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よう、私だ

 先日美容院でついうっかり「ライブに行く予定だ」ということを口走ってしまい、後悔しました。そんなん言われたら「誰のですか?」という質問が返ってくるに決まっているからです。
 そこでサクッと答えてしまえばいいのに口籠もったのが余計気持ち悪かったかなとか、「え、超特急、知ってますよ」への答え方の正解は果たして何だったんだろうかとか、思い返してちょっとショゲ……となるんですが、自分が好きなもののことを人に伝えるって、めちゃくちゃ難しくないですか?しかも美容師さんってかなり微妙な立ち位置で、客の好みを知れたら今後ちょっとスタイリングに反映できるかな、くらいのはずで決して「フ…フフ……そうなんですよ……10周年で……」みたいな情報はいらないはずなんですよ。でも「知ってますよ!僕が知ってるくらいだから人気でしょ?」って言われたのでニッコリしました。

 私、好きなものがたくさんあるんですよ。
 3年通ってる美容室の担当さんは今回初めて私の口から好きなアーティストの固有名詞を聞いたと思うんですけど、やっぱ好きなものをはっきり口にするってすごく難しく思えるんです。アーティストひとつとってそれが好きな人間として24時間生きていられるなら、あんなところで口籠もったりしない。でも私には好きなものがたくさんあって、そこから得たものがもっとたくさんあって、そうして出来上がった私という人間にとってのベストアイドルが、超特急というかたちをしていまそこにいます。

 そんな超特急が先日ニューアルバムを出したんですね。
 サブスク流行以前から音楽が好きな人にとって、アルバムってすごく特別なものだと思います。ヒットチャートに乗っかっている一曲も単体で魅力あるものとしてそこにあるんですが、それぞれの意味を持って一曲一曲が一つの流れに貫かれ、一つの大きな作品になっている。歌詞カードをめくりながら次はどんな曲だ、とワクワクしながら好きなアーティストのニューアルバムを聴いた原体験が、私を音楽好きにさせた最大の理由だとも思っています。とは言っても、最近は私もサブスクをバキバキに使い倒す音楽過食症患者と成り果てていますが。
 そんなサブスク時代に放たれた超特急のニューアルバム、『Dance Dance Dance』は完全サブスク対応となっていまして、前アルバム後に出されたシングルの収録は一曲のみ、他13曲全て新曲というキレっぷり。これは「サブスク時代に既存曲をアルバムに入れる理由がない」という思い切った判断によるもののようです。
 その代わり、アルバムは全曲通して一つの明確なコンセプトに基づいており、それは「コロナ禍で自由な移動を制限されているリスナーに、世界各国のダンスミュージックを届けたい。旅行に行けない代わりに音楽で世界旅行を」というものです。
 健気すぎる。Covid-19の影響を食らっているのはエンタメ業界も同じなはずで、それなのに必死で自分たちの存在意義を「人を元気付ける」の一点で見出そうとしている。

 ちょっと話脱線します。
 私超特急を知ったの、ここ1年ちょいの話で超のつく新規なんですけど、ハマりたてのオタクって最初は歴史を遡っていろいろ見るじゃないですか。で、超特急結成前の練習生時代のメンバーのブログとかこう、古代遺跡の発掘みたいな気持ちで読みますよね。もうあかんぼみたいな顔したメンバーががんばります!とか家族とキノコ狩りに行きました!とか書いてるの。かわいいこども、微笑ましい。
 でもその中で現・超特急5号車のユーキさんね、イベントの告知や報告でいつも「みんなを元気づけたい」「前を向いてもらえるように」とか書いてるんです。まだあどけないデビューもしていないこどもが。最初は真面目な子だなあ、なんて適当に読み流してたんですけど途中で気づいちゃったんです。10年前、2011年という日付に。
 なんかもう、気付いちゃったら泣けてきちゃって。確かに私はあの時暗闇の中にいて、下を向いて、ふるさとがめちゃめちゃになってしまったことにひどく落ち込んでいました。
 私はあの時ユーキくんのことをもちろん知らなかったし、その後も8年も9年も超特急のことろくに視界に入れずここまで来ました。そんなあの時の私が、10年越しに励まされたんです。10年前の、未来も決まっていないはずなのに自分のダンスは人を元気付けるためにあると信じているあどけないこどもに。
 だから、ユーキくんって、すごいんですよ。(脱線終わり)

