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少女とくらげ

 とても昔に書いた小説がひょこっと出てきたので。一生懸命書いたなあという記憶があります。宜しければ、お読み頂けますと嬉しいです。




 くらげになった夢を見た。

 海面にふよふよと浮かんでいるときれいな満月がぼんやり見えた。こうして漂いながら見る月も良いものだなと思いながら回りを見渡せば自分と似たような姿のくらげが一匹、同じように月を見ていた。まるい体がゆらゆらと海と踊る。小さな月がもういっこあるみたいだな、とくらげになった自分の手をそっと伸ばした。

 

「先生、先生! くらげに刺された!」

 海からの帰り道、まだ少し砂の残る足で私は綾瀬医院と表札のかかった小さな病院へと飛び込んだ。すると待合室のソファに座った幼い女の子の前にしゃがみこむ先生の姿が見えた。先生は私の姿を見て、おだやかにほほ笑むとすぐに女の子の方へ向き直った。ひどく柔らかい輪郭をしたその子の傍らには心配そうな顔をした母親らしき女性が寄り添っていて、先生に体温計を見せている。先生は、女の子に向かって話しかけた。
「喉、痛いですか?」
  こくん、と小さな頭がゆれる。
 夏風邪はしんどいんだよなあ、とスリッパに履き替えながら思う。熱が出るのも、喉が痛いのも、本当にしんどい。でもそのしんどさを半減するかのような力強い手つきで、先生がそっとその女の子を抱き上げた。 
「では診察しましょう。お母様もご一緒に」
 きりんに小熊が抱きついているような格好で白衣の裾を翻しながら、先生は診察室へと入ってゆく。私も小熊になりたいなあとうらやましく思いながら、ソファに座った。きっとあの子はすぐに良くなる。なぜなら先生は魔法の手を持っているから。

 先生が先生のおじいちゃんからこの病院を受け継いだ時から、先生は私のお薬だった。八歳で風疹になり、おたふく知恵熱、鉄棒から落ちて膝と額に大けがとありとあらゆる病気や傷を先生に治してもらってきた。私は、先生は魔法の手を持っているのではないかと思っている。だからさっきの女の子だってすぐに元気になるだろう。そんなことを考えながら待合室の壁に掲げられた『管理医師 綾瀬匠』のプレートを見上げていると、診察室から大きな泣き声と、それをなだめる困ったような先生の声が聞こえてきた。うん、注射は私もすきじゃないな。眉をひそめ、私はくらげに刺された右足のくるぶしをなでた。
「これは見事に刺されましたね」
 無事女の子の診察が終わった後、私は看護師の加代子さんに案内され、診察室の丸椅子に座った。先生は一応パンツが見えないように気を使って差し出している右足の患部をしげしげと眺め、そしてふと気が付いたようになんの表情も変えず、私の太ももを隠すように水色のタオルをかけた。少しくらい見てくれてもいいのに、先生はいつもこうだ。
「痛みはありますか」
「うーん、少し」
「ちょっと腫れてるからなあ……」
 そう言って大きな手で刺された跡に触れた。その手の冷たさに、私は小さく笑う。
「先生、相変わらず手が冷たい」 
 私の言葉に先生は、手の温度を確かめるかのように自分の頬にそれを当てた。「本当ですね。びっくりしたでしょう」
「ううん。冷たくって気持ちいい」
 私がそう頭を振ると、先生は安心したように笑顔を見せた。そうやって笑うと片二重の先生の目はひどく優しげに見える。

