暇すぎて肥満になったわね、造語ってなんか痛くない?、シンカーといえば摂津正、の三本です。

やるべきことはあるけど暇。

こんな状況に最近頻繁になっている。だけれども、この暇は本当の意味での暇じゃない。いつ来るかさえも把握していない課題の締め切りがこの身に降りかかるのを待ちながらの「暇」なのだ。

TLでよく言われていることだが、この暇は宿題が終わっていない夏休み最終日のそれに近い「暇」だ。思えば自分には暇な時間が多かったが、やるべきことのない「真の暇」(以降、だめな方の暇と区別するため「真暇」と表記)を過ごしたのはいつが最後だろうか。真暇が恋しい。真暇を燃やして幸福を生成したい。

しかして、真暇とは幸福なのであろうか?何かをなしてこその人生、何もしないで得られる幸福は、達成感のない空虚な幸福ではないかという考えもあろう。

だが、(そんな考えに)あえて言おう。カスであると。多くのものに追われる現代社会の中で、余暇はこの上なく貴重なものである。しかし、その余暇ですらも別のやるべきことに消化させられてしまう。まして、何者にも責められることのない真暇など果たして存在するのであろうか。それはまさしく現代に顕現した桃源郷である。

人はそこにロマンを求めるのだ。真暇とはロマンそのものである。何かを為す達成感なんて、日常に求めればいい。余暇を用いてなにかを為すなんてことはそれこそ所謂充実した人たちに任せれば良い。僕のような人は真暇を享受することこそ幸福なのだ(と言っても、そう言ってしまうとこのノートを書くこと自体おかしな話になってしまうのだが、課題に追われながら書いているので許して欲しい)。

結局の所何を言いたいかといえば、俺も真暇がほしい。それに尽きる。

さて、ここでnoteを終えようと思ったのだが、まだ700字程度しか書いていないのでここで記事を公開するのもなんかなぁといった感じなので、もう少しだけ書いて見ようと思う。

ここで提起するのが、なぜ真暇の獲得のために努力しないのかということである。ここで努力できる人なら真暇に魅力を感じるひとではないと言って終わり、というのもありなのだが、それでは何故という問いに対しての回答にはなっていないので続けよう。

理由を3つ挙げてみる。

まず1つに、やるべきことの全容を把握していない、というのが上げられる。ゴールがわからないままがむしゃらに突き進むというのは少々無理がある話だ。まずモチベーションが上がらないし、開始コストも尋常じゃなく高くなる。計画を詳細に立てるのも無理だろう。

2つ目は、課題に対する前提知識、つまり勉強の知識が圧倒的に足りていないという点だ。これは能力の低さとも言っていい。知識を身につけるための課題であるから、少々おかしな話と思うかもしれないが、これがなかなかどうして難しい問題なのだ。

それまでの努力に関しての話は置いておいて、よーいどん、で勉強という障害物競走を始めたとする。勉強のできない人は目先の障害につまずいてモチベーションを失っていくが、できる人は達成感という報酬を経て次の障害へと飛び込んで行く。そして、勉強のできない人の大半はその姿を観て卑屈になり、障害(勉強)に苦手意識を持つ(当たり前といえば当たり前の話だが)。

まぁ、そんなこんなで自分に言い訳をしているから前に進めないのである。

最後の3つ目は、忘れた。今思い出してるから待って.......

あ、思い出した。まぁ嘘なんですけど。

今度こそ思い出した。ここまでぐうたらしていたせいで現実と向き合いたくなくないからである。1つ目の話と関連するのだが、今自分はいろいろな課題をため過ぎて、現実を直視するのが怖くなっている。なんだかんだ内々定も獲得できたので、ここで単位を落として留年したら、という恐怖も精神をゴリゴリ削ってくる。こんなメンタルで課題と向き合えない……

セルフマンの明日はどっちだ……

がんばります!