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8.時代の変革期①


 

『稿本天理教教祖伝』 p99
 同年九月には、明治元年と改元された。
(第五章 たすけづとめ)


いま、世の中の変化が著しい。

インターネットという新しいテクノロジーの誕生により、資本や情報の流通速度は急激に加速した。


これは単に、皆の片手に小型コンピューターを握らせただけではない。
国家のあり方、お金の価値観、労働の概念など、人間の生活様式から社会の根本構造に至るまで、世界がいま、デザインし直されている。

具体的に、どう変化しているのか。
多岐にわたる為、全貌を書き尽くすことは不可能だが、今回は、国家の役割という視点を糸口に、世の変革を捉えてみたい。


   ◆


国家は、自国民の生活に必要なインフラを整えるため、公共事業を行う役割を担っている。
国民から徴収した税金によって、道路、水道、電気といった社会インフラに投資する事業のことである。

しかし最近では、民間企業がそれを担おうとしている。


インターネットの普及によって、大きくなりすぎたI Tグローバル企業は、提供するサービスが、公共事業の領域まで侵食しはじめているのだ。


たとえば、Googleを例に考えてみよう。


Googleは、ネットさえあれば、誰もが無料で世界中の情報にアクセスすることを可能にした。


それまでは、これに近しい役割は図書館が担っていた。
図書館という公共インフラは、その設立や維持にかかる費用を、ユーザーである市民の税金によって成り立たせている。

一方Googleは、その運営費用をユーザーに負担させている訳ではない。すべて広告主からの広告費で賄われているのだ。

つまりGoogleは、税金を集めることなく、行政に依存することなく、情報インフラをユーザーに提供することを可能にしたのである。

これは、国家の役割の一部を、民間企業が担おうとしている
ほんの一事例である。



   ◆


国家が持つ権力の中でもっとも重要なのは、通貨発行権であろう。

私たちが日頃使っている日本銀行券は、国によって「法定通貨」として定められている。


だからこそ国家は、中央銀行を通じて、通貨が市場に出回る量をコントロールできるのだが、もし、この権限がなければ、
国家の持つ経済への直接的影響力は、急激に下がってしまうだろう。


それだけに、ビットコインの登場は大きな衝撃であった。

ビットコインは、単に通貨の媒体が、紙からデータ上へ変化しただけではない。

最も特徴的な点は、通貨発行者がいなくても機能するという点である。


本来、通貨には発行者が必要で、通常はこれを中央銀行が担っていた。


ところがビットコインは、ブロックチェーンと呼ばれるテクノロジーを使った暗号通貨なので、ネットワークすべてに取引履歴が記憶される仕組みになっている。



そのため、通貨発行者がいなくても、記録によって、通貨がどこからどこへ移動したかの把握を可能にし、結果として、中央に管理者がいなくても成立する仕組みができたのだ。



   ◆


すると、どうなるだろうか。

国家の徴税権は弱まり、政府の税収が減少することが考えられる。
通貨発行権を失うということは、徴税権を失うことに近い。

したがって、国家はあらゆる権力の源泉を失うことになってしまうかもしれないのだ。

「税金を集めなくったって、大手のI T企業が、公共事業を行ってくれるではないか」

というように。

現在、ビットコインは、さまざまな規制や懸念から、まだ大きなシェアを獲得している訳ではないが、私たちの生活では、すでに似たような事態は起こりはじめている。

TポイントやICOCA、PayPayなどの電子マネーがそれである。

これらは、ただ便利な機能というだけではなく、従来の世界経済の土台を揺るがしかねないものなのである。


   ◆


さて、ここで申したいことは、国家の弱体化予想ではない。


インターネットが与える影響は、社会の表層から、その核心部分まで届きつつあるということである。

どうやら「ネットが社会システムをつくりかえる」とは、絵空事ではなさそうだ。

情報技術の進展は、単にネットワークを広げただけでなく、社会システムの根本から世界を作り直している。


私たちは今、その大変革真っ只中を生きているということなのだ。

しかも、これらはまだ始まったばかり。
社会変化のスピードは、今後もっと加速していくことだろう。


   ◆


ところで、こうしたテクノロジーの発展は、良いことなのだろうか、それとも良くないことなのだろうか。

もちろん、私には判断できない。

ただ、ようぼくとして、一つ深刻な疑問が浮かび上がってくるのである。

新しい常識の世界も、教祖のひながたは、ひながたとなりうるのか、という疑問である。

「何を言っているんだ。教祖のひながたは、どんなに時代が変わっても、その本質は、永遠にひながたに違いない」

と軽くあしらわれるかもしれない。

ごもっともな意見であり、私もそう信じている。

しかし、こうした正論は、口で言うのは簡単だが、具体的にどう辿らせて貰えば良いのかとなると、誠に難しい問題である。


新しい生活スタイルは、常識の大前提から大きく異なる。


たすけ一条の道を辿る者として、どう手本とさせて貰えば良いのか。

そもそも今後も、お手本となりうるのかという一見タブーな疑問は、いま、真剣に向き合わなければならない問いではなかろうか。


   ◆


そんなことを考えながら、教祖伝を読んでいると、上の一文が目にとまった。

そして、思案を巡らせていると、また一つ、尊き親心に気づかせて頂いたのである。

なるほど、教祖のひながたは、どんな時代にも通用する尊きひながただ。むしろ、変革時代の今だからこそ、教祖のひながたが、進む道を明るく照らして下さるのではないか・・・

と、確信したのだ。
 

なぜ、そう思ったのか。

続きは次号でお付き合い願いたい。

R183.12.1

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