 このひとが私のものになったらいいのにな。

 そんな感情が体の奥から湧き出て、私は先生に触れたくなる。先生の手がくらげに刺された跡ばかり触るのが気に食わない。感情がぐちゃぐちゃなのが自分でもわかる。扉一枚隔て、加代子さんからお薬の説明を受けているさっきの女の子のことを思い浮かべ、「先生」と声をかけた。「先生、さっきの女の子早く良くなるといいね」
「蝶子ちゃんの」先生は傷跡を消毒しながら私の顔を見ずに話し始めた。「蝶子ちゃんのカルテは五歳の水疱瘡から始まっています。祖父が診たものです。それが十七歳の現在までずっとつらなっています。水疱瘡を経験して免疫をつけて、すりむいた皮膚を再生して。ひとつひとつ痛いことやつらいことをやっつけてきたこの事実は、蝶子ちゃんと蝶子ちゃんの体が頑張った証拠です」
「私すごい?」
「すごいです。蝶子ちゃん以外のひとも皆。だからさっきの女の子もまたすぐプールに通えるようになるでしょう」
「ああ、それはすてきだね」
 私は小熊が浮き輪にぷかぷか浮かんでいる姿を想像してくしゃりと笑った。すると先生は、「プールにくらげはいないので安心です」と至極真面目に頷いた。

 綾瀬医院のすぐ隣に私の家はある。もうすでに家の前の道路を歩く私の姿を見つけていた飼い犬のタロウが、嬉しそうに声を上げた。背丈の低い生垣に囲まれた庭に居住を構えるタロウは、道行くひとや犬に敏感だ。
「タロウ、ただいまー」
 ふわふわの白い毛をしゃがみこんで受け止めながら、挨拶をする。タロウはくるりと尻尾をふり、そして一旦自分の小屋に引っ込んだかと思うと何かをくわえて私の前にやってきて、それをまだ実の色づかない南天の木の下にぽとりと落とした。
「ぬいぐるみ? タロウ、どうしたのこれ」
 尋ねてみてもタロウは答えなかった。あんなに得意気な表情でこのぬいぐるみを持ってきたくせに、タロウは散歩中のレトリバーめがけて走り去って行き、喜びの雄叫びを上げている。タロウは大きな犬がすきなのだ。
 しょうがないのでぬいぐるみをタロウの小屋に戻し家に入れば、母親が台所でとうもろこしの皮を剥いていた。手を洗って私も手伝う。とうもろこしの透明なひげがくらげの足みたいで、私は刺された痛みを思い出した。
「あのね、今日海でくらげに刺されて今先生に診てもらってきたの」
 そんな私の報告に、母は器用にとうもろこしの実に挟まったひげを取り除きながら口を開いた。「これ茹で上がったら先生にも持って行きなさい。今日タロウがかわいいぬいぐるみ頂いたのよ。ホームセンターで目に付いて買っちゃたんですって」
「ええ? あのぬいぐるみって先生が買ってくれたの? 何、それ。タロウずるい!」
 タロウ相手に本気で嫉妬している私を見て、母は笑った。
「一番お世話になっているの、蝶子じゃない。本当に優しいいい方よね。もしお嫌じゃなければ、ぜひともご紹介したいお嬢さんがいるんだけど、どうかしら」
 その言葉に、「絶対いや」と私が即答する。
「あんたに聞いてないわよ」
「だってきっとお見合いなんかに興味ないもん。確かに今先生は一人であの病院守ってるけど、加代子さんだってうちの家族だって近所のひとたちだって皆いるし、皆先生のことすきだもん。だから先生、寂しくないよ」
 駄々をこねるようにそう口にした私の頬を、母はそっとなでた。私がものすごく先生のことがすきなことを、このひとは知っている。
「大人になるとね」母は静かな声で話し出す。「大人になると自分の立場とか周囲の目とかそういうものを嫌でも意識しないといけない部分ってあるの。先生はいつもおだやかで優しいけれど、今の蝶子みたいに誰かに我儘でもなんでも本当に自分の感情をぶつけたいことだってきっとあると思う。その相手は加代子さんでも、うちの家族でもない。残念だけど。それは、わかるでしょう」
「……先生みたいな大人でも?」
 とうもろこしの、今にもはじけそうな実に目を落としながらそう尋ねると、母は今まで私が聞いたことのないような声で、「大人だからこそよ」とぽつりとつぶやいた。

