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ニーファイ第二書31-33章:「キリストの教義」―すべての瞬間にイエス様に登場していただく〔質問に答える〕

この1週間、ニーファイの記録の最後の部分に焦点を当てて学んできました。ニーファイと言えば、その記録の冒頭に次のような印象深い言葉から書き始めています。


……わたしはこれまでの人生で多くの苦難に遭ってきたが、生まれてこのかた主の厚い恵みを受け、まことに神の慈しみと奥義を深く知った。……

しかし見よ、主の深い憐みは、信仰があるために主から選ばれたすべての者のうえにおよび、この人たちを強くして自らを解放する力さえ与えることを、わたしニーファイはあなたがたに示そう。

モルモン書ニーファイ第一書1章1,20節

ニーファイは冒頭からずっと一貫してイエス・キリストから受ける愛、慈しみ、深い憐みを通して人が生活の中で受けられる力、喜び、救いに焦点を当ててきました。彼は自分が記録を書き記す目的をたびたび確認しています。

わたしが一心に志すのは、人々がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神のもとに来て救われるように、説き勧めることである。

したがってわたしは、俗世の人々にとって喜ばしいことを書き記さないで、神にとって喜ばしいことや、俗世のものでない人々にとって喜ばしいことを書き記す。

モルモン書ニーファイ第一書6章4-5節

ニーファイが記録の最後に書き残そうとした「キリストの教義」とは、まさに彼が歩んできた人生の中で学んできた「キリストの力と救いを受けるための生き方」の集大成となる教えでした。
今日は、前回の記事から引き続き、このニーファイの教えを深く自分の心に染み込ませるよう学んだプロセスを紹介していきたいと思います。前回の記事を読んでいない人は、こちらからご覧ください。

ニーファイは、イエス・キリストの力を受けるための生き方、最終的には救いと永遠に命に至る生き方として「キリストの教義」と彼が呼んだ教えを書き記していますが、その一つ一つの要素を考えるにあたり、わたしは以下の質問をガイドに学んでいくことにしました。


  • 「キリストの教義」のそれぞれの要素あるいはステップは、何を意味しているのだろう?

  • ニーファイ自身は、どのようにこの教えを生きてきただろう?

  • わたし自身は、どのようにこの教えを生きてきただろう?もっとこの教えに改心するなら、わたしの生き方をどのように変えたいと思うだろう?


「キリストの教義」の各要素を自分なりに掘り下げ、調べ、学んでいきましたが、この記事ではそのすべてのプロセスを紹介することはできませんので、ニーファイが記した最初の要素である、「キリストを信じる信仰:人を救う力を備えておられるキリストの功徳にひたすら頼る」について学んだプロセス(の一部)を例として取り上げてみます。

彼は、この「イエス・キリストを確固として信じる」という態度がなければ永遠の命に至る道に入る最初の門までも進んで来ることさえできなかっただろうと言っています。

あなたがたがこの細くて狭い道に入ったならば、それですべて終わりであろうか。見よ、わたしはそうではないと言う。もしキリストを信じる確固とした信仰をもってキリストの言葉に従い、人を救う力を備えておられるこの御方の功徳にひたすら頼らなかったならば、あなたがたは、ここまで進んで来ることさえできなかったからである。

モルモン書ニーファイ第二書31章19節

ニーファイにとって、「キリストを信じる確固とした信仰」とは最も基本的な態度だったようです。この「キリストを信じる信仰」とは何かを調べてみましょう。

例えば聖句ガイドの「信仰」の項では次のように定義されています。

あるものに信頼を寄せること。聖典に何度も言われているように,信仰とはイエス・キリストに対する確信と信頼であり,その確信と信頼があれば,人はイエス・キリストに従うようになる。人を救いに導く信仰は,イエス・キリストを中心としたものでなければならない。また末日聖徒は,父なる神,聖霊,神権の力,また回復された福音のその他の重要な事柄に対しても信仰を持っている