 そんな超特急のニューアルバム、テーマがテーマだけに少し、いやかなり危ういなと思う部分があり、今読んでくださっているあなたももしかすると、そのことについて考えたくてこの記事に辿り着いたものと思います。それなのに私ときたら長々と前置きだの脱線だの書き連ねて、いやあの、違うんです、これから書こうと思っていることは私がどの視座に立っているか、どういう言葉を使う人間なのか、明らかにした上で初めて意味があるものになるので多少のくどさはご勘弁ください。


1.前提

これを書いてる人:学生時代に西洋史をやった人。主に18−19世紀の植民地主義と西洋からアフリカ地域へのまなざしについて。ただのOL。超特急というダンスアンドボーカルグループのファン。
特記事項:私はおまえを傷つけるためにこれを書いているのではない。厳密さを必要とする話題のため、この記事内の情報が間違っていたら教えてほしい。


2.なにが危ういのか、危うい、とはなにか

 アルバムの一曲『大大大地』について触れます。アフリカをテーマにした曲で、"アフリカ的な"打楽器のリズムを取り入れたファンクです。その歌詞の内容を一部以下に引用します。

行くぜ大陸縦断 赤道超えて喜望峰
「嵐の岬」改名 希望を見出した眼
大地から海 漕ぎ出せるか航海

 喜望峰というのはアフリカ大陸の南にある岬のことで、歴史の上ではヨーロッパ諸国が大航海時代(だいたい15-17世紀)に非ヨーロッパ地域、特にインド地域との交易路を開くにあたって重要な意味を持ちました。
 それまでは地中海貿易を介してヨーロッパとアジアの交易が行われていたものが、まずはポルトガルやスペインといった西欧諸国が喜望峰を通じた航路で直接アジアにアクセスできるようになり、香辛料の取引でポルトガルは莫大な利益を得ました。これを皮切りに加速した東西の貿易によって生まれた富が、西欧諸国全体に飛躍的な発展をもたらした、というのが近世(おおよそ〜19世紀初頭)までのおおまかな流れとして通説となっています。
 ここで注意しなければならないのは、この歌詞にもあるような喜望峰の描かれ方が、極めてヨーロッパの目線に立ったものである、ということです。「嵐の岬」を「喜望峰」に改名したのは誰か?「希望を見出した」のは誰で、その希望とは誰のものだったのか、というのを一度考える必要があります。
 アルバム発売にあたってウェブで公開されたライナーノーツにおいても、この点で注目すべき表現がありました。

 15世紀の発見当初は“嵐の岬”と名付けられながら、後に“希望の岬”と改名された喜望峰のエピソードを引用して、ポジティブなパワーを高めているのもアツい。
https://bullettrain.jp/news/news19348/

 喜望峰や、コロンブスにとってのアメリカ大陸にも当てはまることですが、それらを"発見"したという表現は歴史学では使われなくなって久しいものです。ヨーロッパがそれらを"発見"する前にもそこには暮らしている人々がいて、文化があったからです。
 こうしたヨーロッパの視点に基づいた世界認識、歴史認識は"ヨーロッパ中心主義"と呼ばれ、正すべきものとして扱われています。要は「俺たち世界を正しく解明したくて歴史だの文化だのをこねくりまわして研究しているのに、そもそも俺たちのものの見方って偏ってない?」という反省のようなものです。これ自体がヨーロッパ側の欺瞞であるという見方もありますが、その点は今は割愛します。