 夕食の支度を手伝って自分の部屋へ戻ると、小さな星が見えた。本物の星が確認できる時間になると、この部屋の天井には蛍光塗料の塗られた星型のシールがぼんやり浮かび上がる。この星は私が風疹になり、初めて先生に往診を頼んだ時に貼ってくれたものだ。
 絵本で読んだごんぎつねが人間になったらこんな感じなのかもしれないと思うような風貌の若い医師の診察を、私は泣きながら受けた。おじいちゃん先生のふかふかしたあたたかい手とは全く違って怖かったのだ。
 それでも冷たい手で丁寧に、ぎこちない笑みを浮かべながら診察する先生を見てこのひとに甘えたい、と思った。だから訴えた。熱くて喉が痛くて眠れない。夜になると暗くなって怖い、と。そんな私の甘えを先生は真剣に受け取り、母に了承を得て、ただでさえ高い背をぴんと伸ばして天井に小さな星を貼った。その星は今も色あせず光を放つ。私は眠りにつく前、その光を見上げ先生のことを考える。あの大きくて冷たい手が、私のものになりますようにと。

 

 その翌日、私は夏休みの課題である読書感想文を書くために本屋へと足を向けた。木製の本棚に収まった文庫本の背表紙を眺める。『こころ』『あらくれ』『柿の種』『銀の匙』『酒道楽』。『銀の匙』かな。直感で決め、その一冊を手に取る。そうしてふと目線を横に向けると、私の中の光を見つけた。先生だ。私はまっすぐな背中に飛びついた。
「え、蝶子ちゃん?」
 振り返った先生は小さく声を上げ、そしてすぐに柔らかくほほ笑んだ。私のすきな顔だ。嬉しくなって私も笑うと、その振動がくっついたままの先生の体に伝わって行く。半袖から伸びた先生の腕の先には小難しい文字の羅列。アドレナリン作動薬、β2アドレナリン作用薬、交感神経作用薬。呪文みたいだ。
「蝶子ちゃんもお買い物ですか?」
 問いかけに、私はさっき選んだ本を見せた。
「読書感想文これで書こうって題名で決めたの。先生、読んだことある?」
 そう尋ねると先生は手にしていた本を閉じ、「優しいお話ですよ」と静かに口にした。「読んでいると蝶子ちゃんやタロウを見ている時と同じ気持ちになります」
 先生のその言葉に、私はタロウの尻尾を思い出し、幸せな気持ちになった。そして先生も私を見ると少しはそういう気持ちになってくれるのかと気恥ずかしくなって、思わず本を握りしめる。銀の匙銀の匙銀の匙。私が掬い上げたい感情はただひとつ。目の前の人間が持っている貴いものです。

 買い物を済ませ外に出ると夏の空気に包まれた。私は昨日見た海の色を模写したような真っ青な空を眺めながら、本屋の紙袋を大切に胸に抱えた。そこには『銀の匙』と、先生が買ってくれたくらげの本が入っている。平台に並べられていたものを手に取り、興味深く眺めていたら先生がプレゼントしてくれた。
「先生、ありがとう」
 商店街を並んで歩きながらお礼を言うと、先生はふわりと空を見上げた。つられるように私も空に目をやれば、まぶたにひとつ冷たいものがあたった。雨だ。真っ白で濃い雲が頭上を覆ってゆく。私は本が濡れないように羽織っていたパーカーの中へ大事にしまった。
 夏の雨は一瞬で世界を水浸しにする。先生と一緒に表通りから一本路地に入った所にある公園の東屋へ駆け込んだ時には、切りそろえられた髪から首すじへ水が滴り落ちるくらいにはずぶ濡れになっていた。だけどパーカーに包んだ本は無事で、私はほっと息をついた。公園の片隅では青紫色の紫陽花が、雨粒を受けて小さくゆれていた。
 先生は紫陽花の咲く方へ目を向けながらベンチに腰掛けたので、私も向かいに座る。雨の降る、まるで蜘蛛の糸を弦にしてバイオリンを弾くようなかすかな音を聞きながら、私はくらげの本を開いた。
「先生、見て。ウリクラゲって紙風船みたいでかわいい」
「ほんとですね。へえ、この筋みたいなものが虹色にひかるんですか。興味深い」
「あ、オワンクラゲの触手ってジュディオングの衣装みたい」
「……蝶子ちゃん、まだ十七歳ですよね?」
 先生と話すのは楽しい、そして楽しそうな先生を見るのはもっと嬉しい。私はひらりと次のページをめくる。するとそこには白くて長い触手を持つユウレイクラゲが写っていた。
「とうもろこしのひげみたい」
 ぽつりとつぶやくと、先生は思い出したように顔を上げた。「そうだ、とうもろこしご馳走様でした。とても美味しかったです」
 先生のその言葉で、私の頭には昨日の母の言葉がぐるりとよみがえった。本当の自分の感情を伝えたい相手。そんなひと、本気で紹介するつもりなのだろうか。そして先生がそのひとをすきになったらどうしよう。
 急に心配になって先生の片二重の目をじっと見ていると、大きな手が私の額に触れた。「熱はないようですね。お腹でも痛くなりましたか?」
 その掌に私は安心して、首をふった。先生の目は優しくて深い。
「先生、海の中のくらげって白くてふわふわして、深海に住む魚たちから見たら空に浮かぶ月に見えるかもね」
 きれいなミズクラゲが海の中を漂う写真をそっと指でなでる。「私は月じゃなくて先生が貼ってくれた星を見上げてるけど。先生、覚えてる?」
 そう尋ねると先生は安心したように笑いながら私の額から手を離す。瞬間、私は無意識にその手を掴んだ。
「蝶子ちゃん?」
「先生。私、自分でもばかみたいだなあって思うけどいつも星見ながら願い事するの。先生が明日も笑っていますように。先生が私のことすきになってくれますようにって」
 ぴく、と掴んだ手がゆれるのがわかった。ぼんやりときれいに浮き出た先生の手の血管を眺めれば、無意識の中にも周囲を覆う雨の音は耳に入ってきてなんだか泣きたくなった。紫陽花は、この雨が嬉しいだろうか。

