「思い出のマーニー」 ジョーン・G・ロビンソン/越前敏弥・ないとうふみこ訳


かなり遅ればせながら、今年になって初めて「思い出のマーニー」の映画を見ました。その後本屋で原作を見かけて、なんとなく手に取っていました。

映画って結構改変されていたのですね。全然知らなかったです。原作では登場人物も舞台もすべてイギリスで、日本の話ではありません。イギリスの海辺の町、リトル・オーバートンの美しい風景とともに、アンナの成長が綴られていきます。

以下、ネタバレだらけなのでお嫌な方はご注意を。


主人公のアンナは、孤独な女の子でした。
少なくとも、自分ではそう感じていました。実の母と祖母は物心つく前に亡くなっており、彼女たちは自分を置いていってしまったのだ、という怒りに似た思い。また引き取られたプレストン夫妻に対しても、ひょっとしたら自分を愛していないのではないか?と感じるようになります。
それは、プレストン夫妻がアンナを育てるために支援金をもらっていたことを偶然知ってしまった、という事実が大きく、彼女の孤独感を増す原因となりました。

アンナは思います。世の中には目に見えない魔法の輪のようなものがあって、みんなは「中」にいるけど、自分は「外」にいる。お茶会やパーティーのような「中」の出来事は、自分には関係ないこと、と。


魔法の輪とは、その「中」とは、なんなのでしょうか。
人の輪、社会の輪。その中に入っていけない寂しさ。もちろんそんな意味もあるでしょう。アンナは誰からも愛されていない自分を、他の皆とは違う場所にいるように感じていました。

でも終盤にはこうも書かれています。
「あと二分もすれば湿地屋敷に着くだろう。そうしたら、まきのいいにおいをかいで、パチパチ火のはぜる音を聞きながら、ほかのみんなといっしょに暖炉のまわりで足をあたためたり、お茶とこんがり焼いた丸パンを食べたりするはずだ。けれど、そんなときよりも「外」で雨風にさらされてたったひとりで堤防を走っている今のほうが、むしろ自分が「中」にいると感じることができる」

この表現がとても好きです。誰かと一緒にいることだけが、暖かな場所にいることだけが「中」にいる方法ではない。私はそういう風に感じました。

魔法の輪というのは、自分自身の中にもあるんじゃないかな、と思います。
自分の心の奥底の、自分を支えるルーツのような場所。それは自信であったり、他者からの、もしくは自分から自分への愛情の自覚であったり。
それが足りなくなると、魔法の輪はどんどん小さくなってしまう。自分を支えるものがなくなると、拠って立つ術を失い、他人とどう向き合っていいのかもわからなくなる。
「中」と「外」というのは、自分と他者とを区切るものであると同時に、自分の中にもあるものなのではないか、と思います。
そして、自分の「中」と世界の「中」は繋がっていて、自分を支えるものがなくなると、みんなからも弾き出されたように感じてしまう。

アンナはマーニーと出会い、初めての親友であり、祖母であり母代わりでもあった彼女を知りました。
かつて愛されていたことを知り、ミセス・プレストンと和解したことで愛情の自覚を取り戻し、そしてリンジー一家という素晴らしい家族との交流も得ました。
そしてアンナは最後に、ミセス・リンジーに「もう中にいるの」と言っています。

誰でも感じうる孤独感や疎外感。
けれど、ふとした拍子に立ち帰ることのできる心があれば、きっと輪の「中」に戻れる。だから、愛されていることを忘れてほしくないし、自分も忘れないでいたい――そう思わされた一作でした。

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