 ここまでの説明で、
・まず大陸を縦断して内陸から航海に出た人間はいない(単純に叙述にデカい間違いがある)
・アフリカをテーマにしているにもかかわらず、地域外の視点で描かれている
ということがご理解いただけるかと思います。
 また、歌詞の以下の部分にも言及したい点があります。

我が与えし物は金か銀か大地か

 前述のヨーロッパの勢力の拡大は主にアジア地域に及ぶもので、ポルトガル、オランダに次いで17世紀以降はイギリス、フランスが互いに争いながらインドに盛んに進出していきます。一方アメリカ大陸への進出も着々と進み、それらの地域の資源を得ることを目的として、各地に西欧諸国の植民地が次々と形成されていきました。
 植民地の拡大はヨーロッパ諸国に利益を集中させ、産業革命を経てその力を強大なものにしました。19世紀以降、これら軍事力や技術力を持った列強は互いに競って植民地の更なる獲得に邁進していきます。
 アフリカ大陸はこの流れの中で抵抗運動や列強同士の戦争を経て次々と西欧諸国の統治下に分割されることになりました。
 非ヨーロッパ地域の植民地化の目的が徹頭徹尾本国の経済的利益であったことは明らかですが、アフリカ地域、特に南部においてそれはまさしく鉱山資源でした。この歌詞に登場する金銀、あとはダイヤモンドなんかでしょうか。
 本国と植民地の関係が経済的に搾取の構造になっていたことは最早説明不要かと思います。アフリカ大陸は現在に至ってもなお金銀の産出地なので植民地主義のイメージにのみ結びつけるのは乱暴ですが、金銀は過去、誰に「与え」られたものだったのか、「奪われた」ものではなかったか、この歌詞を読むと私はじっと考え込んでしまいます。

 アフリカ植民地がその後どういった歴史を辿ったかについても触れておきます。
 第二次大戦後、民族運動の高まりなどを契機にアフリカ諸国は独立を達成します。しかし現在に至って植民地支配の影響を完全に逃れたとは言い難いようです。アフリカの地図をご覧になると、直線的な国境がいくつかの部分で目立つことが分かるかと思います。これは分割統治の際に列強の都合で境界線が決定されたためで、それが今も国境のかたちで残っているものです。
 問題はそこに元々居住していた民族の枠組みや生活が考慮されていなかった点にあります。勝手に引かれた直線はひとつだったはずの民族を分断し、現代のアフリカにおける内戦・紛争の火種となりました。
 
 植民地政策が植民地の側にとって正当なものではなかった具体的な理由は、私の知識の範囲ではおおかたこのようなものです。
 『大大大地』という曲の歌詞の問題点はこれらの歴史を正しく認識せず、適当なGoogle検索によってのみ書かれたようなお粗末さにあると私は考えます。結果、アルバムのコンセプト構想当初のごくごくハッピーなテーマを損ねているのではないでしょうか。


3."他"の文化に触れるということ

 一曲のみならず、アルバム全体にぼんやりとした危うさを感じる方もいるかもしれません。他者の言語や音楽性や文化的エッセンスを、日本人が作る音楽に乗せて日本人が消費することはなんかちょっと、大丈夫なのか?と考えて立ち止まる人もいるかもしれません。いわゆる"文化の盗用"にあてはまるのではないかという指摘です。

 使われ始めてから比較的年月の浅いことばなのでなんとなく怖い、得体の知れないイメージないですか?誰かが誰かに怒られてる時に使われてることばだな、というか多分日本で暮らして日本の社会の中でそれなりにやってるマジョリティにとって、このことで怒る側になる機会は基本的にないので、このことばの明確な意味や意義について真剣に考えたことのある人ってほとんどいないと思います。日本人であるにしろそうじゃないにしろ、このことばを使って何かを批判したことのある人ですら、ではここで言う"文化"とは、その定義はなんですか、と問われて自分の言葉ではっきり答えられる人がどれだけいるでしょう。
 