 おだやかに名前を呼ばれ、私は顔を上げる。

「蝶子ちゃんに僕が触れるのは診察の時だけです。それ以外の時に、それ以外の感情を持って触れるということは、それは許されないことというものです」
 まっすぐに先生はそう口にすると、静かに私の簡単な縛りを解きベンチから立ち上がる。
「僕は先に帰ります。雨はもうすぐやむでしょう。蝶子ちゃんは雨がやんでから帰ってきてください。風邪をひいたら大変です」
「……先生も、寂しい時ってある?」
 先生は一瞬思考のとまったひとのような顔で私を見て、すぐに柔らかく笑った。
「ありません。大人なので」

 

 許されないことですと口にした先生の言葉が、これから先願っていた先生の嫁になったりデートしてみたりというささやかな私の欲望を全否定するものであったのではないかと気付いたのは、それから二日後のことだった。    母の作ってくれた卵焼きをお箸で掴みながらその事実に気付いた私は、ショックのあまり口に含んでいた味噌汁をこぼした。そんな娘を見てしまった父もショックだったのだろう。出勤の際、玄関で母に、「蝶子の具合が悪いようなら綾瀬先生に診てもらうように」と言っている声が聞こえてきた。私は具合など悪くない。だから先生のところになど行かなくても良いのだ。そう考えた私は半ば意地になって家出をすることにした。私の世界の半径三キロ圏内から飛び出し、先生のいない場所へゆく。

 唐突にそう決心し、タロウを連れてまだ若い夏空の下を歩き出した。金色の目をした黒猫がタロウを見て威嚇する。一人と一匹で電車に乗る。隣に座ったおばあちゃんが氷飴をくれる。気付けば海辺の街に辿り着いていた。駅前を走る車道を渡り、駐車場になっている敷地を抜け、砂浜に足を踏み入れる。私は手にしていたキャリーケースをそっと下ろし、扉を開ける。すると、恐る恐るタロウが顔を出した。タロウは海を見るのが初めてだ。

「タロウ、これが海というものだよ」

 今まで知らなかったことを知るということは世界と感情の幅が広がるということだ。私はタロウに海の広さを教えようと波打ち際に行き水をぱしゃぱしゃやってみたが、しばらくするとタロウが飽きた、というように身をよじったので砂浜へと戻る。海というものに慣れてきたタロウが砂を掘ったりして一匹遊びを始めたので私もその横に座り込み、鞄から『銀の匙』を取り出した。まぶしい太陽の中、ひらりとその薄い紙をめくる。