聖句ガイド「信仰」

「トピックと質問」の「イエス・キリストを信じる信仰」の項には次のようにあります。

イエス・キリストを信じる信仰を持つということは,イエス・キリストを完全に頼ること,つまり,その無限の力,英知,愛に信頼を置くことを意味します。それにはイエス・キリストの教えを信じることも含まれます。また自分にはすべてのことが理解できなくても,イエス・キリストは理解されていると信じることを意味します。イエス・キリストはわたしたちの痛み,悲しみ,弱さをすべて経験しておられ,わたしたちが日々の困難な状況を乗り越えるのを,どのように助ければよいのかも御存じです(アルマ7:11-12教義と聖約122:8参照)。イエス・キリストは「すでに世に勝って」いて(ヨハネ16:33) ,あなたが永遠の命を得られるように道を準備しておられます。

トピックと質問「イエス・キリストを信じる信仰―概要」

聖典の中でも、多くの預言者たちが信仰という言葉を簡潔に定義しています。例えば、新約聖書の中で信仰を定義づける次のような一節があります。

信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

新約聖書へブル人への手紙11章1節

モルモン書の中で信仰という言葉を定義している次の聖句も思い浮かびます。

さて、信仰についてわたしがすでに語ったように、信仰とは物事を完全に知ることではない。したがって、もし信仰があれば、あなたがたはまだ見ていない真実のことを待ち望むのである。

モルモン書アルマ書32章21節

エテル書には次のようにあります。

信仰とは、待ち望んでいながらまだ見ていないものであることを、世の人々に示したい。あなたがたは、自分が見ていないからということで疑ってはならない。信仰が試されてからでなければ、証しは得られないからである。

モルモン書エテル書12章6節

これらの聖句が「信仰」について共通して教えていることは、それがまだその目で見ていないことを望み信じることだということです。神様もイエス様も目に見える存在ではありません。わたしたちの生きる世界には、目に見えることがすべてであるかのようにふるまい生きる人がいますし、わたしたち自身もそのような目に見えないことを信じることは、何か不確かなこと、あやふやなことであるかのように感じ、目に見えるものを頼りに生きようとすることがあります。しかし、目に見えないものを信じることには確かな力があります。

ジョセフ・スミスは信仰とはなんであるのか、次のような言葉で説明したことがありました。

"Faith is not only the principle of action, but of power also, in all intelligent beings, whether in heaven or on earth."

Lectures on Faith, 3

この言葉を私訳するなら、「信仰とは行動の原則であるだけでなく、天地のすべての知性ある存在にとって、力の原則です」となります。まだ見ていないものを信じようとすることは、まだ実現していないことが確かであると確認する行動へとわたしたちを駆り立てる源になります。また、多くの場面で信じていることは行動によって表されることになります。

わたしはイエス・キリストを信じる信仰を持つのでその教えやイエス・キリストの模範に倣って生きようとするのですが、しかし、それは単にイエス・キリストの教えやその生き方が道徳的に正しく、満足感をもたらすものだと信じているからではありません。イエス・キリストには人を救う力があり、イエス・キリストが実際に人を救いたいと願っておられ、そのために十分な愛をお持ちであると信じているからです。そのようにイエス・キリストを信じるようになると、わたしたちの信仰はジョセフ・スミスが教えたように、行動を促す原則以上に天の力をもたらす原則となります。

ニーファイはこの行動の原則であり力の原則でもあるイエス・キリストへの信仰をどのように表してだろうかと振り返ってみます。

  • ニーファイはイエス・キリストを信じる信仰を持っていたので、自分自身で何が正しいことなのかを知りたいと望んだときに、自分自身で主に尋ね求め(行動)、実際に主の訪れを受けて祈りの答えを受けました(力)。(1ニーファイ2:16、11:1など参照)

