(中編小説)アリスの丘に三日月は笑んで 後編

4.遅れてきた白ウサギ

 そっちに行ってみよう、と思ったのは完全に何となくだった。
 部屋にはどうしても戻れない。かといって入り口にトボトボ一人で向かう自分もあんまりに情けなくて、ましてやトイレに一人でこもるなんて。
 考えあぐねた結果、私はほんの思いつきで店の奥の方へと足を向けた。
 パーティールームを右に曲がると、狭い廊下の奥は突き当たりになっている。そこに、スタッフ専用と張り紙のされた小さな赤いドアの姿がある。やや迷った後に、私は鈍く光るドアノブへと手を伸ばした。
 するっと軽い音をたてて、意外なほどドアノブはあっさりと回る。そして、ドアをグイっと押し開けた先にあった姿を見て、私は思わず呆けてしまった。

「あれ? 藍ちゃん?」

 目を瞬かせたきり声の出ない私に、相手はキョトンとした顔で気安げに片手をあげる。そのあんまりにいつも通りの調子に、私はますます何を言っていいのかわからない。
「せんぱ、い」
 そこは、カラオケ店の裏側の小さなスペースだった。
 真横には、フェンスを挟んでアリスの丘の鬱蒼とした森が見える。そしてフェンスと店との間の空間は、小さな物置き場になっていた。居場所に困ったような機材や、袋に詰め込まれたゴミが雑多に放ってあって、そんなうら寂しさをかき立てるように、室外機のファンがカラカラと回っている。
 そして白木先輩は、その室外機に上手に腰掛け、ゆったりと足を組んでいた。ふっと視線を上げると、先輩の片手にある文庫本が手に入る。
 こんな寂しい店裏で、けれど文庫本片手に足を組む先輩の周囲だけは、まるでゆったりとしたカフェが広がっているかのよう。
「あははっ」
 ぷっと吹き出したが最後、堰を切ったように笑いがこみ上げてくる。こらえきれずに私は声をあげて笑い出す。全然止まらない、それはもうお腹が痛いほど。
「なんでそんなに笑ってるの……」
 笑い続ける私をよそに、先輩は釈然としない様子でむくれている。私はようやく、「すみません」と言葉を絞り出した。
「だって、おかしくて。先輩があんまりいつもの通りだから。やっぱり先輩、変な人です」
「なんだよ、みんなして変なヤツ変なヤツって」
 そういう先輩は膨れっ面だ。珍しい、先輩が誰かの意見にこんなに反応するなんて。
「ひょっとして、怒ってます?」
「怒ってるよ。俺だって人間なんだからな、江波は適当なことばっか言うし、藍ちゃんは全然俺と話してくれないし」
 ああ、やっぱりバレてたのか。まあそうだよね。
「すみません」
「今更謝っても遅いよ」
 先輩は本格的にすねている。どうしよう、もう一回謝ってみるか? それとも、いっそ理由を言うべきだろうか。
 ――けど、何を言うっていうんだろう。何となく目を合わせたくなかった、なんて言ってどうする気なんだ。自分でもわからないこの心の、何を説明できるっていうんだろう。
「……すみません」
 結局もう一度同じ言葉を繰り返し、私はそのまま黙り込む。
 気まずい沈黙が淀み、室外機の無機質な音だけがその場をかき回す。その末に、先輩のくすりと笑う声が聞こえた。
「もう、そんなに本気にしないでよ。実はそこまで怒ってない」
 虚を突かれて顔をあげると、先輩のおかしそうに笑う顔がある
「ええ、なんですかそれ」
「いやあ、ちょっと腹が立ったのは事実だから、仕返しにからかってみた。ほら、今日はきれいな三日月だしね」
 先輩が白い人差し指で夜空をさして笑う。つられるように見上げた先に、弧を下向きに描く細い三日月が浮かんでいる。何かに似ている、と思った。そうだ、チェシャ猫のニヤついた口元にそっくりなんだ。
「からかうのと月が、どう関係あるんですか」
「大ありさ。だって、チェシャ猫はアリスをからかうものだろ?」
 一瞬、言われた意味がわからなかった。
 先輩は相変わらずチェシャ猫みたいな三日月を指さしている。その先輩もチェシャ猫みたいなニヤニヤ顔。私をからかった先輩がチェシャ猫だっていうのなら、アリスは、
「……私?」
「そう。今宵は良い月夜ですね、アリス嬢」
「待って、私はアリスなんかじゃ」
「そうだね――少なくとも今のきみの中には、アリスはいないかもね?」
 そう言われて、なぜかドキリとした。先輩のチェシャ猫の瞳は、からかうようで、それでいて見透かすようで。
「カフェできみの話を聞いてから、ずっと気になっていたんだ。きみの好きだったはずのアリスは、どこへ行ってしまったのかな。きみはあの日、アリスの本を抱えたままどこに行ったんだろう」
 そして先輩は、ふっと優しく微笑む。
「アリスの丘へ行ってみようよ、藍ちゃん。きみのアリスを探しに行こう」
 そんなことを言われても、私は全然自分の話だという実感がなかった。探しに行くなんておかしな話だ。そんな必要はない。だって私は夢見る自分の心ごと、とっくの昔にアリスを捨てたのだ。探したところで、もう私の中にも外にもどこにも、アリスなんていないのだ。
「行くって、どうやって……」
 時間稼ぎのようにつぶやいた私に、先輩がいたずらっぽい笑みをのせる。
「簡単さ。幸いここは、アリスの丘の真横。そしてこれが一番大事なことなんだけど、俺から一つ提案だ」
 先輩の細い白い手が、きれいな曲線を描いて私の後ろを指し示す。私はその流れるような動きを、思わず見とれながら追いかける。
「今更というか、ようやくって感じだけど、これから二人でウサギの穴に落ちてみるってのはどうかな?」
 先輩の指指す方向に、カラオケ店の敷地とアリスの丘とを仕切る高いフェンスが立っている。そして彼の指の先、フェンスの下方で一部針金が無残に折れ、大きな穴が空いている。その先には、まるでウサギ穴のように深い暗闇が広がっている。
 先輩が、指さした手を今度は私に向かって差し伸ばす。そして彼は、気取った素振りで恭しくお辞儀をした。
「さあ、アリス。どうか一緒に不思議の旅を」
 さっきまでチェシャ猫だった先輩は、いつの間にか懐中時計を手に道を急ぐ白ウサギに変わっていた。そして白ウサギは誘うのだ。ウサギ穴の先に、ドキドキするような素敵な暗闇の先に。
 不思議な夜のワンダーランドに。