 優しい言葉は読んでいて心地良い。その優しい言葉で主人公は自分のお気に入りの玩具を私に見せてくれる。その玩具の中で特に気に入っているものが銀の匙らしい。子供の頃引出しからからこれを見つけ、母親に、「これをください」とお願いしてもらったものだ。

 なんだかとてもかわいらしいなあと思いながらその台詞の箇所をそっと指でなでた。なでた後で、「これをください」の「く」の文字が私の目から落ちた涙で薄くゆがんだ。

 私に、先生をください。

 涙が頬を伝わり、焼けるように喉が熱くなるのを感じながら祈るようにそう思った。先生のいない場所に行きたいと思った。でもむりだ。半径三キロ圏内どころか先生は私の中にいる。先生に治してもらった体、治してもらった傷、すきだと思う気持ち、先生にしか触ってもらいたくない体。ばかみたいだ。
 思い出すのは銀のへら。先生のおじいちゃんが喉を診る時に使っていたものだ。だけどおじいちゃん先生はいなくなり、新しくやってきた先生は木のへらで喉の診察をした。銀のへらじゃないことに気付いた私は、「どうして銀のへらじゃないの?おじいちゃん先生どこに行ったの?」と首を傾げた。そう尋ねた私の頭を、先生は悲しそうな顔でなでた。中学生になってようやくおじいちゃん先生は心臓の持病が悪化して亡くなり、その後を大学病院に勤めていた先生が継いだのだということを理解した。悲しそうな、先生の目の色。先生の寂しさに、無意識の悪意で触れてしまっていたことに気付いたのもその時だった。その夜、天井の星を眺めながら私は先生に謝った。過ぎたことに対する謝罪の仕方も子供の私はわからず、ただ心の中でひたすらに謝った。何十回も、何百回も。
 そこまで記憶を辿り、そうか先生も悲しむんだ、と改めて感じた。先生はいつも優しく笑っている。だから先生の中はいつもおだやかで、大波が打ち寄せることなんてないのだと勝手に考えていた。でも違う。多分母が言っていたように、真っ暗な感情だって先生の中にあるんだ。それを私に見せないのは、私が子供で対等じゃなくて先生が自分の暗闇を見せるだけの人間じゃないということだ。
 ばかみたいに流れ落ちる涙が頬を伝って胸元に沈んでゆく。ぼんやりと空を見れば水色の空に白い月の残骸。先生に会いたいと思った。思った時、わん、というタロウの声が遠くで聞こえた。遠く? なんで?
 隣を見ればあるのはタロウが穴を掘って遊んだ形跡だけで、本人はいなかった。驚いて声のした駐車場の方向へ裸足のまま急げば、駐車場と車道をつなぐ歩道にタロウは尻尾を振りながら立っていた。

「タロウ!」

 声を上げながら道路をはさんで反対側にある駅舎を見れば、立派な毛並みの柴犬を連れた少年の姿が見えた。大型犬探知機能を駆使したタロウは、理想の犬を見つけ大喜びしている。私はその姿を見つけたことに安堵し、歩みを速めた。その瞬間、タロウは力強く前足を蹴り、果敢にその柴犬に向かって走り出した。私の視界に、右側から走ってくる白いトラックが映る。

「タロウ!」

 大きく足を踏み出した瞬間、かかとにちらりと鋭い痛みが走った。ガラスの破片でもあったのかなと思いながらタロウに向かって手を伸ばす。タロウの尻尾がふわりとゆれた。

 

『高校生、飼い犬を救う』

 七日、午前十一時頃、松ノ島駅前の車道で飼い犬を守ろうと仙丸市内に住む青山蝶子さんが車の前に飛び出した。幸いにも車は道路に倒れこむ青山さんと飼い犬のタロウくんの前で停車し、事故には至らなかった。青山さんは自分の不注意でこのようなことになり、大変申し訳ないと反省しきりだったが、この様子を近くで見ていた相澤虎之助さんは、「飼い犬のためとはいえ、なんのためらいもなく助けに行けるとは」と驚いた様子で語ってくれた。タロウくんは青山さんが小学生の頃に拾ってきたという。二度も青山さんに助けられたタロウくん。そのうち青山さんに素晴らしい恩返しをしてくれるかもしれない。

