「AIに感情はあるのか?」という議論の虚しさ/世襲制度としての「人間」
極めて雑なラフスケッチをする。
本稿は、人間を世襲制度として考えてみた、その覚え書きである。
やや短絡的、圧縮的に書かれているが、メモ書きだという留保をしておこう。
執筆のモチベーションは、「AIとの相互理解」的なストーリーにひどく退屈さを感じることの原因を、言語化しておきたいからだ。
結論から言えば、こう言うことになる。
①「AIとの相互理解」は、「相互理解することができた」という信念を、主体が獲得したと言うことである。
②人間は世襲制度である。そうとしか説明がつかない。
①相互理解、相互性ということ
「分かり合えた」という信念
舞台は近未来、アンドロイドと人間のストーリーテリングで、飽き飽きしている要素がある。概ねこういう感じだ。
「お前はプログラムに沿って返答しているだけなんだろ!! そんなの偽物の感情だ!!」と人間がブチ切れた後、なんやかんやあって和解し、「君にも感情があったんだ!! 君と本当に分かり合えたんだ!!!!」と抱擁しあって終わるタイプの物語。
これが前提としているのは、逆説的に、「私と同じ」人間と喋っているときには、相互的に感情を交わしている信念を獲得していることだ。
この「分かり合えた=相互理解」は、相互的なものだというより、主観的な信念の体系の変更である(なぜなら相互的だと確かめるすべはなく、その意味もないからだ)、と僕は言いたい。
要は、言語ゲーム論の延長である。
不当なグラデーション、信念の体系
二次元キャラクターとの相互コミュニケーションは、かねてからのオタクの欲望だったに違いない(「超えられない壁」への逆説的なフェティシズムであったにせよ)。
Gatebox、ラブプラス…キャラクターとの「相互」コミュニケーションを落とし込んだオタク作品は、恐らく枚挙に暇が無い。
スクリーンの向こうに話しかけることが、はたから見れば「滑稽」に見えることはいうまでもない。しかし、己の信念体系のチェックをしていない上でそのように考えるのは、もしかしたらいささか不当なことなのかもしれない。
親しい友人となら、当然分かり合える。赤子には言語が十分に通じないが、分かり合えているように感じる。犬はどうだろう、言葉がわかっているような「気がする」。だが虫には通じない。でも、大事に飼っているカブトムシなら? 水槽からいつも僕を見つめている金魚なら?
AIチャットボットは、的確な答えを返してくるが、そこに感情はないだろう
…。
ごく簡単な思考実験を元に、次のように言おう。すなわちこうだ。
何故、生体高分子で構成されている場合「相互性がある」と考え、半導体で構成されている場合「相互性が無い」と思えるのだろう。
いかにAIチャットボットが巧みな返答をしたとて、まだ僕は「相互性がある(ボットの発言に感情がある)」という信念を獲得できはしない。そういう言語ゲームは成り立たない。と、現時点では考えている(そういう信念を僕は持っている)。
でも、もっと半導体が人間に近い見た目を纏ったら……信念が書き換わってしまうかもしれない。
そういった判断基準は、畢竟主観的(環世界的?)なものだと僕は考える。
家族的類似性
この不当なグラデーションは、きっと「家族的類似性」の補助線を引くことができるのではないか、と思う。
「感情がある」とは、「『中国語の部屋』的な想像力を消し去るリアリティ」のことなんだろう。
何らかの機械的(!)な処理が成されていることを「感情が無い」と思ってしまうこと。ひどく撞着的な言い方だが、ここに越えられないパースペクティヴがあるように思う。
友達は僕と似ている。生体高分子で構成されているし、ヒトゲノムを持っているし、国籍は日本で、日本語を喋る。同じ地域で住み、趣味も似通っている。気の合う奴だ。
だが魚はどうだろう。魚は人間ではない。だから気持ちも通じていないはずだ。……よくよく見ると、なんだかぼやっとした表情が僕に似ているかも。こいつも、この水槽が気に入っているのかな…なんて考えたりすると、少し「類似性」が見出せるのかもしれない。水槽をつつく僕の指に魚が反応すると、多少の愛らしさを覚え、そして、こいつはもしかして僕のことをわかっているのかな……などと考えてしまう。
こうした「類似性」が、「相互理解」という信念を獲得する上で、重要な条件になってくると、僕は考えている。
結局、「AIにも感情があるんだ!」というオチは、そう感じた主体の信念体系が変更された、ただそれだけだ。
AIに善性が宿るとか、感情があるとかいった議論は、AIが人間に寄ってきてるだけで、それを我々が自分との類似性でジャッジしている、ただそれだけだと思う。
だから僕は、それにノることができない。
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「本当は○○」を探ることには意味がない。「本当に相互的かどうか」は、そもそもあきらかにすることができないからだ。
重要なのは、そのゲームの運行に参入することなのだ。あるいは、自身の信念の体系が書き換わることを、チェックすることなのだろう。
②世襲制としての人間
人間とは何か、という問い直しがあるように思える。
「ロゴス・理性・言語」はもう人間の専売特許ではない。そこに感情があるかは置いておいて、人間に話しかけるより、AIチャットボットに話しかけている時のほうが、会話自体は成立するように感じる……そんなときもある。
逆に、「そこに感情がある」という言語ゲームが可決された時、AIは本当に人間になるのかもしれない。
さらに言えば、「人間」が希薄な家族的類似性に支えられていると喝破されたとき、権利上、その他のどんなものでも「人間」の言語ゲームに参入しうる。
事実、人間ではない架空存在で、法の下では人間と扱われる存在がある。「法人」だ。
そういった意味で言うと、「人間=人権」という構図も見えてくるのかもしれない(「人間」とは既得権益である?)。人権が人間を保証しているのだ。
そういう意味では、価値判断はさておき、「動物愛護」も、「人間」という言語ゲームへの参入の一形態なのだろう。
そういう意味で、人間とは、世襲制の権利であり、制度なのではないか。
そしてそれは、家族的類似性という曖昧な線引きにおいて絶えず脅かされる、あやふやな言語ゲームの上に成り立っているのではないか。
「ポストヒューマン」思想は、僕にとってこのようなライン上の問題である。
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今のところ、人間性を支えているものは、先述した「ロゴス・理性・言語」の他に、科学的な観点として、「ヒトゲノム」を持っているか、というところに落ち着くのではないかと思う(その「ヒトゲノム」という名称に頼っている点で、撞着的ではあるが)。
だが、そうした整理も、どうにもうまくいかないような気もするのだ。
例えば、右足が義足の人は当然人間だろう。半身がサイボーグなら? 人間だろうか。それでは、頭意外の身体がサイボーグなら? 頭がサイボーグで体はヒトゲノムで構成されていたとしたら?
「身体全体に対して、ヒトゲノムで構成された割合がメジャーであれば人間」という唯物的な定義も、なんとなくうまくいかないのだ。
こうして、頭を捻れば捻るほど、人間の定義は難航する。
だから、暫定的に、「人間は世襲制度としてしか、説明がつかない」といった結論に横着するに至ったわけだ。
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優れた言語ゲームは生命に似ている?