(三)明誠社とそれ以前【所詮憶測】

 

 前回、自分の信仰経路を教祖まで繋いでいくと、非常に多くの人が、深谷源次郎を経由することになる、と書きました。

 ご承知の通り、深谷源次郎は、奥六兵衛の教話を聞き入信しています。

 となると、非常に多くの人が、信仰の元一日に、奥六兵衛が関係している、とも言えるでしょう。


 だから何?

 と思われるかも知れませんが、これは、伝道史全体の視点から眺めた時、とても興味深いことです。
 そう思った理由も、追々記していきますが、ひとまず私は、明誠社の講元である奥六兵衛について、また明誠社の歴史について調べることにしました。


  ◆


 ところが、これが難しいのです。


 教内の資料では、いくら探しても、明誠社について詳しく書かれたものはありません。

 皆無です。

 のちに異端となったことも影響していると思いますが、やはり‴敗北者„の歴史は残らないようですね。


 そこで、教内の枠を越えて、明誠社の資料を探しました。異端の資料も集めようと、あらゆる手段を講じて尽力しました。

 しかし、これも上手くいったとは言えません。多少、手に入れたものはありましたが、ちゃんとしたものは、ほとんど見つけられませんでした。


 どうしよう……。


  ◆


 よし、それなら足を使おう。


 当時、河原町大教会の青年として、京都に住んでいた私は、ゆかりの地を調べ、いろいろと探索してみることにしました。

 コロナ禍で、行事がないことがプラスに働き、そんな時間を確保できたのです。

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あばかれざる京都伝道の真相を突き詰める。消えてしまった歴史。隠された歴史を掘り起こす。所詮、私の憶測であるが。いま、私たちが手に取れる資料…

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