シェア
目次 1 第一次上田合戦の戦い 2 第二次上田合戦の戦い 3 景虎感想文 第一次上田合戦の戦い 真田昌幸は徳川家康を裏切って、上杉景勝にしたがった。それに怒った家康は、家臣の鳥居元忠に責めさせた。鳥居軍が約7000に対して、真田軍は2000程度。圧倒的に不利な状況だった。ところが昌幸はおどろくほど強かった。昌幸はわざと負けて、城に誘い込んだ。そこに、上から石や木を落とし、門から鉄砲を打った。大混乱して逃げる鳥居軍が川を渡ろうとしたとき、堤防を壊し、水を一気に流した。そして
1 したがって、裏切って、したがって、裏切って・・・ 2 景虎感想文 1 したがって、裏切って、したがって、裏切って・・・ 真田はせい力が小さかったので、武田信玄にしたがっていた。しかし武田信玄が病死し、昌幸が29歳のとき、長篠の戦いで、2人の兄が亡くなってしまう。そして36歳のときには、武田家が滅亡することになった。昌幸は信長にしたがうしかなかった。その信長が本能寺の変で死んだため、こんどは北条氏にしたがう。だが北条氏は守ってくれなかったので、徳川家康にしたがう。
戦国時代から続くキリスト教一派のイエズス会とバチカン教皇 家康が江戸幕府を作り安定した時代が続いた。これは皆さんと共有できる話だと思います。 その前に戦国時代は何故起こったのか?色々な説があると思いますが 今回はイエズス会から考えてみようと思います。 イエズス会(イエズスかい、ラテン語: Societas Iesu)は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。耶穌会(やそかい)、ジェズイット、ジエスイット(Jesuit)派、教団とも。1534年にイグナチオ・デ・ロヨラ
どうも「ふわすけdo」です。 初の歴史解説なのでぜひ最後までご覧ください 1. はじめに突然ですが皆さんは小田原北条氏を聞いたことがありますか? 鎌倉時代に執権を務めたあの? いいえ違います 小田原北条氏は後北条氏とも呼ばれるの氏族で1世紀以上の間に渡り関東で戦い続けた戦国大名です。 まぁ緊急事態宣言の中で強く生きた戦国大名や武将の姿は皆さんの励みになるのではと思い今回は掘り下げてみることといたします。 2. 小田原北条氏5代の家系 1代 : 北条 早雲 (伊勢 新九郎
どうもふわすけdoです 歴史解説第二弾です 第一弾の記事も一番後ろに貼っておくので是非ご覧ください では最後まで戦国大名の勇姿をお楽しみください。 1. プロローグ戦国時代にて中国地方一帯を宇喜多氏とともに治め中国地方にて覇を唱えた大大名がいることをご存知でしたか?その名も毛利氏 もとは安芸国(広島県西部)一部を治める弱小勢力に過ぎずさまざまな戦いに明け暮れていました。そんな中いかにして毛利氏は中国地方で覇を唱えることができたのか紹介していこうと思います。 2. 毛利氏の
ドラマなどで本能寺の変が描かれるとき、明智光秀は織田信長より年上の、中年~初老の男性として登場することが多い。 しかし、実は光秀の正確な年齢はいまだにはっきりとしていない。 光秀の年齢の根拠はあいまい 世間に最も知られている明智光秀の生年は、享禄元(1528)年で、本能寺の変のときは55歳となる。この説の根拠は、江戸時代の元禄年間(1688~1704)に成立した軍記物『明智軍記』に載っている、光秀の辞世の句である。 逆順無二門 大道徹心源(逆順二門無し 大道心源
(※本稿は、「マンガでわかる 災害の日本史」(池田書店)に寄稿した文章をもとにしています) 歴史の教科書ではほとんど触れられないが、大災害はしばしば歴史の流れを変えている。天下人となって戦国乱世を終わらせた豊臣秀吉は、地震に運命を狂わされた人物だ。 天正地震と秀吉の誤算 天正地震の起きた天正13(1585)年11月、豊臣秀吉は徳川家康との戦いの最中だった(小牧・長久手の戦い)。前年に長久手の戦いで家康に敗れていたが、10万もの大軍を集めて態勢を整え、徳川攻めを計画してい
(※この記事は、「信長と本能寺の変 謎99」(イースト新書Q)に寄稿した記事をもとにしています) 明智光秀といわれれば、ほとんどの人がトップ画像の肖像を思い出すだろう。 色白で髭はなく、目は切れ長。上品な文化人武将といった趣だ。きっと光秀は繊細な人物で、信長の暴虐に耐えきれなくなって謀反を起こしたのだろう…と想像力を働かせたくなる。 ところが、この肖像が本当に光秀のものなのかは疑わしいらしい。 あの肖像画には「名前が入っていない」みんなが「明智光秀像」として親しんでき