 文化とは現在さまざまな解釈を得て多方面に分化している概念です。だからこそ一口に定義するのが困難なのですが、"文化の盗用"を論じる際の文化とは、"文化資源"であると定義すると理解が容易になるようです。
 文化、文化資源を元々持っている一集団(民族、地域など)がその文化によって得られたはずの利益を、他者が利用し得ることで損ねた場合、それは明確に盗用、盗んだことになります。
 そのことで利益を得るかどうか、元の文化を持っている集団の利益を損ねる、もしくは元の文化そのものを損ねるかどうか、また、両者の間に社会構造上の格差があるかどうか、多角的に考えてみる必要がありそうです。
 
 音楽というのはその伝播性の高さから、優れたジャンルやリズムが他の地域で好まれ取り入れられ再構成されて新しい価値を産むということを繰り返しやってきました。
 今回のアルバムにしても、「日本のアイドルがJ-Popでこれやるのかおもしれー」になるのか、「この曲のこのジャンルの取り入れ方は本質的じゃないし間違いがあるからダサいよね」になるのかは聴く人の音楽リテラシーと文化リテラシーのバランス感覚によるところが大きいかと思います。

 他方で、よその文化を扱う以上、最低限のリスペクトがあるべきだ、という向きはもちろんあろうかと思います。ただリスペクトのあるなし、大切に扱っているかどうかの線引きはどこにあるか、元の文化を持っている人が怒ったらアウトなのか、怒らなくてもアウトなのか、いろんな人がいろんなことを言うからつい「いろんな意見があるよね…」と一歩引いてしまいたくなりますよね。

 ただ、『大大大地』を聴いてシンプルにアフリカの特定の民族名を挙げたり、超特急にそれっぽい民族衣装の着用を期待するのであれば、自らのアフリカ観がいわゆる"未開"のイメージに固定されていることを自覚するべきだし、曲の内容がそのように仕向けているのであれば指摘されるべきだと私は思います。
 これはまた歴史と関連する問題で、先述の植民地支配はまさに"未開"のイメージによって正当化されていたという経緯があるためです。
 飛躍的な科学技術の進歩を経た列強は「アジア、特にアフリカ地域は"未開"でヨーロッパに比べて劣っており、われわれがそれらの"文明化の使命"を負っている」とし、各議会でその旨の発言がされた記録も残っています。そうして一方的な搾取を目的とした植民地支配は正当化されました。

 一方で、当のアフリカはどうかという話になるとさらに一周しているという指摘もあります。
 つまり植民地支配やヨーロッパ中心主義的なものの見方への反省自体、ヨーロッパ側の内省の域を出ておらず、アフリカはアフリカで自らのアイデンティティと他者からのイメージとの間にさほどの軋轢を感じていない、というものです。たとえば多くの日本人が外国のトンチキエキゾチックジャパンイメージ(ニンジャがいて東京の隣に富士山があるような)に怒らないのと同じようなものかもしれませんがすみません、ちょっと自信がありません。これはもちろん考え方に地域差や個人差があるとも思いますので指摘の一つとするに留めます。
 とすると日本は実に二周遅れであるとも言えます。同じ視点に立っていると勘違いしてはいけなくて、先方が二周まわって帰ってきたところにただぼんやり立っているだけなのでしょう。
 結局そうやってぼんやり『大大大地』なんていう曲を生み出してしまった日本の社会に生きる日本語話者が考えるべきことは、自分が何に無自覚であるかについてと、無自覚でいることの良い点と悪い点のバランス、というところかなあと思っています。