 そして、既に不思議なドアをくぐり抜けた後、お茶会すら終わったその後。大遅刻でやってきた白ウサギの手を、私はそっとつかんだのだった。

***

 
5.お前はだあれ?

  「もう年だよ、ウィリアム父さん」若い息子が言いました。
  「頭はまっしろ。
   なのにいつでも逆立ちばかり。
   自分の年を、考えて!」

 先輩が突然、奇妙なリズムのついた、おかしな文章を口にし始める。
 私はキョトンと呆気にとられた後で、思った通りの言葉を声にのせる。
「なんですか、その変な文章」
「アリスが作中で、青虫に言われてそらんじる、『もう年だよ、ウイリアム父さん』の詩さ」
 そういえばそんな場面があったかもしれない。アリスは森の中でさまよったあげく、キノコに座った青虫に出会うのだ。そして青虫は、アリスついて色々知りたがって質問攻めにする。
「確か、アリスの暗唱した詩は間違えだらけだったんですよね」
 青虫は、長いキセルでタバコをふかしながら、アリスに「お前は誰だ」と尋ねる。けれど、体の大きさが何度も変わって訳がわからなくなっていた彼女は、「自分がわからない」と答える。
「まるでこの森は――」
「〝青虫に出会った森みたい〟ですね」
「……藍ちゃん、俺の心が読めるの?」
「段々先輩のこと、わかってきましたから」
 えへん、と胸を張ってみると、先輩が少し慌てているのがわかる。珍しく一本とってみるのはとてもよい気分。
 実際のところ、先輩の言うこともわかる気がするのだ。
 今私たちが歩いているのは、アリスの丘の外輪にあたる森の中だ。放置されてほとんど手入れのされていない森は、木々も草も伸び放題。木の枝はあらぬ方向へ曲がり、そこにツタがめちゃくちゃに絡みついている。元は遊歩道があったはずだが、草に覆われてさっぱりわからない。
 そんな森の中を、月明りだけを頼りに見上げると、木の陰はまるで巨人のように私たちに覆い被さって見える。まるで縮んだ背丈でアリスがさまよう、何もかもデタラメに大きな森のように。
 そして巨人の木々たちの隙間から、ニヤつくチェシャ猫のような三日月が顔をのぞかせる。チェシャ猫が、木の上から私たちを見下ろしている。
「じゃあ、青虫のようにきみのことを尋ねてみよっか」
「え?」
「藍ちゃんは、担任に呼ばれた後このアリスの丘へ来た。それは、どうしてだと思う?」
 唐突に私への質問が飛んだ。先輩はとてもゆったり私に問う、ちょっと想像しただけで、煙をくゆらせるキセルが見えてきそうなほどに、ゆったりと。
「……多分、私にとっては、この丘は不思議の国みたいなものだったんです」
 だから私も、ゆっくり答えを考える。
「とても空想がちな子どもだったんです。世の中のなにもかもが、不思議な物や奇妙な物に見えていました。車だって生きていて、フロントライトの目でいつも私をじろっと見てた。プールの大きな水たまりの底には人魚が住んでいるのだと思っていた。夕暮れの影法師は、私の見ていない間に動き回ってるって信じてた」
 ぽつぽつと語る私の言葉を、先輩は黙って聞いている。
「そんな私にとって、町から外れたこの薄暗い森は、まるで青虫や白ウサギの住む森そのものでした。町とは別世界の大きな丘は、まるで不思議の国で、バラ園は女王様の庭。丘の上の大きな木には、チェシャ猫が住んでる。……今思い出すとほんとおかしいけど、小さな私はそれを本気で信じていました」
「……」
「だからあの日、ショックを受けた私は、自分の思う不思議の国に逃げ込んだんだと思います」
 幼い私にとって、ここは真実に〝アリスの丘〟だった。
 昔の私にしてみれば、現実世界と本の世界を繋ぐワープゲートは、ちっとも一方通行なんかじゃなかった。果たしてゲートなんていう仕切りがあったのかどうかも怪しい。私はいつだって不思議の国に行けたし、向こうもいつだって本の中からひょっこり顔をのぞかせて、私と一緒に遊んだ。
 アリスだけじゃない、どの物語も行き来自由なのだと信じて疑わなかった。大きな竜の上でちっちゃなネズミたちが遊んでいたし、人間と妖精だって仲良しだった。きっとその頃なら、ホームズとポアロだって二人仲良く難事件に立ち向かったに違いないのだ。
 ――それがいつから、ワープゲートという仕切りを作って、一方通行にしてしまったのだろう。
「今の藍ちゃんにとって、ここは不思議の国の森? それとも、荒れ果てたただの公園?」
「……」
 私は答えられない。質問ばっかりずるいですよ、と場を取り繕う軽口も出てこない。
 立ち止まって黙り込んでいると、先輩がくすりと笑った。
「じゃあ、決めちゃおう。ここはたった今から不思議の国の森の中だ。白ウサギがいて、アリスかもしれない女の子がいる。となればやることは一つ!」
「え、え?」
「決まってるよ、ウサギを追いかけなきゃ!」
 いつになく強い口調で言った瞬間、先輩は突然薄暗い森の中を走り始める。実に器用に、足下に絡みつく雑草や木の根を避けて、細い背中が遠ざかっていく。
 木々の間から射し込む白い月明かりに照らされて、先輩の明るめの茶髪も白っぽく浮かび上がる。白ウサギの毛並みのようだ、本当は彼はウサギなんじゃないか、そんなおかしな考えが私の頭に浮かんだきり離れない。
 そして、私の足を動かすにはそれだけで十分だった。

