褒められて頑張る世界からの脱出
他人に褒められたい?
良く思われたい?
それとも一緒に笑っていたい?
私は断然最後「笑っていたい」派ですし、笑われていい派です。
褒められるために生きることも、良く思われるために生きることも気が付けば小学校高学年くらいからずっと経験してきて、それは結局自分にとってほとんど価値がないことだと思ったから。
褒められたかったし、価値があると思われたかったし
そういった言葉や評価で自分が良くなる気がしてました。
もちろん一瞬は褒められたかったから、もらってうれしかったはずです。
そして褒めことばがもっと欲しくなったし、それが自分を形成してる気がして集めたくなった。
突然こんなことを思い出したのは、先日自分が予想していなかった
褒められる(でも自分の正当な評価ではないな)という褒め言葉をもらう経験をしたとき
「あ~これは、褒めてる人が結局は他者に対して自分自身をよく見られたいという力みがあるんだな」と感じて
褒めをもらいたい側も、褒める行為をしたい側も表裏一体なんだなと思ったのです。
もちろん心からあふれ出た言葉は別ですし、褒めがいいとか悪いって話ではなく
褒めなきゃも、褒めてもらわなきゃも無駄な力だとということ
今現在の成長した私は
良く見られなくてもなんとも思ってないし
褒められなくても気にしないし
つまりは、ありのままの自分をとても気に入っていることを再確認したのです。
そして、褒めることでもしその方がそれにより自分の居場所を作っているのだとしたら
私にはそう感じたのですが
その力の入り方はいらないし、もっと楽にして大丈夫
と伝えてあげたかった。
結局は、人が自然体でいることは周囲を自然体に導き
自分にとっても周囲にとってもとてもやさしい世界が創られる
と信じています。
だから私が大事にしていることは
いつも自分自身が自分に正直で自然体であること
良く見せようという力は結局は他人への圧力となり自分に返ってくる
そう感じるのです。
あなたが良く見せようとするならば
私もヨソイキの私でいよう
となるでしょう。
だから、ピラティスインストラクターであり、一個人の私は
常に自分自分に還ることを何より大事に大事にしているのです。
それが周りまわって自分に優しさとしてかえってくるからね。
どんな自分も受け入れて素晴らしいと感じたならば
世界はやさしさで溢れるはず
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