4.私は結局誰に、何に怒るべきなのか、怒るべきではないのか

 これについては冷静じゃない順に書き起こします。
 
4ー1.私の推しが最悪ソングを歌わされていること
 超特急ってほんとにいいやつらなんですよ。人の前に立ってたくさんの人にポジティブな気持ちを届けるお仕事なので当然と言えば当然なんですけど、実際それが当然じゃないってこと、薄々みんな気づいてるじゃないですか。それでも私が良く知りもしないタレントのことを「いいやつ」って言いたくなるのは、彼らがまず隣にいる人間にまともにやさしいからなんですよね。メンバー間で「そのままでいてほしい」「守りたい」「すごいよ」って気持ちがやりとりされているのを見る度に、特別な瞬間を目撃した気持ちにさせられる。
 多分その延長なんでしょう。ファンのことを8号車と呼んで、8号車もメンバーだと謳って、いやそんな、ファンはファンだよこちとら残酷な消費者よ私はそんないいもんじゃねえやめろ助けてくれって思ったりもするんですけど、なにしろめちゃくちゃいいやつらなので「8号車もメンバー」という文句を信じてなんかすっごいやさしくしてくるんですよ。ただ楽しませることに特化して練習を積み重ねてきたことが分かるパフォーマンスがあんまり魅力的で、8号車、って呼びかけられる度、私も情けないことに普通に幸せになっちゃったりするんですよ。自分は消費者だって言い張ってるくせに。
 そんな超特急のダンスは最早ダンスのためのダンスではなく、歌うための歌でもなく、めちゃくちゃいいやつらがひとを幸せにするために不断の努力で勝ち取ったある種の特殊技能であって、私が大好きな7号車タカシさんのパワフルで天井知らずの歌声は、最悪ソングを歌うために使われていいはずがないのです。いやもう、すごいの。大大大地のタカシさんの歌声。まだそんな引き出しあったんですか?って思わず問いかけたくなるくらいの振り切れっぷり。絶叫と歌唱の狭間でギリコントロールを保っているような声。これ生で聴きたいよ。内容が内容じゃなければ、ライブ会場でイントロかかった瞬間飛び跳ねて喜んじゃうかもしれない。だから尚更悔しくなったりして。

4ー2.これが世に出てしまった構造
 私は別に上で説明したような歴史や、思想について誰か個人が無知であることを罪だとは思いません。全ての人に知識の均一化を強いることを知性とは真逆の行為だと思っているからです。知ることはむしろさまざまなひとやものへの寛容さを得るための行為であり、やさしくあるための一つの手段です。
 ただ、極めて商業的に作られて利益を生む音楽に関しては、ある程度の思慮が要求されるとも当然思っています。
 超特急という最高ハッピーなプロジェクトを作っていくために発注された一曲は、どこかで、つまり業務上のいずれかの段階で、「これは果たして本当に最高ハッピーか?」と検められる必要があったのではないでしょうか。いや分かる。難しいよね、仕事って。自分だけで全部やってるわけじゃないしワケワカラン間違いがあらゆるチェックを素通りして嘘みたいなタイミングで明らかになったりするよね。でも私はスターダストレコーズのママではなく自分で働いたお金でCDを買っている側のオタクなのでスマン!抱きしめてやれん!出されたものはえらいひとの検印が押されてるもんだと思ってる!
 また、今回の当該クリエイターについても同様の印象です。キャリアもあり、多数のクリエイターを抱える事務所の代表の方のようですし、もうちょっとどうにかならんかったかね?とすら言ってしまいたい気持ちもあるんですが、その辺は次に書きます。