***

 白ウサギが、白木先輩が走る。そして私が追いかける。
 大変大変、遅刻だ遅刻! ウサギの背中が言っている。
 遅刻だなんて、この真夜中にいったいどこに? でもまあいいか、細かいことは気にしない。だって不思議の国では、何もかもがあべこべでデタラメなんだから。
「そんなに急いでどこに行くんですかー!?」
「女王様のクロッケーに遅れてしまう! でもその前に、忘れた扇子と革手袋を取りに帰らなきゃ」
 おかしな会話。そう思うけど口は止まらない。大体、そんなことは些細な問題だ。だってここはおかしいことが普通の国。〝普通じゃない〟ことが〝普通〟の不思議の国。
 月はチェシャ猫、曲がった枝はフラミンゴの首に見える。暗闇にたたずむ大きな石は海ガメもどきの甲羅みたい、どこかで帽子屋と三月ウサギもお茶会をしているのかもしれない。
「その忘れ物、私が取ってきてあげましょうか!」
「それは嬉しいけど、家はわかるの?」
「家なんて、どこにだってありますよ。想像してみたら、ほら!」
 走りながらの興奮で、つい私はとってもはしゃいだ声で返した。
 ここは不思議の国なんだから、きっとなんだってありなのだ。森の中にある白ウサギの家だって、どこにあったって構わないのだ。
 家は先輩の向かうこの先にあるのかもしれない。そうではなくひょっとすると、木の間に見え隠れする暗闇の中にたたずんでいるのかもしれない。もしかすると――木のウロは別の場所への入り口で、その先に家があるのかもしれない。それとも、もしくは――