  • ニーファイはイエス・キリストを信じる信仰を持っていたので、自分の力や知恵では実現不可能と思えるような課題に直面したときにも、主の命令に従い(行動)、彼は成し遂げました(力)。(1ニーファイ3-4章、17:7-14・18:1-4など参照)

  • ニーファイはイエス・キリストを信じる信仰を持っていたので、不公平に思えるような困難に直面し命の危機に瀕したときでさえ、それを乗り越えるためにできる限りのことをし(行動)、実際に乗り越えました(力)。(1ニーファイ7:16-18、16:16-32など参照)

  • ニーファイはイエス・キリストを信じる信仰を持っていたので、自分の弱さや罪を実感して打ちひしがれたときにも、主の前にへりくだって赦しを求め(行動)、天からの赦しと清め、力を受けました(力)。(2ニーファイ4:17-35など参照)

わたしもわたしの人生を振り返ってみると、様々な場面でイエス・キリストを自分の救い主だと信じる信仰によって、信仰があるからこそ起こすだろう行動に導かれ、それにより、自分の力では到底成し遂げられるとは思えないようなことを達成する力を受けてきました。

しかし、ニーファイが「イエス・キリストを信じる【確固とした】信仰」という言葉で示唆しているように、信仰、つまりイエス様への信頼の度合いは決して一定ではありません。信仰が強くなることもあれば、弱くなることもあります。

今回の学習で「信仰」についてより理解しようと調べたときに改めて読み直した説教に、ニール・L・アンダーセン長老の「信仰は偶然ではなく、選びによって与えられる」に次のようにありました。

主イエス・キリストを信じる信仰は、空中に漫然と漂う軽いものではありません。信仰は偶然に舞い降りてくるものでも、生得権として備わる者でもありません。それは、聖文になるように「まだ見ていない事実を確認すること」なのです。……
イエス・キリストを信じる信仰は、天からの賜物であり、わたしたちが信じることを選び、それを求め、それにしっかりとつかまるときに与えられます。皆さんの信仰は強くなっているか、弱くなっているかのどちらかです。……
将来どれほどの信仰を抱くかは、偶然ではなく、選びによるのです。

「信仰は偶然ではなく、選びによって与えられる」2015年10月総大会

わたしも、信仰がふわふわしたよりどころのないような頼りないもののように感じていたことがありました。しかし、もし自分に今よりももっと信仰があれば行うであろうことを実際に行うことを選ぶことで、そのたびにわたしの信仰は少しづつ育まれてきました。

ニーファイは、その最後の教えの中で、イエス・キリストを信じる信仰が「確固としたもの」となるまで一貫してイエス・キリストを信じることを選び、その信仰が強まるような選択をするような生き方をすることが、救いと永遠の命に至る人生につながると教えているのだと感じました。

自分の信仰を強めることについてさらに具体的な勧めをラッセル・M・ネルソン大管長がお話されています。今回の学習の中でわたしも改めて学び直した説教のひとつですので、こちらに紹介しておきます。

「キリストの教義」は信仰という第一歩からはじまり、次のような要素が含まれていることをニーファイは教えています。


  1. キリストを信じる信仰:人を救う力を備えておられるキリストの功徳にひたすら頼る(2ニーファイ31:19)

  2. 悔い改めとバプテスマ:永遠の命に至る道に入るための門をくぐる(2ニーファイ31:4-13,17-18)

  3. 聖霊を受ける:罪の赦しが与えられる(2ニーファイ31:12-14,17-18)

  4. 最後まで堪え忍ぶ:キリストにあって確固として前進する(2ニーファイ31:14-16,19-20)

  5. 聖霊の勧めに従う:永遠の命に至るまで「なすべきことをすべて示す」聖霊の役割(2ニーファイ32:1-5)


信仰と同じように、残りの要素についても理解が深められ、自分の心にもっと深く感じられるように調べ、学んでいきました。そのすべてをここでは紹介しませんが、学ぶ中で一つのことに気づきました。

