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人とのご縁と学びについて。senaの雑多な呟き。

人との出会い。これは不思議なもので、その時々に必要な人と出会い、次のステップに進む時がくればその人との別れが来る。そして、次の出会いがある。それでも、縁のある人は別れてもまた繋がる。人との出会いは全てタイミングであって、縁のある人とはなんだかんだ途切れないものだと私は思っている。

こいつムカつく!!ほんと嫌い!!

こんなことを思っても、数ヶ月、数年経って自分自身が成長すれば「あの出来事はこの為にあったのか…」と感謝する時がやってくる。

出会いと出来事。全て意味があって不要なものはない。

私自身、摂食障害になって、人生で1番楽しいであろう青春時代を地獄の日々のように感じて死にたいしかなかった。それでも今は、自分を省みる為に必要な出来事だったんだと思えている。遅かれ早かれ、あの10年間に匹敵する出来事がどこかでやってくるものだった、と感じられるようになった。


『その時に自分に必要な人と出会い、次のステップに進む時に別れがくるものだ』こう思うきっかけになったのは、私を摂食障害と鬱の地獄から救ってくれた人との出会いと別れ。あのタイミングで出会ったからこそ、過食嘔吐を克服しようと頑張れたし、大丈夫そう…となった3年後に別れがやってきた。あのタイミングで出会わなければただの迷惑なウザい人となっていただろう。

クソな人との出会いも。なんだかんだ振り返ってみると、今の自分がある為に必要な人だったんだなあ…と。何かしらその人から学ぶことがあって成長できたと思う。

それだけでなく、人からの指摘。「は??」と聞き入れたくないものでも、ある人からはそう思われている訳で、その人からそう思われる原因というものがある。その時は分からずに反発したくなるだろう。それでも、意味が分かるときがやってくる。人間は自分が1番可愛いと思ってしまう生き物。どんな人でも自分を贔屓して、自分のことを分かっているようで分かっていない。だからこそ、反発したくなる。怒りの感情を抱く時ほど、自分が大切にしている何かを傷つけられた、阻害されたということだ。

自分のことを凄いと誇りに思っている人ほど、自分は完璧だと思い込んで劣っている面に目を向けられない。そうでないと言っていても、認めたくないだけ。

知るということ。知ろうとしないことが愚かなだけであって、知るというのは知識だけでないということ。この意味は分かるだろうか。

『自信』は自分を信じることであって、自分が全て正しいと、自分の過ちを認めないことではない。

これは理解できる人にしか分からない。こんなの分かると言っている人でも、言葉の意味は分かっても本質を理解していないなんてことも。

人の意見を柔軟に聞き入れられる人こそ、大人だと思っている。

そんな私もまだまだなところはあるけど。納得しない限り、過ちは認められないし、過ちを認めても手遅れなんてこともある。とくに人間関係は。

一度、縁が切れたとしても本当に縁のある人なら、またどこかで繋がる。縁のある人なら、タイミングさえ合えばいつでも繋がる可能性はあるものだ。縁が切れている期間は、それぞれが成長する期間なのかなあ…と。一緒になれる時がきたら、また繋がる。そう信じている。

こんな考えを言うから、ドライな人間とか冷たいとか言われるんだけど。人生、そんなもんだと思う。

一歩引いたところから。そして、斜め下から。これが私のスタンス。ただ、感情をコントロールできなくなると、斜め上から芯を狙ってドストレートに言ってしまうからこれはどうにかしたい。

私の課題は感情のコントロール。そして、頑固さをもう少し柔軟にすること。

全ては学び。自分に必要な出来事が目の前に起こっている。なんの為に、今のご縁と目の前の出来事があるのか。意味のあるものにする為にも、日々精進したい。