「きゃっ!」

 前しか見ていなかった私は突然、せり出した木の根に足をとられる。前のめりに思いっきり地面に体を打ち付ける。とっさに地面に突き出した手の平にも、かばいきれずに擦れた膝小僧にも、遅れて鈍い痛みがやってくる。
「痛い……」
 響く痛みが、私の中の熱をするすると下げていく。
 痛い、と思うと同時に、何やってるんだろう、という冷めた言葉がこだまする。年甲斐もなくはしゃいで、転けて、みっともない。
 幼い子どもじゃあるまいし。
「藍ちゃん、大丈夫!?」
 異変に気付いた先輩がすっ飛んでくる。道を戻ってくるなんて、相手を労るなんて、なんて親切な白ウサギだろうか。
 ――いや、そもそもこの人は白ウサギなんかじゃない。
「もう……帰りましょうよ」
 ぽつりと、そんな言葉が漏れた。膝が痛くて、情けなくてみっともない。なんで私は、みんなの輪を乱して合コンを抜け出してまで、こんなところにいるのだろう。
「藍ちゃん」
「先輩は、白ウサギなんかじゃないですよ」
 とっさにぶつけた言葉に、彼は虚を突かれたように言葉をなくす。
「先輩は白ウサギじゃない。私だってアリスじゃない。ここだって、不思議の国なんかじゃない。
 アリスなんて探しに行ったって無駄なんだ。だってもうどこにもいない。とっくに私が、置いてきたんだから」
 じゃあ帰ろうか。本当は、いつも通りの口調でそう言ってほしかった。でも先輩は何も言ってくれないから、うつむいたまま私の言葉は止まらない。何を言っているのかも段々わからなくなりながら、それでも口は止まることを知らない。
「私はもう知っているの。現実には本のようなことは何一つ起こらない。本の上にあるのはただの文字でしかなくて、ワープゲートは一方通行。……それなのに不思議の国を夢見続けるのは、普通じゃないことなんだ、変な子なんだ。私は、普通でいたい――皆と同じ私でいたい」
 だから普通でいようと思った。皆と同じ物を見て同じように息を吸って、もう二度と「普通じゃない子」と思われないようにしたかった。そうやって、普通に埋もれて生きていたかったのに。
 相変わらず何も言わないままの先輩の手が突然、うつむいた私の垂れ下がった前髪に触れる。びくりと肩を震わせた次の瞬間、前髪が一気にかきあげられた。驚いて顔をあげた私と、先輩の深い瞳が合う。
「それは、すべて本心? きみの、本当の気持ち?」
「……っ」
 なぜか、即答できなかった。
 これだけ騒いでおいて、それでも私は何一つ答えられない。
 そんな私に、青虫に戻った先輩の、無言の瞳がずっと問いかけている。「Who are you?(お前はだあれ?)」――お前の心はどこにあるのと。
「私は……」
 普通でいたい。ずっとそう思っていた。そう信じていた。
 なら、どうして私は人目を避けてまで図書館通いをやめられないんだろう。どうして、いちいち先輩の言葉にのせられて不思議の国を垣間見るんだろう。どうして――「普通でありたい」と思う度に、こんなにも胸が苦しくなるんだろう。
 幼い頃、特別な世界を何度も何度も夢に見た。手に届かないものを、届くと信じて疑わなかった。
 でも結局そんな私が生きるのは、特別なものなんて何一つないこの日常なのだ。
 空想は空想でしかない。不思議の国なんて存在しない。その事実は、担任に〝普通じゃない子〟の烙印を押されたあの日から、私の中に焼き付いたまま離れない。そして時とともに、服についた古いシミのように薄くかき消えて、いつしか私と同化していく。
 ――夜が明ければ、私はまた日常に帰るだろう。不思議の国は消えて、普通の日常が当たり前のように待っている。
 そこにアリスはいないし、日常の中で幼い日のアリスはどんどん遠くなる。そうして私は大人になって、何でもない日常に埋もれていく。
 そうすれば、この感傷も胸の苦しさも、全部その中に溶かして消してしまえるのだろうか。そうやっていつか、当たり前のように普通に生きられる日が来るのだろうか。
 そうなってしまった私は、果たして私自身だろうか。

 それきり先輩さえ何も言わず、暗い森の重い沈黙だけが私たちの周りを取り囲む。
 うつむいたまま立ち尽くし、どれだけ時間が経ったのかも分からなくなった頃、ふと先輩が顔を上げる。つられるように視線を追いかけると、少し進んだ森の先に、うっすらとした光が浮かんでいるのが目に入る。
 それは、微かに白んできた空が透ける、森の出口だった。

***

6.アリスの行方

 空が薄く白む。
 いつの間にか月は顔を隠していて、もう木々の上から見下ろすチェシャ猫はいない。笑い声も、惑わす声も、もう聞こえない。星も見えない空白の空だけが、そしらぬ顔で薄ぼんやりと広がっている。
 徐々に淡い光が増し、周囲の森の輪郭が露わになっていく。巨人のように見えた木々たちはただの荒れ果てた森へと戻っていく。そして私は、暗闇の向こうとて、何もない森が続いていただけであったことを知るのだった。
 先輩が無言のまま、頼りない光に惹かれるように出口に向かってゆっくりと歩き出す。私はその後ろを、微妙な距離をあけて声を潜めてついていく。
 風は吹いていない。生き物の声もしない。そんな静かすぎる夜明け前の空の下、私たちの前に無人の小高い丘がそっと姿を現す。
「……誰も、いないね」
 わかりきっていることを、先輩がわざわざ口にする。
 裾野の広い小高い丘は、伸び放題の芝生に覆われ、荒れ果てた光景をさらしていた。そして丘の一番上には、枝葉を大きく広げた背の高い木が一本だけ。丘の上には、ただそれだけ。
「バラ、枯れちゃったんですね」
 私はぽつりとつぶやいた。丘の裾野の一部に、森に寄りつくように、ここには小さなバラ園があった。元々この緑地帯を作った責任者は、この丘を季節の花にあふれる場所にしたかったらしい。結局そうなる前に計画は途切れ、バラ園も手入れすらされずに放置されている。
 それでも私が小さい頃は、六月頃になれば小さな花をつけていた。けれど今は、しおれた茨が折り重なるだけ。例えバラの季節が来たとして、きっともう花はつけないのだろう。
 バラのお庭はない。トランプ兵も女王様も王様も、誰もいない。
「先輩」
 白木先輩は、倒れた垣根の残骸を乗り越え、しおれた茨をよけてバラ園の中を進んでいく。その背に思わず私は呼びかけた。帰りましょうよと、そんなニュアンスを込めて。もう、この先に行く意味なんてないですよと。
 でも先輩は止まらない。私は追いかけることもできず、その場に立ち尽くしたまま途方にくれる。
 その時だった。

