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エノス書1章:主の御霊は思いと心に働く〔質問を尋ねる〕

この記事は先週のわたし自身の個人の聖文研究、特にエノス書を通して学んだプロセスの一部を紹介するつもりです。末日聖徒イエス・キリスト教会は1年を通して個人や家族の聖文研究をサポートするために「わたしに従って来なさい」を提供しています。先週の「わたしに従って来なさい」の読書範囲は「エノス書」、「ジェロム書」、「オムナイ書」、「モルモンの言葉」です。

エノス書は1章のみの短い記録ですが、この書の著者であるエノスの長い人生をギュウ~っと凝縮してまとめた記録です。今回の学習ではエノス書が、彼が歩んできた人生と、特に彼がその人生の中でどのような「変化」を経験してきたのかの記録として迫ってくるものがありました。自分に当てはめることのできる非常に重要な学びを得ることのできた学習経験でした。

まず注目したのは、エノス書の冒頭で記録されている彼と、章末に記されている彼とでは全く別人のようになっていることです。一部を引用してみます。まずは冒頭から想像されるエノスです。

ヒントになるのは、1-3節です。

さて見よ、わたしエノスは、父が正しい人であったことを知っている。父はわたしを父の言葉で、また主の薫陶と訓戒によって教えてくれたからである。神の御名がほめたたえられるように。

わたしは、罪の赦しを受けるに先立って神の前で味わった苦闘について、あなたがたに述べよう。

見よ、わたしは森で獣を狩ろうとして出かけた。かつてわたしは、父が永遠の命と聖徒たちの喜びについて語るのを度々聞いていたのだが、その父の言葉が、その時になってわたしの心に深く染み込んできた。

モルモン書エノス書1章1-3節

この聖句からわかること、想像できることは、

  • エノスのお父さん(ヤコブ)は、これを記録している時点のエノスにとっては「正しい人」で、イエス様のことをよく教えてくれていた。

  • エノスは人生のある時点で、自分の「罪」を認識し、悔い改めた。

  • 父が語ってくれた言葉は、その時点でエノスの「心に深くしみ込んできた」

  • 恐らく、この悔い改めの苦闘を経験する前のエノスにとって父が教えていたイエス様やその教えは、自分のために重要なものだとは感じられていなかった。

彼がどのような罪を犯していたのか、彼が普段どのように家族やほかの人々、神様に対して振舞っていたのか、どのような価値観をもって生活していたのかなどは詳しく書かれていませんのでわかりません。しかし、少なくともわたしがこれら冒頭の数節から受ける彼の印象は、彼の父ヤコブや伯父ニーファイのように若い時からイエス様への信仰を人生の指針とした生き方をしていたわけではなさそうだ、ということです。

そのようなイメージをエノスに対して描きながら、記録の終わりのエノスの言葉を読むと、これが本当に同じ人なのかと驚きます。

わたしは、自分のやがて墓に入らなければならないことを知った。わたしはこの民に教えを説き、預言しなければならないこと、またキリストにある真理に従って御言葉を告げ知らせなければならないことを、神の力によって感じてきた。それでわたしは、生涯それを宣べ伝え、俗世のことよりもそれを喜びとしてきた。

わたしは間もなく安息の場所へ行く。それは、贖い主のもとでの安息である。わたしは、贖い主によって安息を得ることを知っているからである。わたしは自分の死すべき体が不死のものを着て、贖い主の前に立つ日のあることに喜びを感じる。そのとき、わたしは喜んで贖い主の顔を拝するであろう。そして、贖い主はわたしに、「祝福された者よ、わたしのもとに来なさい。わたしの父の住まいには、あなたのために用意された場所がある」と言われるであろう。アーメン

モルモン書エノス書1章26-27節

これらの聖句から想像されるエノスは、

  • イエス様にかかわること、イエス様や神様、他の人のために働くことを何よりも大切なものだと感じていた。

  • 一時的な満足感を与えるものやはかないもの、目に見えるもの、つまり「俗世のこと」ではなく、永遠に続くもの、今は目に見えないけれどももっと確かなものが彼の「喜び」だった。

  • その価値観は彼の人生の最後、自分の死期が迫っていると悟るその時であっても、一貫して日々の行動の指針となっていた。

  • 彼の信仰と霊的な知識により、彼にとって死は恐ろしいものではなかった。死の直前であっても、彼は希望と喜びに満たされていた。

このように比較することで、わたしの関心は「変わること」に向かっていきました。自然と次の質問が浮かんできます。


  • 何がこれほどまでに彼を変えたのだろう?

