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調べるほどに謎が深まる仙台四郎伝説

仙台四郎について興味を持った私。さっそく参考書籍を複数取り寄せて読みはじめました。

ところが、そこは迷宮の入り口でもありました。

四郎を巡る記述の様々な食い違い

文献のあれこれに目を通してみると、資料によって四郎の生涯についての記述が様々なのです。

四郎には知的障がいがあったらしいのですが、その障がいも先天性だったという説と後天性だったという説がある。

四郎は言葉を話せなかったという文献もあれば、そこそこしゃべっている四郎が描かれているものもある。

四郎の生家についての説明も、私が祖父母から聞いて知っている実際の話とは食い違う部分がある。

ですから、四郎についての当時のエピソードが色々な文献に描かれてはいるのですが、上記のような食い違いの上に成り立つそれらの、一体どこまでが真実で、どこからが噂や創作なのか、調べるほどますます分からなくなるのです。

とはいえ、それらの記述にももちろん共通項はありますし、信ぴょう性が高いと思われるエピソードも含まれていました。

私なりにそれらを整理すると、仙台四郎の輪郭とは、おおよそ次のようなものであったのではと思います。

江戸末期~明治にかけて、宮城県仙台市に暮らしていました

仙台四郎とは、江戸末期~明治にかけて、現在の宮城県仙台市に実在した人物です。生年は安政元年(1854年)頃、没年は不明ですが明治36年(1903年)頃とみられています。本名は芳賀豊孝と推測されます。

四郎は仙台藩に仕える鉄砲鍛冶屋の四男として生まれました。兄の二男・三男は幼少の頃に亡くなったため、男の子だとまたすぐ亡くなるのではと案じた両親は、幼い四郎に女の子の着物を着せ、大切に育てたと言われています。両親のほか、10歳年上の長兄・太郎が四郎の面倒をみていました。

四郎は知的障がいを持っており、街の人々から「しろばか」と呼ばれて親しまれていたと言われています。四郎の障がいには先天性説・後天性説があり、また、その程度についても諸説があります。言葉も「バヤン(ばあや、の意味)」としかしゃべれなかったという話もあれば、それ以上に会話ができたという話もあります。実際のところ、どのくらいのコミュニケーションが成り立っていたのか、その真相は不明です。

四郎は常日頃、ニコニコと街を歩き回っていました。知的障がい者であったことから、からかわれたり、いじめられたりもしたようです。しかし一方で、いくつになっても子どものように無邪気で明るく、常に人間本来の純真な笑顔をみせていたことから、行く先々で受け入れられ、大変可愛がられもしました。

ある時から、「商売繁盛の福の神」という噂が

そんな四郎が好んで立ち寄る商店はなぜか繁盛し、呼ばれても見向きもしなかった商店は倒産していった・・・。

やがて人々から、「しろばかは、実は商売繁盛の福の神様ではないか?」という噂が立ちました。以降、人々からもてはやされ、その動向は生存中から常に当時の地元メディアにとりあげられる存在となっていきました。

現在巷に伝えられている話は、史実をもとにしたものもありますが、通説も多くあります。当時の新聞各紙では四郎のことを面白おかしく扱う記事が多く見受けられ、中には誇張したとみられる内容も多く含まれていることから、その実像について諸説わかれた要因となっていると思われます。

いずれにしても、「仙台市長のことは知らなくても、四郎を知らない人はいない」と言われるほど、仙台では有名人であったことは確かです。

いつも散歩を楽しんでいました

四郎は常に街を歩き回っていました。生家は仙台の中心街にありましたが、その行動範囲は家の近所にとどまらず、時には馬車や汽車、自転車に乗ることも楽しんでいたようです。岩沼、石巻、白石といった宮城県内だけでなく、山形や福島にも足を延ばしていたらしい記録が残っています。好奇心で乗り物に近づいていく四郎は、周りの人々の好意から、いつも無料でそれらの交通機関を利用させてもらっていたと言われています。

最後は行方不明のまま消息を絶っています

そんな四郎らしく、最後は行方不明のまま消息を絶っています。明治36年(1903年)、48歳の頃に福島の須賀川で亡くなったらしいと言われる一方で、当時の新聞には「釜山港を漫遊中」と書かれたり、また50歳代半ば頃にアジア大陸で死亡とも伝えらるなど、真相はわかりません。

没後に「仙台四郎」とネーミングされました

生存中「しろばか」と呼ばれていた四郎は、のちに「仙台四郎」として知られるようになりました。きっかけはブロマイド絵葉書の発売です。

明治18年(1885年)頃、当時30歳の四郎は石巻を訪れ、富士館という旅館でもてなされ、滞在していました。あるとき、その旅館のイベントにあわせて女将さんが仙台から写真屋さんを招き、その際に客室で四郎を撮影させたそうです。

それから約32年の月日が流れた大正6年(1917年)。四郎は既に街から姿を消していましたが、以前に旅館で四郎を撮影した写真屋さん(千葉写真館の千葉一さんという方)が、その写真に「明治福ノ神(仙䑓四郎君)」と題して絵葉書を販売しました。

それ以来、四郎は「仙台四郎」として認識されることとなりました。今日に至るまで、この写真の姿をもとに様々な肖像画が描かれ、またグッズとなって広まっています。

「縁起もの」として繰り返されてきた仙台四郎ブーム

このように、人々の記憶に絶えずとどまり続けてきた仙台四郎ですが、これまで何度か縁起物としてもブームになってきたようです。

最初は本人が生存していた明治15年(1882年)頃で、次は絵葉書が出回った大正6~7年(1917~1918年)頃。

昭和になっても時折メディアに掲載されることは続いていたようですが、特に冷害が続いた昭和10年(1935年)頃、そして、中央通り商店街の街興し活動の一環として三瀧山不動院に奉納された昭和61年(1986年)にも注目を集めたようです。

さらに平成5年(1993年)にはアサヒグラフに掲載されたり、「ルックルックこんにちは」で全国放映されたことから、全国的にも知られるようになっていきました。


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