「あれ、ウサギ」

 先輩が、ふと驚いた声をあげた。その視線をたどった先で、茨の陰で何かがガサゴソと物音をたてる。
 そして、ふいにそれはヒョッコリと茨から飛び出し、私は「あっ」と小さく叫んだ。
 私たちの前に飛び出したのは、小さな真っ白い毛並みをしたウサギだったのだ。
「一匹だけ……」
 もう何匹か住み着いていたはずだけど、他のウサギの姿はない。
 動けば驚かしそうで、身動きもとれずに突っ立っていると、白ウサギの赤い目が一瞬だけ私を見つめる。そして次の瞬間、
「あ! 待って!」
 ウサギが私たちに背を向け、丘の上に向かって駆け上がっていく。それと同時に先輩の大きな声がして、何を思ったかウサギの後を追いかけ始める。
「先輩、待って」
 慌てて呼び止めたけれど、彼はウサギを追いかけるのに夢中で全然足を緩めない。
 どうしよう、と迷うのも早々に、私は一匹と一人の姿を追って地面を蹴った。
 ウサギを先輩が。先輩を私が。いったい誰が白ウサギで誰がアリスなのかもわからない、おかしな追いかけっこがずっと続く。
 丘の斜面は思ったよりも急で、上へ上へ走り続けるうちにどんどん体が熱くなっていく。鼓動の速さと胸の苦しさが増すにつれ、丘の上の大きな木が目前に迫ってくる。

 ――あれ。私、この景色を知ってる。
 
 唐突にそう思った。現実の景色が記憶とだぶって、輪郭がぼやける。
 あの日の幼い私も、こうして丘の上に向かって走っていた。まるで何かを振り切るように、口を引き結んで必死で駆ける。今よりも随分と大きく見える丘の木が、徐々に徐々に迫ってくる。
 そして小脇に抱えていたのは、図書室からずっと持っていた、アリスの本。
「はあっ、はあっ……」
 もうダメ苦しい。そう思った時、ようやく丘の一番上に着いた。そこには既に、肩を小さく上下させる先輩が立っている。
「ウサギは……」
 私の声に、先輩がそっと木の根元を細い指で指指した。
 ウサギは、木の太い根がうねるそばに寄りそうように立っている。赤い丸い目が私をじっと見上げる。その視線が外れたかと思うと、ふいに前足で穴を掘るように地面をひっかく動作をみせた。わずかな量の土が周囲に飛び散って、地面には少しだけくぼみができる。
 そしてウサギは、もう一度だけ私を見上げる。
 次の瞬間、後ろ足で大きく地面を蹴り上げたかと思うと、勢いよく跳躍して、あっという間に木の背後に姿を消した。
「あっ……!」
 声を上げたときには遅かった。もうウサギは疾風の速さで駆け去って行った後で、木の裏をのぞいてみても、どこにも白い姿は見当たらない。
 「残念ですね」と言おうとして先輩の方を振り返ると、彼は不思議そうに首をかしげているところだった。
「うーん」
「どうしたんですか?」
「この、ウサギが掘ったところ、なんか草の生え方がまばらで」
 指指す方を見下ろして、彼の言った意味がわかった。丘全体は伸びすぎた芝生に覆われているのだが、ウサギが掘ったごく小さな穴の周囲は、草がまばらに生えるだけで土の地面が露わになっている。
 ウサギが掘ったせいだけとは思えなかった。まるで、昔誰かが掘り返したことがあるみたい。
「よしっ!」
 先輩が妙に元気な声を出す。しゃがみこんでゴソゴソ何かを探し始めたその姿を、私はやや呆気にとられて眺めていた。そして先輩が、「これでどうだ」と勢いよく掲げたその両手には、大きな石が乗っている。
「……? 何をする気ですか?」
「何って、掘るんだよこの地面を」
「はっ?」
「だって、いかにも掘ってくれって言ってない? この様子は」
「いや、私には全然そんな風には思えないですけど……」
 呆れる私に、先輩は気にした風もなく、どこかワクワクした目で見上げてくる。
「だって、白ウサギが掘っていったじゃない。だからそうするべきなんだよ」
「なんですかそれ……」
「だって」
 先輩が楽しそうに笑う。今の先輩は――いったい何だろう、もう彼という人がよくわからない。
「不思議の国にアリスを導くのは、白ウサギの役目だろ? きっとアリスの居場所は、彼が一番よく知ってるさ」


