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日記 10/27

  • 角ヶ丘ニュータウンを散歩した。

  • 立地は、モノレール沿線を団地が囲っているようなイメージ。

  • 構造物。いかにも寂れて錆び付いた物件もあれば、中産階級向けの物件もあった。ハロウィンが近いということで、仮装した子供をよく見かけた。

  • 遊歩道は二時間半ほどで踏破した。それなりに趣深い場所もあった。

  • まずは地蔵尊。坂を下ってゆくと、何処までも伸びていく下り坂の脇に、つづら折りになっている上り坂があらわれる。その二股の分かれ道の部分に、地蔵尊が鎮座していた。

  • 綺麗に手入れされていて、赤い布をなびかせていた。

  • あとは、公園。

  • まだ昼下がりなのに、その公園だけ夕暮れみたいだった。背景の寂れた家屋がそう感じさせていたのだろう。

  • 僕の背後で声が聞こえた。老婆だった。僕に対して発したのか、警戒感由来の人に聞こえる独り言なのか(母がよくいうやつだ)、よくわからなかったけど。

  • 夕闇通り探検隊の1エピソードみたいで、よかった。

  • 母の発する、人に聞こえるようなわざとらしい独り言が、僕は本当に嫌いだった。それは独り言のようでいて、実は人に向かって発されているのだ。応答可能性を前提としているのだ。それが嫌だった。

  • 母が人前だけで独り言ちているか否かは、母が本当に一人で過ごしている時の独り言を観測しようがないため、無論知りようがない。だが、リビングの扉を開ける前、ひっそりと聞き耳を立ててみても、母の(いつも僕の前でするような大きな)独り言を聞いたことは無かった。母の独り言は、決まって僕がリビングの扉を開けた時から開始する。それが嫌だった。

  • 野良猫に遭遇した。写真が撮れる程度に近づいたけど、のんびりしていて逃げるそぶりはなかった。僕が近づいてもあくびをするのみだった。よく見ると桜耳だ。地域猫。今日だけで、8匹くらいの猫と遭遇した。地域猫の活動については、しっかりと行き届いている印象だった。

  • その代わりと言っては何だが、公園脇の共用花壇みたいなスペースは機能していなかった。

  • 団地におけるコミュニケーションについて考える。

  • 何を求めてここに住むのだろう。角ヶ丘駅近くの物件はミドルクラス向けだ。駅から離れるほど、この団地のコミュニティ生きるしかなくなってくる。都市部までのアクセスも、好立地の謳い文句に反して、その実体は乗り換え続きである(例えば与内駅までは34分)。駅からあれだけ遠ければなおさらだ。

  • 電車内では『観光客の哲学(東浩紀)』を読んでいた。東浩紀の言う「観光」は、個人的な語彙に直せば「散歩」なのかもしれない。偶然性、無責任、回遊。

  • 僕が思う「観光」はアテンションに結びついているが、そのうちに整理しないといけない問題でもある、と思った。

  • 草むらから聞こえる鈴の音が、やわらかく風に吹かれている。

  • どこからかピアノの旋律が聞こえた。試し弾きしているような風で、コードとコードの合間に、遊びの音色が階段をゆっくりと登るように響いていた。綺麗だった。

  • 資本について。都市空間と欲望。どっちがどっちを反映しているかとかは知らないけど。アリが塚を作ることと、人が都市を作ること、そんなに変わらないんじゃないか。

  • 否定性の行使は何も、人間だけの特権じゃない、なんて思う。

  • アリは塚に生かされているが、塚を作るのはアリであるから…それが環世界、領土。人間もそうだろう、と。

  • 単純にその範囲(人間の領土)が、資本主義を手に入れてしまったから、たまたま地球全域(もしかしたら将来的には宇宙にも)及んでしまっているだけかも。

  • フロー、人の移動、流れ。何でもない街並み、そこに何かを見出せるかもしれない。境界とか。

  • 満員電車から人が降りてくる様を、電車の排泄のようだと思ったことがある。電車の分泌物。一斉に扉が開き、ホーム上には人が溢れる。電車は、人を抱えるだけでは動くことができない。人を排泄し、改札機を通らせ、そこから得られる収益の内原価となる部分を得て動力を獲得し、また人を食らう。食らっているのは人ではなくて、正確には資本なのだろうけれど。