見出し画像

有識者会議(第1回)メモ。

個人的な感想・ひとりごとです。
思い出しながら書いています。

7月14日に傍聴した文科省の会議は、「特定分野に特異な才能のある児童生徒に対する学校における指導・支援の在り方等に関する有識者会議(第1回)」というタイトル通り、古典的なギフテッド教育を日本に導入していく話かな?と思っていたら、アメリカの流れに沿ったレンズーリ先生寄りのインクルーシブで間口の広い才能伸長教育だったので、「おぉ!」と思いましたし、非常に面白かったです。

特定の子だけでなく皆の才能を伸ばしていくことで、特定の子達もきちんと拾い、そのスペシャル・ニーズもきちんと満たしていく、というインクルーシブかつ個性化・個別化(differentiation)教育ですね。最近よく言われている「個別最適化」です。すべての子を対象にしつつ、そのなかで個人のニーズに合わせてdifferentiateする、という方法で、マジョリティにもマイノリティにも優しく、公正だと思います。嫉妬やいじめなどから守ることができる利点もあると個人的には思っています。

SEMでもそうですが、才能は誰にでもある、がまずは大前提です。ただ、人が一人ひとり違うように、才能にも違いや個人差がもちろんあるので、すべての子の才能を(見つけて)伸ばす機会をまずは公平に設け、そのなかで、個人の才能に合わせてそれぞれ伸ばしていこう、ということです。誰にも気づかれていなかった才能を発見された「平凡なあの子」が救われるかもしれません。貧困家庭などではとくになかなか気づかれない才能児や2e児が眠っています。才能伸長教育が浸透すれば、救われる子が増えるわけです。

全体的な才能(well-rounded, オールラウンダー)だけでなく、特定の分野でマニアックな才能にもスポットライトをあてて伸ばしていこう、そして国にとって優秀な人材が結果的に出るのは良いとしても、将来的に優秀な人材を増やすためにポテンシャルの高い子達を選んで才能を伸ばすのはよろしくない、あくまでも主役は子ども達で、「困っている子ども達を支援していく」ところから始めるべきという松村先生のお話は素晴らしかったです。

日本では「同年齢」とか「先輩後輩の文化」というのが根強く残っていて、飛び級や飛び入学などの早修(acceleration)は文化的に難しいようなことをお話されていた先生がいらっしゃったような記憶がありますが、システムはわかりませんが、文化なら少しずつでも変えていけるんじゃないかと思いました。もし本当に変えていきたいなら。文化は流動的なものだから、いつのまにか我々地方でも節分には恵方巻きを食べることになっていたように、誰かが意図したらわりとすぐに変えていけるだろうと思うのです。

ただ、アメリカでも一部ではギフテッドプログラムに入るための早期教育や個人指導などがあるように、日本でもそのための塾や早期教育ビジネスが(アメリカより)乱立しそうです。会議の先生方もそれを懸念されていました。

早修(とくに3年以上の学年飛び級をするradical acceleration)はアメリカでも賛否両論です。が、科目別飛び級はともかく、学年を何年もradicalに飛び級する生徒は(アメリカでもニュースになるほどですから)割合的にはそこまでは多くないと言えます。情緒面や社会面で負担になる可能性もあることから、やはり小中高に在籍しながら大学のコースを取って個人のニーズを満たす等、さまざまで、なおかつ柔軟な機会が日本でも可能になるといいなと思います。(可能ならお財布にも優しければと願っています。)

息子もそうでしたが、とくに大学でしか学べない専門分野に興味がある場合、小中高にいるあいだは結局いつまでたっても「おあずけ状態」で、大学に進学するまで知的好奇心が満たされることがありません。独学である程度の知識は得られても、もっと濃く深く、どっぷり漬け物のようにつかって学びたい、その分野の専門家から本物を学びたい、質問したい、同じ専門分野のピアも含めて議論したい、語り込みたい、となると本当に難しい。運良くメンターなどが見つかればいいですが、そうでなかったら「早く大学に進んでしまいたい」という欲求に駆られるのも自然だと思います。

こういう子達は、良い大学に進学したいから早修するのではなく、アカデミック・ニーズを満たすために早修しています。大学に進学するという選択は、アカデミック・ゴールというよりは、十分に満たされることのなかったアカデミック・ニーズを満たすため(つまり目標でなく目的)だったり、適切な学び環境でニーズが満たされた故にさらに学びを深めたくなった結果であることが多いと思います。ソーシャル・エモーショナル・ニーズも、専門的に学べる大学のほうが満たされやすいとも思います。like-interestの仲間に出会えるからです。高校を中退するというリスクをとってまで早期大学に進学を決意する子達は、学びたい欲も意欲も強く、like-mindedである場合が多いです。

さまざまなコンテストなどがもっとたくさん身近にあるといい、それで救われる子達がいるだろうというお話もありました。本当にそう思います。学校の外で探しても(アメリカでも)年齢を含む条件があって、その条件を必死にクリアしているうちに本人の情熱の火が消えてしまったということが何度かありました。気軽に参加できる場やアウトプットできるさまざまな機会がもっともっと身近にあると、本当に多くの子達が救われると思います。