  • 人の本質や人格までも変える影響力とはどのようなものだろう?

  • このような人の心の変化はどのように起こるのだろう?


そこで、「変化・変わる」ということに焦点を当てて調べることにしました。この時点でエノス書は一通り読んでいますが、質問の答えのヒントになるかもしれない、他の聖句を探し始めました。このようなときにすぐに参照するのは聖句ガイドです。

わたしが焦点を当てたテーマに関連していそうなキーワードを探すようにします。例えば今回は「再び生まれる」「改宗」「心」、更に英語のキーワードでも検索します。例えば"change"や"alter"、"coversion"などです。調べる中で、非常に印象深く感じられたいくつかの聖句を紹介します。

わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。

旧約聖書エゼキエル書36章26節

生まれながらの人は神の敵であり、アダムの堕落以来そうであって、今後もそうである。また人は、聖なる御霊の勧めに従い、主なるキリストの贖罪により、生まれながらの人を捨てて聖徒となり、子供のように従順で、柔和で、謙遜で、忍耐強く、愛にあふれた者となり、子供が父に従うように、主がその人に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従わないかぎり、とこしえにいつまでも神の敵となるであろう。

モルモン書モーサヤ書3章19節

すると民は皆、声を合わせて叫んだ。「そのとおり、わたしたちは、王がわたしたちに語ってくださった言葉をすべて信じています。また、全能の主の御霊のおかげで、わたしたちは王の言葉が確かに真実であることを知っています。御霊は、わたしたちが悪を行う性癖をもう二度と持つことなく、絶えず善を行う望みを持つように、わたしたちの中に、すなわちわたしたちの心の中に大きな変化を生じさせてくださいました。

モルモン書モーサヤ書5章2節

人の「変化」、エノスが経験したような「俗世のものよりも」もっと善いものを求めるようになる心の変化について教えているこれらの聖句には非常に興味深い共通点があることに気づきました。

それは、どの聖句も「主の御霊」あるいは「聖霊」の働きが心に変化を起こすために重要で不可欠な要素であるということを教えているということです。主の御霊はわたしたちの思いと心に働きかける影響力をもたらすものです(教義と聖約8:2)。聖文の中に記されている「大きな心の変化」を経験した人に関するほとんどすべての物語や記録の中で、彼らの思いや心に働きかける御霊の影響を示唆している記述を見つけることができます。

ここまで調べたところで、わたしは改めてエノス書の中に、エノスの思いや心に御霊が働きかけたであろうことを示す記述を探して印を付けてみようと思いました。次のような質問がわたしのガイドとなってくれました。


  • エノスの変化のプロセスにおいて、「主の御霊」はどのように彼の思いと心に働きかけたのだろう?

  • 思いと心に受けた働きについてのエノスの記述、彼が選んだ言葉は、いったいどのような状況をあらわしているのだろう?

  • このような「主の御霊」の影響は、わたしのこれまでの人生や毎日の日常にも現わされただろうか?

  • どうすれば、これらの「主の御霊」の影響を受けられる、あるいは気付けるだろうか?


今日の記事はここまでです。次回の記事ではこれらの質問から「主の御霊」の働きについてさらに調べ、自分に当てはめ、深められた理解や思いに導かれたプロセスを紹介します。
今日この時でさえ、イエス様がわたしたちの思いと心に語り掛け、働きかけてくださり、わたしたちを癒し導き助けようとしてくださっていることにもっと気付くことができますように。

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