 

 車にぶつからず一人ですっ転んだ私は、海の近くの町立病院に救急車で運ばれた。救急車を呼んでくれたのは、相澤虎之助さんで、検査入院をすることになった病院では、「犬のお姉ちゃん」と小児科病棟の子供たちに大人気だった。新聞の地方版に載ったコラムのせいで。タロウの恩返しは子供たちのヒーローになれることだったのかな、と首を傾げながら検査を終え、ようやく自宅に帰宅できたのは、入院してから一週間が過ぎた頃だった。 
 迎えに来てくれた両親と家に帰ると、居間にタロウと私の記事が入った額縁が飾られてあった。母は、ふてくされた私の様子など気にも留めず、「お腹すいたでしょ。今お母さんご馳走作るから」と張り切りだし、そしてふと思い出したようにエプロンの紐を結びながら私を見た。「ご飯の前に綾瀬先生と加代子さんにご挨拶してきなさい。とても心配してくださったんだから」
 私は明日行くと返事をし、かさぶたが出来つつある右頬の傷に手を触れた。

 

 時計の秒針が頂上できれいに重なり合ったのを確認して、私は家を出た。午前零時、「明日」だ。庭に下りると何事かとタロウが近づいてきたが、そっと体をなでれば安心したように目を閉じた。父の話によると、タロウはずっと元気がなかったらしい。だけど昨日ただいまの挨拶をすれば、大型犬に会った時のような最上級の喜びを見せてくれた。この子はとても大切。恩返しなんかしてくれなくても、長生きしてくれさえすればいい。
「タロウ、今日は一緒に散歩に行こうね」
 そんな約束をして、私は不法侵入を試みる。隣の家の、先生の部屋に。

 その不法侵入の手段となる大きな桜の木に、私は裸足で足をかけた。立派な太い幹を持つこの桜の木の枝は、先生の部屋の窓へと続いて、先生の部屋を見上げれば、まぶしい光がもれている。先生が起きている証拠だ。その光になぜか祈るように神さまごめんなさいと思いながら、私は木を登った。そして無事ベランダへ続く太い枝まで辿り着き、用意していたまだ硬い緑色の南天の実を窓にぶつけた。
 こつん、と暗闇に溶けるような音が響く。ふと雨に濡れていた紫陽花を思い出しながら待っているとカーテンが開き、Tシャツ姿の先生が顔を出した。
「蝶子ちゃん!? 何をしてるんですか」
 不法侵入、と素直に答え、私は口を開いた。「こんな夜中にごめんなさい。でも私、先生と話がしたい」
「話なら……」
 先生はなんだか泣きそうな表情をして、すぐに小さく息をついた。「そういう時は普通に玄関から入ってくればいいんです」

 ぴょん、とベランダを飛び越えればすぐだからという私の意見を全く聞かず、先生は危険なので一旦地面に下りて玄関から入ってきなさいと譲らなかった。だから私は、玄関を入り待合室診察室廊下階段を通ってようやく先生の部屋に着いた。先生は温めた牛乳を持ってきてくれ、必要最低限の家具しか置かれていない扇風機の回る部屋の中、床に正座してそれを受け取った。「ありがとうごめんなさい」
 小さくそう言うと、今まで固まったままの目じりが少しほどけた。「昨日退院だったんですよね。加代子さんが教えてくれました」
「うん、色んな検査をしたけどどこも異常なかった」
 そう報告すると先生は静かに私の前にしゃがみこみ、冷たい手で傷跡のある頬に触れた。「何もない、というのは違うでしょう」
 私は久しぶりに感じる先生の手の感触を頭に焼き付けるように目を閉じた。でも二、三日ぶりは久しぶりではないのかもしれない。
「先生、私病院で先生に買ってもらったくらげの本ばかり読んでたの」
 毎日病院まで通ってくれた母に頼んで持ってきてもらったものだ。海に置いたままの『銀の匙』は持って帰ってこれなかった。今頃砂の中にうずもれているかもしれない。