5.そんなこと言ったってさあ

 そこで一つ、おそらくこれはこの問題に触れた超特急のファンが最も恐れることだと思うのですが、「では超特急のメンバーにその責はあるのか?」という問です。
 結論から言うと、メンバー自身に作品の根本的なクオリティコントロールを負わせるのはさすがに酷であろう、というのが個人的な感想です。というのも"超特急"というのはそもそもメンバーが全ての楽曲を作り発信しているアーティストではなく、さまざまな人が関わってできる巨大な複合的プロジェクトだからです。私はそのことがコンテンツ、主に楽曲のクオリティを担保しているとも考えていて、超特急を好きでいる理由の一つでもあります。だからさっき「えらいひとの検印が押されてる」って書いたんですけど。
 一人の強大な才能に惚れ込んで惚れ抜いて楽しむ音楽もあれば、こうしてプロジェクトとして継続していくこと自体を楽しむ音楽もあり、それらは構造的に全く違うものです。表に見えているのが5人の綺麗な男性なのでその点理解せずに仮に批判が彼らに向かうのであれば、それは率直に言って認識不足ではなかろうかと思います。
 いずれにせよこのアルバムのまずさは、とんでもないバカがたまたまやらかした類のものではなく、日本の社会全体が培ってきた認識の甘さ、無自覚さからにょっきり生えてきたものなのではないでしょうか。その土壌に水をやってきたのは私かもしれないし、あなたかもしれない。この問題をただ「気づいた側」として断罪することは簡単ですが、果たして「ちょっと運営〜」「メンバーもさ〜」と言えるほど私および私が暮らしている社会は成熟しているのでしょうか?
 定められた法律に反しているわけではありません。ナントカ法に違反しているので逮捕される前に曲を取り下げた方がいいですよ、という話だったらむしろ単純で曲を取り下げたところで逮捕されるだけですが、誰も逮捕はされないし問題はもっと根深いところから発生しているので、今回生えてきたキノコだけを切り取ってもおそらく次のキノコが生えてくるだけでしょう。
 
 超特急のファン、もしかすると今これを読んでいる"あなた"が恐れるであろうことは容易に想像できます。なんだか難しいことを言う、超特急のファンではない、あなたの大好きな"推し"がすごく素敵な人であることを知らない、"誰か"が大挙して"炎上"を"仕掛けて"くるかもしれない。(私も既にその一人とみなされているかもしれない)よくわからないものによって"推し"が傷つけられるかもしれない。もしくはこのアルバムがテーマとしているどこかの地域の"当事者"が"傷つく"ことがあるかもしれない。だとすればその作品を受容している自分は罪深いのではないか。
 恐れないでほしいです。呑気に大丈夫だと言っているわけじゃないんです。私が今ダブルクォーテーション""で括った部分は全て定義が曖昧なものです。その恐怖と戦うすべは、その全ての意味を明らかにし、自分の中で定義することで持てると思うのです。
 正常なファンダムの一員でありたい、というプライドもすごく理解できます。おそらくそれはとても大切なことです。
 私も正常なファンダムの一員でありたいし、もっと言えばその前に正常な社会の一員でありたい。何が問題か、その線引きはどこか、考える人でいたいと考えることはそういうことだと思います。
 
 私、好きなものがたくさんあるんですよ。
 その中のひとつが、歴史学ってやつなんですけど。
 別に中学高校と日本史世界史が得意だったわけでもなく、大学でもなにか期待して学び始めたわけでもない。研究者になるのは途中で諦めちゃったし今は1ミリも関係ない仕事をして暮らしています。
 でも歴史学は私にものごとの見方を教え、言葉の使い方を教え、世界を少しだけはっきり見えるようにしてくれました。それが歴史学ではなく別の学問だとしても同じだったかもしれません。
 たとえば化学や物理学を学べば、見えているものの成り立ちや動きが理解できるようになるでしょう。
 たとえば経済学を学べば、株価の値動きが世界にどう影響しているか知ることができるでしょう。それは思いがけない角度で自分の生活にも影響しているかもしれません。
 それぞれの学問にはものごとの見方やその単位、言葉の使い方が明確に定義されています。どの分野にしても学問が学問として成立している以上、学んだ人間の思考回路を整理し、手足の動かし方を教えてくれます。
 もし今回、好きな音楽になんらかの問題が隠れていると気づいた、もしくは誰かに気付かされたことで漠然とした恐怖を感じている人がいるのであれば、この記事の頭からもう一度読みかえしてほしいです。あ、いやごめん自信ないかもしんない。こんな何処の馬の骨ともしれないオタクの書いたダルい文章じゃなくてほんとは学者の書いた本を読んでほしい。でも多分そんな熱量も時間もないと思うんで、世界は複雑なこと、その世界を正しくとらえるための言葉の定義や方法論があること、それを知っていれば漠然とした不安や怒りではなく冷静さを得られること、ひろゆきの切り抜き動画を見るなということを、私は"あなた"に伝えたいです。じゃあね。