【1%ノンフィクション】Vol.0863(2010年6月2日発行のブログより)
ラグジュアリーマンションのコンシェルジュから観た景色。
乙はラグジュアリーマンションのコンシェルジュだった。
2重のカードキーがかかっているマンションのフロントには
24時間体制でコンシェルジュが2人座っている。
毎日座っている乙の視点からは様々な人間模様を観ることができた。
1人ひとりについて1冊ずつ本が書けるくらいだった。
ラグジュアリーマンションはプライバシーを大切にしたい住人が多い。
実際にテレビで見たことのある住人も珍しくない。
だから必要最小限しかマンション内では会話がない。
お互いプライバシーを大切にしたいもの同士の暗黙の了解なのだ。
もちろん普通のサラリーマンなど1⼈もおらず、
真昼間からこの人は⼀体何をやっているのだろう・・・
という住人が多かった。
まさに違う惑星の住人たちだった。
ファッションやビヘイビアの勉強にもなった。
そんな中で最近⼊居してきた甲がひと際目立った。
甲はいつも待機しいてるコンシェルジュに元気な声で、
「行ってきます」「ただいま」
と声をかけた。
普通の住人は軽く会釈をすればいいほうで、
「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」
と⼩さな声で返事があれば奇跡だという。
瞬く間に甲はコンシェルジュの内で有名になった。
コンシェルジュは計6名が24時間365日交代制でこなしていた。
もちろん全員良家のお嬢様ばかりである。
乙の⽗親は大手⽣命保険会社の重役で東洋経済新報の役員四季報にも
毎年名前が載っていた。
乙は甲に興味を持った。
今までは暇つぶしに目の前をただ通過していくだけの住人に対して、
この人はどんな人だろう、仕事は何をしているのだろう・・・
と連想することはあった。
しかし今回は違った。
乙は嬉しさのあまり、試行錯誤の上で甲のために特別なあいさつを考えた。
甲がいつものように本を脇に抱えながら早歩きでエレベータールームから
出てきて⼀瞬だけ乙としっかりと視線を合わせ、
「行ってきます」
と声をかけた。
乙はこのとき初めて勇気を振り絞って
マニュアルにはないあいさつを返した。
「行ってらっしゃいませ」
いつもより2秒ほど⻑く目を合わせることができた。
乙の心臓の鼓動が高まった。
それはまるで乙が学⽣時代にトライアスロンに初参加した
スタート直前の緊張感に似ていた。
数時間後、甲はタリーズコーヒーのペーパーカップと、
1冊の本を脇に抱えて戻ってきた。
本のタイトルがホンの⼀瞬、チラリと見えた。
『不思議の国イタリア』
と書いてあった。
ますます乙の頭を混乱させたが今度は乙から先に、
「お帰りなさいませ」
と言ってみた。
甲はいつものように、
「ただいま」
・・・とは言わなかった。
少し驚いた表情で間をおいて、
「ありがとう」
と乙に返してくれた。
そのまま颯爽とカードキーでエレベータールームへと消えて行った。
乙は甲にますます好奇心を募らせた。
毎日昼過ぎにカジュアルな格好で出かけて、しばらくしてまた戻ってくる。
何よりも毎日が⼤学⽣のようなイキイキとした顔をしていたのが
乙にとってすこぶる新鮮なことだった。
甲の仕事はいったい何だろう・・・
コンシェルジュを統括する粋なスーツを着こなした
アラフォー美人チーフが、乙の肩を後ろからポンと叩いて、
ハスキーな声で囁いた。
「フフ、甲さんはね、・・・」
...千田琢哉(2010年6月2日発行の次代創造館ブログより)
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