ニーファイ第二書4章35節:神は求める者に惜しみなく与える〔質問を尋ねる〕
今週は、父親リーハイの最後の言葉の続き、リーハイの死とそれに続き家族の中に起こった出来事が含まれているニーファイ第二書3-5章です。
このnoteの記事では、わたしの個人の聖文研究の一部を抜き出して紹介しています。聖文を学んでいると、気になること、心に引っかかるテーマ、深く考えてみたいと思うこと、自分に置き換えたり自分の生活でも実践したいと思わせる学びが本当にたくさんあります。モルモン書をはじめ、聖文はたくさんの喜びや感動、気づき、反省、決意を与えてくれます。
モルモン書や聖書などに少しでも興味を持った方は実際に手に取ってそれを経験して、味わって見てください。
さて、今週もニーファイ第二書3-5章のたくさんの現在進行形の学びの中から一つを取り上げて学びのプロセスを紹介してみたいと思います。
3-5章の出来事の要約:家庭内の分断と対立
リーハイの一家には本当にいろいろなタイプの人たちがいました。出来事や経験に対する反応もそれぞれです。しかし、それらのそれぞれ異なるキャラクターをもつ家族すべてにとって父親リーハイは大切な精神的な支柱となって、この困難に満ちた旅をささえてきていました。
反抗的なレーマンやレムエルでさえ、不平不満を(時に非常に激しい方法で)表しながらも父親への最低限の敬意と従順さは持ち、何とか最後の一線は越えずに踏み止まっていたように思われます。
この大黒柱であったリーハイの死後、ニーファイにとってもレーマンやレムエルにとってもこれまでの旅の中では表さなかったような一面、反応が記されています。
父親の死後、反抗的で価値観の異なる、しかし愛する兄たちとの対立が再び強まったとき、これまでのニーファイからはイメージできないような弱音を吐き、葛藤している姿が見られます。もちろんその後にニーファイらしい信仰によってそれらの弱音や葛藤を乗り越えていくわけですが。(2ニーファイ4:17-35)
レーマンやレムエルは相変わらず反抗的で、神様の導きとして与えられている弟ニーファイの言葉や勧告を受け入れようとしませんでした。しかし、父リーハイの不在により彼らの怒りや不満のタガが外れてしまったようです。とうとう、ニーファイはじめ神様に忠実に義しく生きようとしている家族と、レーマンとレムエルを筆頭に我が思うままに生きたいと望むため多くの場面で神様の教えには相容れない家族とは、決定的に決別することになります。
ここから、ニーファイ人とレーマン人の長きにわたる対立と分断の歴史が始まります。
神は求める者には惜しみなく与えられる?道理に外れた求め方?
このような場面でニーファイが思い起こした真理がわたしの心に引っかかりました。ニーファイの次の言葉です。
最近、ある友人から次のように尋ねられました。
「祈りが答えられないと感じたことはある?」
この質問はわたしに祈りと神様からの答えについて深く自問を促す質問でした。読者の皆さんにとってはどうでしょうか?あなたはこの質問にどのように答えますか?
聖文を読めば神様とイエス様はわたしたちの祈りに答えを与えてくださるという約束を繰り返ししてくださっていることがわかります。しかし、現実生活を振り返ると「何年も何十年も答えられていない祈りがある」と感じている人もいるかもしれません。
祈ることの大切さや、祈りなさいと教えている聖句、祈りが答えられるという確固たる約束があることを示す聖句はわたしたちに希望を与え、信じようとする望みを奮い立たせてくれます。しかし、この2ニーファイ4:35は「どのように祈るのかということについてもっと深く考えなさい」と促してくれているように感じられました。
この聖句は祈りと神様からの答えについて、とても大切なことをわたしに教えてくれるという予感を感じました。
質問することから始めてみましょう
この聖句に足を止めて、まず浮かんできた質問は次のようなものでした。
祈りが答えられないと感じたことはあるだろうか?
人が時々、祈りが答えられていないと感じるのはなぜだろうか?どのようなときに祈りは答えられていないと感じるのだろうか?
それらの祈りは本当に応えられていないのだろうか?
祈りの「道理」とは何だろうか?正しい祈り方、正しい求め方とは何だろうか?
今回のように聖文には、「大切な真理を教えてくれる予感」を感じさせる表現や一文というものがあります。どのような言葉や文章に心の引っ掛かりを感じるかは人それぞれ、時によっても様々だと思いますが、そのような言葉や文章に出会ったときには読み進めることよりも立ち止まるべきです。
そしてそれは、イエス様から個人的な学びを受ける最高のタイミングです。
霊的なパターンを探す
わたしには、このようなタイミングで学びを深めていくために役立つ指針があります。その中の一つは「パターンを探す」というものです。
末日聖徒イエス・キリスト教会の十二使徒の一員であるデビッド・A・べドナーは次のように教えてくれています。
このような聖文の中に見出せるパターンは、わたしたちが実生活で繰り返し実践したり選んだりするときの素晴らしいお手本、指針となってくれます。今回のわたしの学習のように「祈り方と祈りの答えを受ける」というトピックについて考えると、まさにわたしの生活で祈りを実践する時の「パターン」を見つけることができそうです。
聖文の中にこのような霊的なパターンを探そうとするときに、わたしがよく最初の段階で行うことは、「似た表現を探す」ことです。
霊的なパターンというものは、多くの場合、似たような概念が聖文の中で何度も繰り返し教えられていたり、何百ページにもわたる聖文のあちこちにパターンに関連する一部がちりばめられていたりします。そのため、わたしは自分の心に引っかかる表現や一文を見つけるとよく、それと似た表現・同じような言い回しや単語が使われている箇所が他にもないかを探すことから始めます。
例えば、今回の2ニーファイ4:35の中から心に引っかかった表現は次のようなものでした。
そこで探していくといくつかの聖句が見つかりました。
さぁ、尋ねた質問について答えを見出すための材料が見つかり始めました。今週の「質問に尋ねる」はここまでにします。次回はこれらの質問から始まって展開されていく「質問に答える」パートです。
あなたにはニーファイ第二書3-5章を学びながら、どのような質問を尋ねましたか?
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