 先輩が一生懸命、その辺の何でもない石で地面を掘る。それを私は最初、何やってんだろという軽くバカにした目で遠巻きに眺めていた。でも先輩は全然やめないし、あんまりに一生懸命だから、次第にわけもなく申し訳なくなってくる。そして気付けば私も、手頃な石を手に取っていた。
 どこか適当なところでストップをかければいいだろう。なんていう冷静な考えは途中で消えた。
 夢中で泥遊びをした昔みたいに、私たちは必死で土をかきわける。何を探しているのかもわからない、おかしな穴掘りが続く。
 そして、腕が半分入るくらいになった頃――

 コツン

「え?」
 私は思わず間抜けな声をあげる。手元の石に、ふいに堅い感触が触れた。鈍い微かな音が、確かに私の耳に届いた。
「なにか、ある……」
 語尾は弱々しく尻すぼみになる。どうすればいいのか頭が真っ白になる。本当に何かあるなんて、ちっとも思っていなかったのに。
「藍ちゃん――大丈夫」
 突然、耳元で先輩の声がした。驚いて顔を上げると、すぐそこにふわりと微笑んだ人の良い笑顔がある。
 誰一人として拒まない、不思議な笑顔。それにわけもなくほっとする。彼の言葉に背中を押されるように、私は穴の底に手を伸ばす。

「本――……」

 つぶやきは、二人ともほぼ同時だった。私が土の中から拾い上げたそれは、一冊の古ぼけた本だった。薄手の冊子に硬い表紙。土にまみれて文字はかすれ、夜明け前のおぼつかない光だけでは、何と書いてあるのかもわからない。
 ――それはまさに、その瞬間だった。はかったかのように、丘の向こうの地平から黄金色の朝日が顔を出す。丘に漂う薄ぼんやりとした空気は瞬く間に、まばゆい日の光に塗り替えられていく。
 同時に、閉じていた帳が上がるように、本の上にも朝の光がこぼれ落ちる。まぶしさに目を細めながら、かろうじてそこにある文字を口にする。

『不思議の国のアリス』

 あまりに馴染んだ響き。忘れたくても、決して忘れられなかったその名前。
 そうして私は、震える声で小さくつぶやく。

 そうか、こんなところにいたんだね。小さな小さな、私のアリス。

***

7.夢のあと

 私は〝変な子〟だった。そして、ひどく夢見がちな子どもだった。
 私にとって学校の図書室は、ワープゲートなんて通り越し、もはや異世界そのものだった。私はいつでも向こう側に行けたし、向こうも自分から私の方へ遊びに来た。
 不思議の国だってそうだった。白ウサギも、チェシャ猫も、公爵夫人も帽子屋も女王様も、いつも私のすぐ隣で、私を不思議の国へと誘った。アリス、こっちへおいでよ、って。

 幼い子どもは傲慢だ。私は当然、自分のおかしさをわかってはいなかった。自分の見える世界を、一度だって疑ってみたことはなかった。
 そんな私に、あの女教師は突如としてその事実を突きつけた。深く突き刺さったバラの棘のように、それはあっという間に私の心の奥深くまで入り込む。そして、抜けることを知らなかった。

 幸か不幸か、それでも私は夢見がちな少女のままだった。真っ先に思いついたのは、現実の世界から抜け出して、不思議の国へ逃げ込むことだった。
 だから、いつでも私をワンダーランドへ誘ってくれるアリスの本を持って、私は逃げた。
 否定された直後で図書室に行くほどの図々しさはなかった。それ以外の、私の思う不思議の国――そこまで具体的なことを考えてはいなかっただろうが、さまよう私の足は、いつの間にかアリスの丘に向いていた。
 現実から離れた、特別な空気をまとっていたあの丘へ。