31-33章の中でイエス・キリストを表す呼び名や称号がとても頻繁に使われていたのです。

例えば次のような称号です。

  • 神の小羊(2ニーファイ31:4-10など)

  • 御子(2ニーファイ31:12など)

  • キリスト(2ニーファイ31:13、32:9など)

  • 救い主(2ニーファイ31:13など)

  • イスラエルの聖者(2ニーファイ31:13など)

  • 贖い主(2ニーファイ31:17など)

  • 主なる神(2ニーファイ33:4など)

  • イエス(2ニーファイ33:6など)

これらの呼び名や称号が31-33章の中で何度使われているかを数えてみると、全45節に対して50回以上も繰り返されていることがわかりました。単純に1節につき1回以上です。人が「永遠の命に至る道」を教えているニーファイの記録に何度も繰り返しイエス様が登場することは、わたしにとってとても象徴的に感じられました。そして、次のような質問が心の中に浮かんできました。


  • わたしの日々の生活の中には、どれくらいイエス様が登場しているだろうか?わたしの一日、一週間、一年、その人生の中で、わたしはどれくらいイエス様に登場していただいているだろうか?


例えば、更にこのように自問してみました。

  • 平凡に見える今日というわたしの一日に、イエス様に登場していただく余地をわたしはもっていただろうか?

  • 困難に直面したとき、何か特別な困難や試練の時に限らずちょっと疲れたな、何かイライラするな、心の余裕がなくなって来たな、なんて時に、イエス様が登場する余地があるだろうか?

  • 物事が順調な時や、努力が報われたと感じるとき、毎日のささやかな幸せを感じるときに、イエス様が登場する余地があるだろうか?

  • 失敗してしまったり、誰かと比べて劣等感を感じたり、繰り返される自分の罪や性癖に気づくとき、イエス様が登場する余地があるだろうか?

  • 人間関係の課題を感じたり、誰かを赦せない気持ちや誰かをさばきたくなる気持ちに囚われている時、陰口や噂話をして誰かの尊厳を傷つけてしまうような誘惑にかられるとき、イエス様が登場する余地があるだろうか?

  • もっといい人になりたい、成長したい、学びたい、次のステップに進みたいという前向きな動機づけを感じるとき、イエス様が登場する余地があるだろうか?

  • 恥ずかしい気持ちを感じたり、もうあきらめて投げ出したくなる衝動を感じるとき、イエス様が登場する余地があるだろうか?

  • 困っている人や誰かの助けを必要としている人、悲しみに打ちひしがれている人、愛に受けている人が目の前を通り過ぎるとき、イエス様が登場する余地があるだろうか?

このように自問するときに、わたしの考えや思い、心、行動や選びの動機、人生のあらゆる場面にイエス様に登場していただく余地がたくさんあることに気づきました。次の聖句が思いに浮かんできました。

あらゆる思いの中でわたしを仰ぎ見なさい。疑ってはならない、恐れてはならない。
わたしのわきを突き刺した傷跡と、わたしの手と足にある釘の跡を見なさい。忠実であり、わたしの戒めを守りなさい。そうすれば、あなたがたは天の王国を受け継ぐであろう。アーメン。

教義と聖約6章36-37節

主がヤコブに夢の中で確認された約束の通り、イエス様はわたしたちの人生のすべての瞬間をわたしたちと共に歩めるように望んでおられて、わたしたちが主に登場していただくことを選びさえすれば、常に共にいてくださる、と心に強く感じられました。

わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語ったことを行うであろう。

旧約聖書創世記28章15節

ニーファイの教えた「キリストの教義」はまさしく、わたしの人生のすべての瞬間にイエス様に共にいていただけるようにする生き方であり、その自然な到達点が「永遠の命」なのだと理解できました。

「キリストの教義」の各要素については、まだまだ紹介したい学びもありましたが、今日はここまでにしておきます。

引き続き、皆さんの聖文研究がより良いものとなり、あなたの救い主イエス様を新たに見出す経験となりますように。

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