなんとかして植民地の資源を維持しようと各種の策謀をめぐらせた。その一つがパレスチナ分割であり、これによってエネルギー資源の中心地であり、ヨーロッパ・インド・アフリカの結節点でもある中東に戦争が起こった。しかし、この地域でも複雑な民族・宗教の違いを乗り越えて、イラン革命など旧宗主国からの自立とOPECなど新興国連携の流れは止まることがなかった。                   

3.第2次世界大戦後、どのような事情でブレトン=ウッズ体制が成立し、崩壊したか?
第2次大戦による自国の被害およびその後の広範な植民地独立により、英国の経済体制は衰退し、世界におけるポンド支配は終了した。それに代わって自国が戦場にならなかった米国のドルが金に裏付けられた世界の基軸通貨としての地位を固めたのがブレトン・ウッズ協定締結、IMF・IBRDの設立である。本来基軸通貨は世界各国に対して中立であるべきなので、英国は米国案より中立的な「ITO構想」を提案したが押し切られた。これにより確立した国際金融体制をブレトン・ウッズ体制と呼ぶ。
しかし、その後、ベトナム戦争など米国の過剰な世界への軍事介入・自陣営諸国への軍事援助および米ドルを強制的に輸出国に受け入れさせる米国内市場開放の結果、米国自身が経済的にドルを支えきれなくなり、一時的な金ドル交換停止を突然発表せざるを得なくなったのがドル・ショックである。これによりブレトン・ウッズ体制は崩壊した。その後は米英独仏日5大主要国をはじめとする各国協調で国際金融を管理する変動相場制へと移行していった。

写真:朝鮮戦争停戦交渉会場:板門店


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?