 けれど、そこは決して、永遠の隠れ家になんてなり得なかったのだ。

***

「丘に逃げたはいいけど、当然そこにずっといるわけにもいかないんですよね。日はどんどん落ちていくし、あたりも暗くなっていく。段々、空想の楽しさよりも恐ろしさが勝ち始める」
 丘のてっぺんの木の根元に、私と先輩、二人並んで座っていた。制服からのぞく膝の上に、土まみれの本を抱いて、私はぽつりぽつりと語り始める。先輩は、じっと黙って耳を傾けている。
「どうしようって考えました。学校か、家に帰ろうかって。でも、振り返った現実の世界はそれまでとはひどく違っていました。そこでは私は、〝普通じゃない子〟でした。担任の哀れっぽい顔がどうしても頭から離れなくて、優しい顔のはずなのにすごく怖かったんです。先生は、私のことは見ていませんでした。私の中の、〝普通じゃない子〟を見ていました」
「……」
「でも、結局は帰るしかないんです。その事実に思い当たった時、私はやっと気付きました。不思議の国なんて、本当はないんだって。それは私の、くだらない空想でしかないんだって。……だから今だって、帰る場所は現実しかないんだって」
「……うん」
「普通の現実に普通になって帰るために、私は普通じゃない自分を埋めました。アリスの本ごと、この木の根元に」
 そう言って、私は抱えた本をきゅっと抱きしめる。思い出してしまった、忘れていたはずの記憶。再び日の光を浴びてしまった、幼い日のアリス――今更どこにも行けない、哀れなアリス。
 ふっと顔を上げると、丘の上は鮮やかな光で満ちていた。
 伸び放題の青々とした草が、風に揺られて優しい音をたてる。下方に見える丘の裾野には、草の海が一面に広がっている。
 そのさらに向こうの森の上で、のぼりたての朝日は世界を色鮮やかに照らし出す。
「……どうして、こんなところまで付き合ってくれたんですか」
 白い光をじっと見つめながら、私はふいに問いかける。私の隣の、ただのお節介というにはあまりに行き過ぎな、風変わりな青年に。
 こっちはそれなりに意を決して聞いたのに、対する先輩は、なんだそんなこととでも言うように、キョトンと首をかしげる。
「うーん、本を触る手つき。あとは、俺の興味」
「え?」
 先輩がくすりと笑う。風にそよぐ草木のような、穏やかな笑みだった。
「図書館で、不思議の国のアリスを本棚に戻すきみの手つきは、とっても丁寧で綺麗だった。だからそれは、きっときみにとって大切なものなんだろうと思った。そんなきみがアリスを捨てた理由を、知りたいと思った」
「……」
 思いもかけない言葉に、私は視線を膝元に落とす。土まみれの、汚らしい本。その中で、捨てたはずの昔の私が見え隠れしている。
 ――大切、だろうか。不要なものだと、そう言って置き去りにしたはずなのに。
「ねえ、藍ちゃん。俺は思うんだ」
 先輩の優しい声が言葉を紡ぐ。風のようにどこにでも入り込む彼の声は、私の頑なな心の隙間すら、すうっと通り抜けていくようだった。
「『不思議の国のアリス』の最後は、アリスが夢から目覚めて物語が終わる。結局、アリスの見た不思議の国は、彼女の夢でしかなかった。――なら、彼女が目覚めたら不思議の国は消えてしまうのかな。それはすべて意味のないもので、目覚めたアリスはもう、夢見る少女ではないのかな」
「……」
「俺は、そうは思わないよ」
 返事はできなかった。
 顔を上げられない。本をぎゅっと握りしめた手は、微かに震えていた。
 この本をもういらないものだと、過去に置き捨ててきたものだと、そう言ってしまえるのなら、ここにもう一度埋めていけばいい。
 そうすれば今度こそ人知れず朽ち果てて、不思議の国は跡形もなく土に還る。だから、再びここに捨てていけばいいのだ。たったそれだけなのだ。

