また夏だね
あのひとが表舞台から姿を消して二度目の夏が来た。
大好きな、大好きなはずだったバンドも違う世界のものに思えてしまう。それは私の目線がぶつかる対象がいないからなのか、視点が変わってしまったのかはわからない。
マスクで半分しか見えない顔のように、なにかを隠されているような気がしてしまうのは被害妄想なんだろうか。ニューノーマル。化学繊維の下で笑っているのか、舌打ちをしているのかはきっと知らないほうがいい。汗に紛れた涙を吸うなら、少しは役に立っているのかもしれないし。
ひとがひとを忘れるとき、いちばん最初に思い出せなくなるのは声らしい。
あのひとが名前を覚えてくれた日、初めて呼んでくれた日、ものすごく嬉しかった。心臓が熱をもったような感覚は今も鮮明に思い出せる。だけど、その声を思い出すまでにかかる時間がどんどん長くなってきている。ラジオの周波数を慎重に合わせるように、記憶を重ね合わせながらノイズを消していく。ようやく微かに聞き取れるようになったけれど、これが正解なのかすら今となってはわからない。やっぱり、忘れかけてるんだと痛感する。
誰に呼ばれるよりも特別だった名前。それを思い出すだけで、死のうと思った夜も立ち上がれなくなった朝も乗り越えられた。世界でいちばん簡単だけど、この世でひとりしか唱えられない魔法だったのに。
解散ライブの日、私は何度もあのひとの名前を呼んだ。世界でいちばん好きな名前。私ひとりの声なんて届くわけがないけど、一回一回にありったけの想いを込めた。心が折れそうになったときの立ち上がる糧になりますように、と。
全部が終わったあとは、夕立の後の空みたいにいろんな感情がきれいに洗い流されて、穏やかな「大好き」という想いだけが残っていた。もう会えなくても大丈夫だと思った。
なのに。
またステージに帰ってきてくれたと思ったのも束の間、突然いなくなってしまった。
きっぱりと二度と会えなくなるより、もう一度会えるかもしれないと思いながら待ち続けるほうが辛いのだと思う。
待とうと思った。待ってると伝えた。それが重荷になると思った。なにも言えなくなった。待っているのが辛くなった。辛さすら忘れるようになってしまった。
「もしかしたら」「もう一度」なんて、捨ててしまったほうがきっと楽だ。
地獄で待つのも、もう限界かもしれない。
なにを待っているのかもわからなくなりつつある。
あの頃にもらったキラキラした感情は、硝子ケースにいれて飾っておこう。剥き出しの輝きは時に棘となりうるし、埃を被って曇らせてしまうのも嫌だから。また時が来たら取り出せばいい。
また夏だね。
毎年ツアーで、毎年違う街にいたね。
今となっては夢みたいな話になっちゃったね。
来年は、ひとりでも遠くに旅行してみようかな。できれば、あなたを思い出さない街に。