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感性と味

僕はGoogleマップを眺めている時間が好きだ。趣味かと聞かれたらイエスと言ったあと聞いてきた人のGoogleマップを覗いてしまうだろう。つまりそんな分かりきった質問をしたからお仕置きされるのだ。

そもそも僕の地図と向き合う表情を見れば分かる、とても柔らかい顔をしているからね。

ところで、Googleマップには行ってみたいお店や、行ったことのある場所を「お気に入り」に追加すると地図上に星印が表示されるという機能がある。

僕は殊更食べることが好きなので、星印の大半が飲食店だ。だからGoogleマップはちょっとした食のプラネタリウム状態になっている。

こんなしょうもない枕でごめんあそばせ、では本題に。

そんな地図上で、とある町のフレンチレストランを覗いた。三年以上前に一度だけ訪れたお店。ランチの値段が庶民的なのにも関わらず、想像以上に美味しかった。同じ値段を払ってもここと同じクォリティのフレンチをいただくには探すのに相当な根気がいるほどだと思う。(なのに一度しか行ってなくて、すみません)

そのレストランの口コミはほとんどが僕と同じく好評だった。加えて少し珍しいことに、オーナーシェフ(以下、オーナー)が口コミ全てにわざわざ返信していた。

さほど沢山ではないが複数ある口コミの中でも、ある一人のやり取りに目がいった。

その内容は、(以下少しボカします)

『某フレンチコミュニティーに参加していたので期待していったが、もちろん美味しかったが、サラダの味にまとまりがない、ソースが濃く素材本来の味が活かされてないあたりが私の好みではなかった』と。

まあ、インターネットには色々な人がいるので突拍子もない誹謗中傷に比べれば真っ当なご感想ではある。オーナーの反応はこうだ。(以下、敢えて原文です)

『(前略)ご指摘ありがとうございました。味覚につきましては人それぞれですので、お口に合わない様でしたら他店をご利用いただけると幸いです』

上記のやり取りを見て両者にどう思うかは、もはや十人十色でタイミングによっても変わる事だと思う。

これを読んだ時の僕は、オーナーの言葉にハッとした。

確かに味、もとい味の好みは、人それぞれとしか言いようがない。

そしてただこのことに感心させられたのではなく、オーナーは自分の料理に対して納得がいっているからこその言葉なのではないかということに焦点が合った。

この理解は僕にとって、文章を書くことと通じる気がして心に響いた。

受け手の感性による性質を持つもの同士、物理的な技術はある一定のレベルを超えてから感性側の要素に比べて重要度はほとんどの場合下がるものだと思う。

そうなってくると人によって評価は様々だ。究極には文字上では同じようなことを言っているように見えたとしても、ミクロでは異なる感想かもしれない。

こうして考えていくと、要は自分の創作に納得がいってるならば、わざわざ否定的な言葉に迎合しなくても良いんじゃないかと行き着いた。

過去に自分の書いた小説「アトモスフィア」を講評いただいたことがあった。それは講評として至極真っ当にダメなところを教えてもらう良い機会ではあった。それこそ技術で及んでいなかったことを猛省した。

が、同時に余計なことまで悩むようになっていた。言葉にして言われてなくとも、つまらない物を書いてしまったんだと勝手に落ち込んだ。読んでくれた周囲の優しい方々からお褒めの感想をもらったのに、その言葉を自己嫌悪でどんどん打ち消していた。

このことはもうだいぶ前に立ち直ってはいたけれど、このオーナーの言葉(気持ち)と出会って、再び強く自信をもらった。

もちろん、自分の創作物に指摘を受けたからといってその内容全てを見ないようになってしまったら、大切な学びの機会を失うことに繋がりかねないので、そこでどうバランスを取るかも大切で難しいことだと思った。

 ただ、慢性的に納得がいかない状態でも産み出し続けなければならない「プロ」と呼ばれる方々には鼻で笑われる話かもしれない。これはまた機会があれば別の論点として扱いたい。

誠におこがましくも、noteをやられている皆さんも書き物をしていて何が正解か分からなくなる時こそ、自分が納得いくものかという問いを投げてみてはいかがでしょうか。

僕も、これまで書いた小説やnoteの投稿は、その時僕なりに納得して書いたんだという因子を大事に持っていきたいと思います。

だから、巧くなろうとするあなたも好きで、巧くなれないと嘆いても、あなたが納得して残したものならば、それを愛せるのです。

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