 ――でもできない。きっと私はそれをできない。わかっているんだ。

***

「良かったら、これからも時々会ってほしいな」
 先輩がいきなりそんなことを言い出したのは、二人で丘を下り、森を抜け、町との境まで戻ってきた時だった。
 すっかり明るくなった朝の町。土曜早朝のけだるい空気が、そこかしこに漂っている。
 そんな中、私たちはのんびりと信号待ちをしていた。それだけのはずだった。
「え……?」
「藍ちゃんさえ、嫌じゃなければだけど」
 彼にしては珍しい、ためらいがちな歯切れの悪い言葉だった。
 私はなんて答えていいのかもわからなかった。そもそも、いったい何を聞かれている? どう解釈したらいい?
 ぐるぐる考え続けて、私は黙ってしまったきり二の句が継げない。その間に信号は青になったけど、私も先輩も一向に前に踏み出す気配がない。
「えっと」
 やがて先輩が、困ったように自分の頭に手をやる。
「これ、一応そういう意味、なんだけど」
 息をのむ――すべての音が、止まった気がした。ゆるくガソリン音をふかせる車の音も、徐々に活動し始める人々のざわめきも、一瞬にして私の周りから消えた。残ったのは、鼓膜の奥で響き続ける、「そういう意味」と控えめに微笑む先輩の声だけだった。
 音と一緒に私の声もどこかに行ってしまったようで、喉は閉じたきりなんの言葉も生み出さない。まるで、震え方すら忘れてしまったかのように。
「……どうして?」
 結局、なんとか言葉にできたのはそれだけだった。
 呆然としている私に対して、先輩はこともなげに笑う。けれど、その瞳の奥では逡巡の色が揺れている。
「僕はもうきみの一部を知ってしまった。知る前の僕には戻れない。だから」
 優しいふんわりとした、けれど迷いの見え隠れする、純朴すぎる笑顔で彼は言う。
「きみのこと、もっと知りたいなあって。――できれば、きみの中の、アリスと一緒に」
「……っ」
「それともきみは、こんな普通でない俺は嫌かい」
 ――そっか、こんな顔もするんだ。そう、まるで普通の男の子みたいにぎこちなく微笑む彼を、私は驚くほどすんなりと受け入れていた。
 本当は、こんなにも不器用な人だったのかもしれない。ふとそう思った。妙に他人との距離が近くて、近づいてくる相手にはいくらでもずけずけと入り込んでいく。その癖、常に自分の世界を守って崩さなかった彼。その中には、自分の本心すら言うのにためらう、不器用な少年がいたのかもしれない、と。
 私がどこか特別なものに感じていた彼だけの世界はなりを潜め、今私の目の前に立っているのは、戸惑いがちに思いを告げるなんでもない平凡な青年だった。
 けれど私は今度こそ、視線をそらすことなく先輩の目を見つめ返す。
 同じように、先輩も私を見ている。チェシャ猫でも、帽子屋でも、青虫でも、白ウサギでも――決してそのどれでもない、一人の青年が私を見ている。
 先輩は先輩以外の何者でもありはしないのだ。自分だけの世界で文庫本を開く先輩も、チェシャ猫みたいに余裕たっぷりに笑う彼も、周囲に合わせて合コンなんかに来る俗っぽい彼も、こうして戸惑いがちに告白する彼も。きっとすべて、彼自身でしかなかった。
 そして私は、答えを告げる。

「私も……先輩を知りたい、です」

 先輩がまぶたを瞬かせた。
 私は顔を上げたまま、胸元に抱えた古びた本をぎゅっと抱きしめる。行き場のない、捨てたはずだった過去のアリス。けれど――、

「できれば、私の中のアリスと一緒に」

 ――きっとアリスは消えないだろう。
 だって、それはもう一人の私だ。いつまでも背中合わせの、私自身だ。
 きっと私はいつまでたっても不思議の国を夢に見るし、小さなアリスは私の中に住み着き続ける。いくら普通に焦がれようと、この先平凡な現実に埋もれようとも、きっと私は何度でも、この丘と薄汚れたアリスの本を思い出す。
 先輩が先輩であるのと変わらない。皆と同じでいたい自分も、夢見る幼いアリスも、すべて私自身なのだから。
「先輩、私は――」
 私は思うのだ。
 本では、アリスが夢から目覚めて物語は終わる。でも、不思議の国が幼いアリスの夢であったのなら、その夢さえもアリスの一部。不思議の国さえも彼女の生きる世界の欠片であり、すべて愛すべき、アリスの世界なのだと。
 だからきっと、何を夢見ようと私はここに生きている。少し普通で少しおかしい、確かな私の世界に。
「私は……普通じゃない先輩も、普通の先輩も、嫌いじゃないです」
 その言葉に、先輩の両目が見開かれる。私はその深い深淵を、見通すように見つめ返した。
 先輩がどこか人とずれているように、私がいつまでも幼いアリスを垣間見るように、人は誰しも内面に、隠しておきたい小さなアリスとワンダーランドを抱えているのかもしれない。
 それは甘い優しいだけの世界ではなくて、少女の胸を躍らせることもあれば、トランプ兵の槍のように鋭く胸を刺すことだってある。拠り所となることもあれば、居場所のない生きづらさを生むことだってある。けれど、それでもすべては今の私に地続きに繋がる、決して捨てることなどできない、自分の一部なのだった。
 もう、自分を置き去りになんてしたくない。向き合いたいと初めて思う。先輩とも――私自身とも。
「そろそろ行こうか、藍ちゃん」
 先輩が、そっと左手を差し出してくる。その手を取ることを、一瞬私はためらった。見上げると、先輩の穏やかな顔が優しく私を見下ろしている。
 ――きっと私はこれからも、何度だって迷うだろう。不思議の国と現実の狭間で、やりきれない自分に泣くんだろう。
 普通であるために吐き続けた嘘の鎧はあまりに厚く、そう簡単に突き破ることなどできはしない。二つの私の深い溝を埋めることなんて、可能なのかもわからない。
 けれどあなたは、そんな私を知りたいと言った。
 だから私もあなたを知りたいと思う。
 私は生身の自分のまま、この小さなアリスを抱いて、あなたとあなたの中の不思議の国へと手を伸ばす。
 自らの手で。

 差し出された先輩の手を、私はぎゅっと握りしめる。
 そして私たちは、黄金色の夏の名残日の中へ、二人並んで溶け込んでいく。

 視界の隅に、風変わりな白ウサギとそれを追いかける幼い少女が、ちらりと見えたような気がした。

(終)

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