「私、毎日くらげの写真眺めてたの。だからかな。家にいる時は先生の貼ってくれた星の光を頭に浮かべながら寝るんだけど、病院では目をつぶるとくらげの姿が出てきたの。まんまるいミズクラゲ」
 私が一方的に口にする話を先生は黙って聞いていてくれる。眠いのにごめんなさい、と心の中で思う。「でね、ついにはお昼寝してる時に自分がくらげになった夢を見たの。ふわふわって海の中を浮遊する夢。海の中から月を見ていてきれいだなって思った。そしてそれと同じくらい海って冷たくて気持ちいいなって。へんでしょう、夢なのに。でも起きたらやっぱり冷たい感触が触れていたような気がした。まるで先生の手みたいな、優しくて冷たい感触」
 そこまで言葉をつむいで目線を上げ、先生の顔を見る。するとそこには泣きたいような笑いたいような初めて海を見たタロウと同じ表情の男のひとがいた。先生は私の視線に気付きゆっくり目を細め、「眠っている蝶子ちゃんの頬に触れたのは僕です」と口を開いた。「最初は元気でいることを確かめられればいいと思って病院に行ったので、顔を出すつもりはありませんでした。だけど、ほんの少しだけ、と思って病室をのぞいてみたら蝶子ちゃんが気持ち良さそうに寝ていたんです。僕は安心しました。頬に触れたらきちんとあたたかかった。その時の、僕の安堵感がわかりますか?」
 こんな風に丁寧に乱雑に言葉を使う先生を初めて見た。驚いて、でもそんなことあるわけないと自分を押さえながら、ぎゅうっとカップを持つ手に力を込める。
「でも先生は、私を拒否した」
 子供すぎる自分がいやだと思ったのに先生の前に出ればやはり子供でしかなく、私はくちびるを噛む。あやすようにそこに触れたのは、先生の手だ。
「十七歳の子に気持ちがあるなんて、許されないことだと思いました。今もそう思っています。だけど蝶子ちゃんが事故に遭ったと聞いた時、僕は生まれて初めての感情を経験しました。それこそ冷たくて深い海に落ちていくようなものです。だから、蝶子ちゃんが無事だと聞いた時、僕は本当に嬉しかった。そして思ったんです。蝶子ちゃんに気味悪がられても拒絶されても僕が蝶子ちゃんを大事に思っていることを話しておけば良かった」
「私は先生以外のひとに触られたくない」
 掌に先生の体温を感じながら言葉を発する。先生はきっと罪悪感を感じているであろう少しだけ絶望を感じさせる表情で、その手をまだ赤味の残る頬の傷跡へと移動させた。
「傷跡が残らないといいのですが」
「くらげに刺された傷はきれいに治ったよ」
 カップをテーブルに置いて正座していた足を崩し、右の足首を先生に見せる。
「でも他に細かい傷がついていますよ」
「タロウを追いかけた時に裸足で走ったから、ガラスの破片とかで切れた」    大小様々な傷跡の残る私の足を、先生は大事そうになでた。「蝶子ちゃんのくるぶしは、胡桃みたいですね」
 私はそんなふしぎなことを言う先生の手に、自分の手を重ねる。先生の手は、冷たい。だけど先生に触れられ、触れられたところは火花が出るくらい熱いのに、無意識にこぼれる私の涙は冷たい。その涙を掬う手を、私は当然のように受け入れた。
「先生、くらげの毒ってね、アナフィラキシー反応を引き起こすことがあるんだって。一度刺されるとそれで抗体ができちゃって、二回目に刺された時その抗体がまたあの毒が来たって驚いてぐちゃぐちゃになるの。だから多分私もそうなる。先生が触ってくれるたびに、きっともうわけわかんなくなる」
 先生は静かに目元に触れ、大きな手でそっとくらげみたく透明なものを包む箇所に触れた。聞こえてきたのは祈りのような低い声。
「お願いですから、僕より先に死なないでください」
 このひとはもしかしたらとてもひどいひとなのかもしれないと思いながら、私はスプーンでアイスを掬うように先生の首すじをなめた。

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