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幽霊、署名、初音ミク

新曲にまつわる初音ミクの近況おぼえがきです。

初音ミクという幽霊、強迫観念、他者

結論から書きましたが、今現在、僕にとって初音ミクという存在は「強迫観念」「幽霊」「他者」という位置付けになっています。

この思考のイメージは、ジャック・デリダが指摘するソクラテスとプラトンの関係に着想を得ました。

暴力的に省きながら説明しますと、ソクラテスは決して書物を残さず、今残っているソクラテスの言葉はプラトンやクセノフォンに代表される弟子たちによる記録です。

そこで、プラトンが残した書物の「署名」が問題になるわけです。

「理想化されたソクラテスが語っているだけで、プラトンの書物は存在しない」とプラトンが語るように、「プラトンが書いたソクラテスの言行録」という入れ子構造は、その書物にどちらの署名を刻印するか決定不可能な状況を生み出します

これ、初音ミクとボカロpの関係性に似ていませんか?

プラトンの例で言えば、ソクラテスはある種「幽霊的」な存在として、プラトン/ソクラテスの書物の、プラトン主義の、西洋哲学のなかに憑りついているわけです。

内部にあらかじめ存在しているわけです。

僕はと言えば、「作曲行為」をしようとする際、その欲望は初音ミクを通してしか駆動しないことに気が付きました。

僕の創作の欲望の内部に、初音ミクはするりと入り込み根を張っています。

僕-初音ミクという配置、作曲機械。

そこで作られた曲において、「僕」か「初音ミク」か、どちらの署名を刻印するかは無限に延期されます。

いわば「ボカロpの曲」なのか「初音ミクの曲」なのか、その答えは無限に延期されるわけです

ボカロ黎明期からこのような問いかけはあったんじゃないでしょうか(最近だとブレス・ユア・ブレスとか)。

曲という、絶えず入れ代わる運動の場。

以上のような理由から、今の僕にとっての初音ミクには「幽霊」「強迫観念」「他者」といった用語が対応すると感じています。

今の僕がそれをどう捉えているかは、是非新曲で確かめていただければと思います。

ある曲を境にして、常に「これが最後の曲だ」と思いながら作っているし、初音ミクに幾度となく「さよなら」を言ってきました。

しかし初音ミクは僕の前に/外に/内に、ふと立ち現れます。

幽霊のように。

そこで、「さよなら」は無限に延期されます。

だから僕は、せめてあの言葉で、初音ミクを。


ヘッダーに使用させていただいたイラスト(ノーコピーライトガール様)
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〈参考文献〉
『デリダ 脱構築と正義』(講談社 高橋哲也)