普段の生活でも活かせる「弔うという儀式」

他人から受けた不愉快な行為、頭に来る発言、買った商品が粗悪だったこと、仲良くなりたかった人から拒否されたこと、などなど、時間がたっても心をざわつかせ、時にはカラダも疲弊させてしまうような出来事はあります。

それらの行為はどこかで区切りをつけないと、忘れた頃に「こんにちは」とひょっこり顔を出し、あなたの動悸を激しくさせ、行動をぎこちなくさせてしまいます。

さてどうするか。

まず、時間という「日にち薬」は便利なもので、月日が経てば「こんにちは」の頻度も徐々に減っていきます。ただ、この「日にち薬」のよる治療期間も長引けば厄介です。

そこで、意識的に「弔う」という行為を施す必要が出てきます。

別れた彼の思い出を弔う。喫茶店で感じ悪かった店員の行為を弔う。不愉快な仕打ちをされた前の勤め先での思い出を弔う。悲しかった思い出が、思い返せば楽しかったことに思えることも確かにありますが、必ずしも良い思い出に転換させる必要はありません。というのは、生きているうちに帳尻の合わないことはたくさんあるからです。それを分かった上で生きていく必要があるからです。

「嫌なことは一晩寝たら忘れる」という羨ましい方もいますが、ジムで黙々と汗を流したり、普段行ってみたことのないところへ行ったり、週末ちょっとだけ良いお店で食事して普段より好きなだけお酒を飲んだり、風呂場をピカピカに磨いてみたり、意識的に別の目的のためにカラダと意識を消費し、注意する必要があります。お香を焚いて瞑想しながら、嫌な出来事とその記憶を壺の中に封印するイメージを繰り返すのも良いかもしれません。また、起こったことや消し去りたいことを紙に書いてシュレッダーにかけたり。お金に余裕があれば引っ越すというのもありでしょう。

思えば、生きるという行為は、「少しずつ自分を弔っていく行為」でもあります。漫画「エースをねらえ」の宗方コーチが喝破したように「試合にも人生にも必ず終わりというものがあって、1分1秒、確実にそこへ近づいている」のです。そう考えると、日々に起こる出来事は、生きている限り自分自身にとってどれも貴重で珍しい賜りものなのかもしれません。だとすれば、「弔う」という行為は、1日1日のありがたさと、明日への前向きな渇望を与えてくれるポジティブな行為なのかもしれません。

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