小学校などであれば、アメリカの学校のように show & tell や talent show などで、希望する誰もが「自慢のコレクション」や「ひそかな自信作やタレント」をお披露目する機会を学期に一回でも設けるのも良いかもしれません。それでニーズが完全に満たせるとは思えませんが、ないよりはマシかも・・・(すでに実施されているなら ごめんなさい。)

線引きすると必ず傷つく誰かがいる、というお話も出ていました。これはレンズーリ先生もよくおっしゃっていることです。できる子が退屈な授業で何も学べないでいることこそが不公平だ、という考え方があるアメリカでも、「今年度はギフテッドプログラムから外されてしまった」とか「引っ越した先のギフテッドプログラムの基準には満たず、入れなかった」という事態が起こります。だからこそ すべての生徒がそれぞれの才能を伸ばせるSEMが研究開発されたわけです。SEMは拡充教育ですが、拡充だけではニーズが満たせない子には、早修と拡充を組み合わせて行います。個別最適化です。これは特別なことではなくて、個々のニーズを満たす自然なことだと考えられています。

生まれ持った才能で「選抜」が行われるというのは(選ばれる側にとっても)リスクが伴い、慎重であるべきです。ギフテッドプログラムに反対しているのではなく、慎重であるべき、と思います。「みんな違って、みんないい」が標語のように掲げられるのは、「みんな違う」が前提として認められていないからです。明らかに違えば、そのニーズも(尊重されなくても)認められはしやすいでしょうが、若干なんか違う程度にしか見えない場合は(いろいろ割愛しますが)なかなか難しいです。

才能に伴う不適応感や不協和感などのケアやサポートも非常に大事ですが、そちらも今後さらに話し合われるようで、素晴らしいと思いました。ギフテッド教育大国のアメリカでは、ギフテッドプログラムでそのようなケアやサポートがなされていると思われているかもしれませんが、2eのためのプログラムや学校ならまだしも、一般的なギフテッドプログラムではとくになされていません。ギフテッドプログラムとは、あくまでも優秀な子のアカデミック・ニーズを満たすもの、才能を伸ばすものであり、その子達の「才能ありきの生きづらさ」は考慮もされていないプログラムのほうが大半ではないかと思います。アメリカも広いので断言できませんが・・・

ただ、息子が経験した私立のギフテッドプログラムや大学のタレントサーチでも、ギフテッド故のメンタルサポートというのはとくになかったので、公立の学校でギフテッドの特性に熟知したカウンセラーが常駐している可能性はかなり低いと思います。そもそもギフテッドプログラムがない学区や州もありますし、ギフテッドプログラムの質もピンキリです。ギフテッド教育の専門知識がない新人教師なのに突然ギフテッドプログラムを任されて非常に戸惑った、という複数の方の話も大学院でよく聞きました。それで問題意識を持ち大学院に学びに来た、という学校の先生方が私の想像以上に多かったので、とんでもなく驚きましたが、専門知識を学べる場所があるだけいいなぁと羨ましくも思いました。

それでもソーシャル・エモーショナル・ニーズについて学ぶ時間は少ないです。しかも必須でなく選択科目です。つまり、広大なアメリカ各地のギフテッドプログラム担当の教師が、アカデミック・ニーズはおろか、ギフテッド特有のソーシャル・エモーショナル・ニーズを把握していない場合も全然ある、ということです。それを思うと、14日の会議は、あらゆることを想定されて、慎重かつ(子ども達に対して)優しい眼差しが向けられたものだったと私は思いました。

蛇足ながらGDFというのはアメリカでも大学院でも聞いたことがなく、さっと調べてみましたが、松村先生の論文以外にはたどり着けませんでした。もしかしたら松村先生の概念なのかもしれません。とても納得のいく概念だと感じました。(訂正:GDFは水野先生提唱)

才能伸長こそ公教育で行うべきものだ、とレンズーリ先生は訴え続けられていますが、そして私も強く強くそう思いますが、議論でもあったように、まずは民間・地域と学校が連携して行っていくのもありだと私は思います。すべてを公立校の先生が担うのは厳しいんではないか、と思うし、準備ができるまでに物凄い時間がかかりそうだからです。アメリカのように「(良いプログラムが)あるところにはあるが、ないところにはない」になってしまう恐れもありますし、その「ないところ」は、なんとなくですが、地方になってしまうんではないかな、、、

まずはできることから始めていくしかないんじゃないでしょうか。そして走りながらどんどん改善や調整していけば良いと思います。

そのためにも、確か松村先生がおっしゃっていたように、学校は、まずは「子ども達の特性やマニアックな興味などに気づく」「見つける」「スペシャリストに繋げる」という役割が担えるといいんだろうな、と思いました。そのスペシャリストがまだ日本にはいないんでしょうが、アカデミック・ニーズであれば、その子の興味ある分野の専門家で十二分だと思います。まずは多くの方に知ってもらうことがとても重要ですよね。

ソーシャル・エモーショナル・ニーズ以外は、幅広く認知されれば、今ある人材やリソース(プラスα)でギリギリなんとかできるんじゃないかと思います。地方にも行き届くようにしてほしいです。心理面は、アメリカでも、いや、アメリカでこそ「学校では無理なので専門家にかかるべきです(should)」と言われてしまいますから、なかなか難しいと思います。(鍛冶屋は鍛冶屋的な・・)

駆け足で思い出し書きしてみました。あくまでも個人の感想です。

来月の第2回会議は傍聴できないかもしれません、、、残念、、

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?